10,初陣
紫陽の奢りで回らないお寿司を堪能した群青と柊馬、紫陽の3人は、煌びやかな歓楽街を駅の方へ向かって歩いていた。
乱立する高層のオフィスビル、ブランドショップのショーウィンドウ。退勤後または出勤前の大人達で賑わう飲食店は、宵を過ぎてこそその華やかさが本領を発揮する。
行き交う人の群れは老若男女、喜怒哀楽の風貌様々で構成されているが、皆一様に街の灯りを受けた橙色の顔をしていた。
そしてここに橙より更に赤い顔をした青年が一人。
「柊馬、大丈夫か?」
群青からペットボトルの水を受け取ると半分まで一気に飲み干した酔っ払い、もとい柊馬。
「うう、ありがとう……飲み過ぎた」
「本当に大丈夫かい? あんまり辛いなら車を呼ぶけど」
気遣う紫陽に、本当に大丈夫です、と返す柊馬だがその足取りは覚束ない。群青に肩を借りて何とか立っている状態だ。
「お寿司もお酒も美味しかったもんね。君たち本当にいい顔をするから、店主さんすごく喜んでたよ」
「はい。本当に美味しかったですから……柊馬は勧められた酒全部飲んでこの有様ですけど」
ねー、と歓談しながら足を進める3人。途中、柊馬に追加の水を買うために24時間営業のコンビニエンスストアに立ち寄った。
気怠げな店員から受け取ったレシートを捨て、買い物を済ませた3人が店を出ようとしたときだった。
不意に、紫陽が足を止めた。
後ろを歩いていた群青が柊馬ごとその背中にぶつかるが、紫陽がそれを気に留める様子はない。何事かと群青が怪訝な顔を上げると、紫色の瞳を見開いた紫陽はどこか遠くを見つめたまま硬直していた。
「あ、れは——」
群青が声をかけるより早く走り出す紫陽。弾丸のように飛び出した彼の姿は数秒も経たずに人の波に紛れてしまった。状況に付いていけない群青に、人混みの向こうから紫陽が叫ぶ。
「群青くん、戦闘の準備をしておいて! ヨルが来る!!」
*
突然置き去りにされ呆気に取られていた群青は、肩にのしかかる重みから発せられた呻き声でハッと我に帰った。
「柊馬! おい! 酔っ払ってる場合じゃない! 起ーきーろー!!」
「ん、うわ何、なんだやめろ揺らすな両肩を掴んでガクガクと揺らすな吐く! それ以上やったら吐くから!」
何とか群青を振り払った柊馬は買ったばかりの冷たい水を頭から被った。
深呼吸をして多少落ち着いた様子の柊馬の手を引いて群青は店の脇の路地に入り、数秒前に起こった出来事を話した。
「なるほど……だったら先ずは紫陽さんを追ったほうがいいな。ハウンドを起動して上から探そう」
頭痛を堪えるように眉間を抑える柊馬。お前はそんな調子で大丈夫か、という群青の胡乱気な視線を察した柊馬は、手間取りながらも肩に装着しているホルスターからガラス製の細い筒状の物体を取り出した。
「これはレイセン。簡単に言うと魔法使い向けの超回復薬・レイセンが充填されたオートインジェクターだ」
言い終わると同時に、自身の首にレイセンと呼んだ筒を押し当てる柊馬。ガラスの中の液体がみるみるうちに柊馬の首に吸い込まれていった。
「……っぁ、はぁ、戦闘中に受けた怪我とかヨルの侵食、食らった毒なんかを、イルジオルを使って強制的に回復させる。体に負担が大きいから1回に使える本数は2本までって決まってるんだけどな、だから本当はこんな使い方は良くないが」
軽く頭を振った柊馬の焦点は定まっている。レイセンの効果によって無理矢理に酔いを覚ましたのである。
「よし、いける」
彼が常に背負っている竹刀袋から白い木刀のようなものを取り出した柊馬は、次の瞬間には協議会の制服を着た魔法使いに変わっていた。
