第86集 登雲山の山賊
意識を取り戻し目を開けると、上の階の下地が天井に見えた。「ここは何処?」などと言う月並みな台詞は、口に出すのも憚れた。俺はあのまま気を失い、登雲山の山寨に運ばれたのだろう。そしてこの天井の造りは、所謂踏み天井と呼ばれる構造の家屋で、日本でも古民家などで見られる形式だ。
身体を起こすと、気配がしない所から声を掛けられてビクッと驚いた。
「お前さん、本当に人間かの?」
声の主は、神医と謳われた安道全だった。
「み、見ました…よね?」
「診察せねばならんので、無礼を承知で診させてもらったわぃ。決して“見”た訳ではなく、あくまでも“診”させてもらったのじゃ」
俺は胸を見られたのを気にしたのでは無く、傷口が治る所を見られたのかと心配したのだ。
「あ、えっと…そうじゃなく、傷口を…見られましたよね?」
「儂が診た時には、既に傷口なんぞ無かったわぃ。衣服には斬られた跡と、べったりとお前さんの血が着いておったがのぅ。傷が塞がったのかぃ?」
「…」
「ま、ええじゃろう。お前さんは大宗師じゃ。常人の常識では計れまぃ」
「ありがとうございます。この事は…」
「分かっておる。誰にも言わんわぃ。医者には、守秘義務があるでのぅ」
俺は深く頭を下げて感謝すると、「今度、美味い酒でもご馳走しておくれ」と言って笑いながら退室して行った。俺は大きく背伸びをし、起き上がって部屋を出た。良く言えば室内は、全体的に古民家を更に古くした感じだが手入れが行き届き小綺麗にされていた。
室内を物珍しそうに見回していると、慌てて駆けつけて来た者がいた。
「太后、お目覚めとの事で安堵致しました。お守り出来ず万死に値します。どうか私に罰をお与え下さい」
息を切らせて駆け付けて来たのは、王進であった。
「王進殿、私は大丈夫ですから…。あなたもお歳ですので、走ったりご無理をなさらぬよう…」
俺が王進を年寄り扱いすると、少し不満な色を見せた。
「あははは。冗談、冗談よ。私と王進殿の仲じゃないの。相変わらず、その畏まった話し方は、どうにかならないのかしら?」
王進と2人で笑っていると、40歳を超えたであろうスタイルの良い美しい女性が話しかけて来た。彼女は、顧大嫂だった。
「うわぁ!姐姐(姉さん)、久しぶり」
「太后娘娘に拝謁致します」
そう言って、恭しく顧大嫂は挨拶をして来た。
「もう、姐姐(姉さん)まで止めてよね」
高貴な太后様から姉さんだなんて光栄だわ、と言って顧大嫂は笑い出し、俺もつられて笑った。
ふと、矢を射て救ってくれた美少女が目に入った。
「私を救ってくれた恩人のあの人は誰ですか?」
「ん?ああ、小春!太后様がお呼びだよ!!」
足音を立てずに近づいて来るその佇まいから、相当な力量の持ち主だと一目で分かった。その美少女は俺に無言で頭を下げると、そのまま立ち去って行った。
「全く、相変わらず愛想が無いねぇ。そう言えば、父親の花栄の奴もあんな感じだったよ」
「えっ!?ちょっと待って!まさか、花栄の子なの?」
花栄の子供と言えば、1人しかいない。花逢春だけだ。花逢春は…花逢春は、花栄の息子だぞ!
「あいつ、あの美顔でしょう?ある時、あの子の母・崔氏と叔母(花栄の妹)の花宝燕と一緒にいる時にね、王朝恩って言う宣慰使に見初められちまってね。それ以来、付き纏われて迷惑してるのさ」
「それって、ストーカー…」
「ストー、何?」
あの美少女が男だなんて、そんな神様の悪戯ってある?声変わりもまだなのか、トーンも高くてあれでは男だと言っても誰も信じてはくれないだろう。俺も自分が男だった時の心を呼び覚ましたみたいに、彼の美しさに息を飲んだ。危なかった。もう少しで、本気で惚れてしまう所だった。彼は、元の世界にいたどんな美少女アイドル達よりも美しかった。
「男でも構わないと思わせるほどの美しさ…罪よねぇ」
顧大嫂らは、彼を幼い頃から見て来ているので、耐性が付いているのだろう。あれほどの美少女?ぶりでも、他の子供達と分け隔て無く接している。贔屓目に可愛がられそうなものなのに、と思っていると見慣れない男が現れて拝礼した。
「太后様には、お初にお目にかかります。欒廷玉と申します。鄒潤から譲られて、この登雲山の首領をしております。以後、お見知りおき下さい」
欒廷玉は、かつて祝家荘と梁山泊が争った時に祝家の武芸師範として争った相手だ。孫立の兄弟子に当たり、扈三娘の兄である扈成の師匠でもあり、武芸の腕は相当なものであった。
ここは水滸後伝の記述をよく覚えている。水滸伝には欒廷玉が死んだと言う描写は無く、宋江が「欒廷玉と言う惜しい男を亡くしたのは、残念でならない」と言う台詞があるので、欒廷玉は混戦のうちに戦死したのだろうと想像されるのみであった。
しかし水滸後伝では、欒廷玉はこの混戦の中を無事に逃げ延びており(と言うか実は、弟弟子である孫立が混戦の中で逃していた)、後に登州統制使となった欒廷玉が登雲山の討伐に来たのだが、弟子の扈成に説得されて仲間となっていたのだ。
この登雲山には首領である欒廷玉をはじめ、官職を辞した孫立、孫新、顧大嫂、扈成、阮小七、黄信、花逢春、鄒潤、杜興、楽和、金大堅に安道全らかつての梁山泊の残党達が集い一大勢力を築いていた。これに先に着いた王進、凌振、控えめながら俺が加わる事となった。
「呼延鈺と徐晟は、まだ着いて無いみたいね。無事だと良いけれど…」
俺は、共に逃げた2人の安否が気になって仕方なかった。