群青もまた、手に入れたばかりの己の得物を開く。チェスの駒の様なハウンドが白磁の剛弓へと変化し、強化された視力の反動で眼球の奥に一瞬ピリピリとした痛みが走る。2人の黒いジャケットの左腕には協議会の腕章。爪先で地面を数回蹴った群青と柊馬は煌めく摩天楼を足場に、紫陽の捜索を開始した。
*
探し人は存外に早く見つかった。
賑わいを見せる歓楽街の中心の通りから離れた喧騒の裏側。表の光が届かない暗がり。タワーマンションの建設現場、夜間休工中の立札が置かれた空き地に紫陽の姿があったが、そこにあった人影は1つではなかった。
「紫陽さん!」
地面に降りた群青と柊馬は紫陽のもとへ駆け寄った。
紫陽を守るように囲んで臨戦態勢をとる弓と刀。
もう1つの人影に視線を移した群青が捉えたのは、人影というには些か奇妙な、その大きさからかろうじて人なのであろうと思える程度の、黒いモヤの塊であった。絶えず蠢動する気体とも液体とも取れない黒い物質の塊。それが動く度に、腕や髪といった人間のパーツらしいものが見え隠れしていた。
「群青くん、柊馬」
「紫陽さん、あれは一体何ですか」
刀を構えたままの柊馬が緊張した声で問う。彼の問いに口を開こうとした紫陽は、咄嗟に別の言葉を口にしていた。
「2人とも気をつけて!」
黒いモヤから伸びた人間の腕。黒く変色した指先が一直線に振り下ろされると同時に、その軌跡に沿って、比喩抜きに空間が裂けた。そして暗い裂け目を内側からさらにこじ開けるように現れたのは、夜行獣。鋭く巨大な爪を持つ体長7mほどの夜行獣が、人間の言葉では音にできない咆哮をあげた。
ビリビリと夜の空気を揺らす夜行獣の咆哮に群青は咄嗟に耳を塞ぐが、耳どころか全身に襲い伝わる振動に鼓膜は悲鳴を上げる。それは柊馬と紫陽も同様で、苦悶の表情で歯を食いしばりながら夜行獣を睨みつけていた。
発生した夜行獣と交代と言わんばかりに、黒いモヤの人影は足元から霧散して消えていく。黒いモヤが完全に消える寸前に群青の目に僅かに映った顔の輪郭、その唇の端は、心底愉快そうに釣り上がっていた。
「待っ……」
「深追いは危険だよ、今はそれよりも」
咄嗟に黒いモヤのいた方へ体を向ける群青を紫陽が制止する。今彼らが相手にすべきは既に消え去った者ではない。
巨大な口から涎を垂らす夜行獣を中心に暗い霧が発生し、周囲を飲み込んでいく。
——ヨルが始まる。
「群青くん、柊馬、あの夜行獣の討伐を。他の夜行獣が発生しヨルが拡大する前に、早く」
静謐に、しかし凛とした声色で紫陽が告げる。目の前でヨルが発生した以上、協議会の魔法使いがやるべきことはただ一つである。
ヨルの消滅に必要な条件は夜行獣の殲滅とされているが、実のところそれは少し語弊がある。正確にはヨルの発生の元となった最初の一体の討伐。それによりヨルは消え、そこから発生した夜行獣も活動を停止するのである。
しかし最初の一体と他の夜行獣は外見にも戦闘能力にも全くの差がなく、探し出すことはほぼ不可能である。見つからないものを探すよりも、まとめて倒してしまった方が無駄な手間を省ける。そのために、ヨルへの対処を行う魔法使い達には全ての夜行獣の殲滅を求めているのである。
そして、今3人の目の前にいるのは紛れもなく最初の一体。
「……柊馬、群青くんのサポートをお願いできるかな」
「そのつもりでしたよ、初陣は華々しくやらせてやらないと!」
紫陽の言葉に歯を見せて笑った柊馬は群青の肩をバシバシと叩いた。コイツまだアルコールが抜けていないのではないか。
「痛いんだけど」
「言い返す元気があるなら大丈夫だな。お前の背中と紫陽さんは俺が守るから、好きなように暴れていいぜ」
何とも頼もしい柊馬の言葉に小さく笑って頷いた群青は、深く息を吐いた後、群青色の弦を引いた。
*
紫陽から知らせを受けた協議会本部の迅速な対応により、既に周囲の民間人の避難は完了していた。
数分前までの街の喧騒は消え、今は大都会の中心には似つかわしくない獣の咆哮と破砕音、そして時折流星のように辺りを照らす群青色だけがそこに存在していた。
夜行獣を正面に捉えた群青は、右手に生成された群青色に光る矢を放った。群青本人の技量に加え、ハウンドによって破壊威力と射出後の速度に強化が施された矢は、矢というよりも、もはや弾丸といった方が正しい。
巨体の喉奥を真っ直ぐに貫き、脳幹と周辺組織を粉砕するはずだった矢はしかし、夜行獣の堅牢な牙によって噛み砕かれた。
その巨躯からはとてもではないが想像も出来ない反応速度に、群青は目を見開いた。続け様の突進と同時に振るわれた夜行獣の凶爪を間一髪で避けた群青は、低姿勢のままさらに距離を取った。最中に放った複数の矢が夜行獣の左右の腕と尾に突き刺さり、獣が小さく唸り声を上げる。
多方向からの射撃に獲物の位置を定めあぐねている夜行獣の背。そこに向けて放たれた群青の渾身の一矢は、彼の指が弦を弾いた直後に、無造作に振るわれた尾によって叩き潰された。
「群青!」
凶悪な質量で振るわれる夜行獣の尾。蛇のようにしなったそれが群青に到達する直前に切り落としたのは赤褐色の刃をもつ白磁の刀。
刀の主である柊馬にハンドサインで己の無事を伝えた群青は足を止めぬまま思考した。
恐らく、この夜行獣に視力はない。群青の足では全力で疾走したとしても人の目を撹乱できるほどの速度は出せないが、群青が移動している間に追いかけてくる様な動きは見られなかった。加えて丸腰の紫陽に興味を向ける様子もなく、柊馬に対しても彼がハウンドを起動するまで彼の存在を認識しているようには見えなかった。しかし、群青の放った矢には反応を見せている。夜行獣にとって餌である人間よりも、細く短い矢に、常に意識を向けている。
「……音と、触覚。それから多分イルジオルに反応してる」
夜行獣の爪を弓の曲面に滑らせて躱した群青はぽつりと呟いた。
「俺の位置はさっきみたいに誤魔化せても、射った瞬間に感知されて防がれる……だけど」
目の前の獣を己の弓でどう殺すか、射手の思考に沈みかけていた群青は、己が魔法使いであることを思い出して思考を放棄した。
「柊馬!! 時間を稼いで欲しい。20秒でいい、そいつをそこに縛り付けておいてくれ」
時折赤褐色の刃を閃かせながらも防御に徹している柊馬に叫ぶ。了解、その2文字を柊馬が言い切るより早く、群青は駆け出していた。目指すは建設途中のタワーマンションの骨組み、鉄骨の足場。1階層分約3mの高さを、助走をつけた一足で跳躍して、柱を蹴って、左手で掴んで、登っていく。
「はっ……はあ、はは。いい眺めだな」
目的の高さまで到達した群青を称賛するように、高所特有の風が彼の前髪を弄ぶ。生憎、ヨルに吹く風は本来の夜が持つ涼やかさなどは毛ほども持ち合わせてはいないのであるが。
群青の眼下では柊馬の赤褐色の刀が夜行獣の爪と火花を散らしていた。
10階分を駆け上がった群青は肺の奥で深く呼吸をし、膝をついて真下に向けて弓を構えた。
矢を番える動作をする。1秒前まで空を掴んでいた群青の左手には、鋭く巨大な、鉛を凌ぐ超密度の矢が握られている。先程までの鉱物の結晶を削り取った様な無造作なそれではなく、例えるならば蒼海の波をそのまま鏃に鋳造した様な、曲線で飾られた矢。だが、それだけではない。群青が弦を引き続ける間、小型の矢が次々と生成されていく。
群青の見開いた瞳と呼応するように、淡く発光する弓の弦と曲線の矢。大規模なイルジオルの励起——魔法の発動の気配を察知した夜行獣が顔と思わしき部位を群青に向けるが、もう遅い。
群青色の稲妻、一呼吸遅れて大気を揺らす轟音。
全身が軋むほどの力で放たれた群青の矢は、夜行獣の頭蓋を垂直に貫いた、だけでは終わらなかった。最初に夜行獣に到達した曲線の矢に追従する形で小型の矢が次々に夜行獣の身体に叩き込まれる。頭蓋への一撃が既に致命傷となっていた夜行獣の巨躯は、群青色の流星雨と見紛う鏃の猛攻によって徹底的に破壊され尽くされた。
鯨井群青 20歳 男性 イルジオル置換率5.4%
使用する武器は弓型ハウンド:キャリバン
魔法使いである群青の性質は、最速の射手だけに留まらない。
執拗なまでの殺意をもって、確実に獲物を仕留める砲弾と、追跡機能付きミサイルを再現した矢。
協議会内でも屈指の暴力性を誇る砲台、それこそが鯨井群青という魔法使いである。
*
ヨルの霧が晴れ、普段の様子を取り戻しつつある街。激しい戦闘の跡を色濃く残す空き地で紫陽と柊馬は群青の帰還を待っていた。
「無事に終わってよかったね。……でもこれはちょっとやり過ぎかな」
夜行獣が消失した地点には半径2mのクレーターが出来上がっていた。そしてちょっとだけ逃げ遅れて余波に巻き込まれた柊馬の髪の毛先はちょっとだけ焦げていた。
ヨル災害によって出た損害を賠償するのは協議会であり、そこには言うまでもなく魔法使いによるやむを得ない破壊行動も含まれる。協議会のお財布のために、不要な破壊は謹んでいただきたいものである。
「まあそこはこれから要勉強ってとこですね……ん? あれ? お、おおおおいおいオイオイオイオイ嘘だろ群青……ッ」
突然に悲鳴を上げた柊馬に何事かと顔を上げた紫陽の顔から血の気が一瞬で消え失せた。
2人の視線の先では、地上約30mの足場に立っていた群青の体がふらりと倒れ、今まさに自由落下を開始しようとしているところであった。
紫陽が指示するよりも早く、盛大な舌打ちと共に走り出した柊馬。群青のいる鉄骨を蹴った柊馬は、最少の跳躍回数で限界まで高度を上げた。空中で群青をキャッチした柊馬は落下の勢いを殺しきれずに群青ごと墜落した。
「痛ってぇ……おい、無事か群青!?」
己の上で力なく倒れている群青を起こし、両肩を掴んでガクガクと揺さぶる柊馬。三半規管への大ダメージにくぐもった悲鳴を上げながら群青は目を開いた。ほっと息を吐いて安堵する柊馬と紫陽の顔を、虚ろな目で眺めた群青は——柊馬の顔面に向けて矢を射った。
「は」
否、正確には、柊馬が背を向けている、夜行獣の発生地点に向けて矢を射った。
「おい、やめろ群青。もうヨルは終わった。夜行獣もいない。お前が倒したんだろうが」
柊馬が制止するがその声は群青の耳には届いていない。極小の動作で、傍目からは矢を番える姿すら確認できないほどの速度で、淡々と、何本も、何本も群青色の矢を放っていた。
「まだ、残ってる、殺さなければ、殺さなければ、まだ、」
「群青くん!!」
ぱんっ、と。小気味の良い破裂音を立てて、紫陽の右手が群青の左頬を叩いていた。
「あ、あ……紫陽、さん……?」
「群青くん」
「……すいません。俺、ちょっと頭が混乱してたみたいで、その、」
動揺した瞳でしどろもどろに紡がれる群青の言葉を、柔らかい笑みを浮かべた紫陽が遮った。
「きっと初めての実戦で疲れたんだよ。大丈夫、よくあることだよ。それより怪我はない? 早く協議会に帰ろう」
ほら柊馬も、と急に会話を振られた柊馬は詰まった言葉を飲み込んで2人のもとへ駆け寄った。
魔法使いの武装を解いた群青と柊馬、紫陽の3人は、今度こそ帰路を歩み出した。




