第三十六話 エルフ集落の異端者
「――やってくれ」
神爺は、祥吾の額に小さな手を当て、次にきな子の額に触れた。
「目を閉じよ。
決して、恐れに飲まれるなよ……祥吾」
祥吾は目を閉じた。
次の瞬間――
世界が、反転した。
音が消え、光がねじれ、色が溶けた
足元が消え、落ちているのか、浮いているのか分からない
ただ、何かに導かれるように意識が流れていく
やがて、星のない夜が、朝になっていくように
徐々に周囲の色が目覚めていった
はじめに祥吾の目に映ったのは、
幾重にも重なる梢が天蓋のように空を覆うている景色だった
差し込む木漏れ日はどこか青白く、ひんやりとした静寂が満ちている。
その景色を見つめる視線は、祥吾自身の意思とは無関係に
ゆっくりと下へと向けられた。
そこには、木々の幹を傷つけぬよう組まれたいくつかの住まいがあった
枝の高さに合わせて段を作り、蔓と薄い木板で壁を編み
屋根には苔が敷かれ、遠目には森そのものが
少しだけ形を変えたようにしか見えないものにしていた
視線が、そして視線の主である小さな身体が動き出す
住まいの集まる一画を通り抜け、さらに鬱蒼とした森の奥へと進む
そこには、涼やかな音を響かせて流れる川があった
川面に近づき、抱えていた木製の水樽を両手でしっかりと掴む
視線が川面と水樽を交互に捉えた
水を汲むのだ――祥吾がそう思った刹那
視界が激しく上下に揺れ、川面が迫ったかと思うと
一気に冷たい水中へと没した。
「げほっ、げほっ……!」
気道に水が入ったのか、視線の主が苦しげに激しく咳き込む
荒い呼吸のたびに、小さな胸が痛むのが祥吾の意識にそのまま伝わってきた。
這い上がるようにして岸辺に手をかけたとき、その声は冷酷に響いた。
「……汚れた血の、忌み子が」
声のした方を見る
そこには、数人の子どもたちが立っていた。
「そのまま、流れていっちまえ」
一人が小石を投げたのをきっかけに全員が投げ始める
いくつかの小石があたり、苦痛の声が漏れるが
それ以外の反応はない
転げていた水樽を拾い、子どもたちがいないかのように
また、水を汲み始める
その手に、足に、背中に小石が当たる
視界に入る手には、血の滲んだ新しい傷と
かさぶたが出来た古い傷がいくつもあった
「そのまま、水に流されちまえ!」
一人が足元の小石を投げつけた
それを合図に、残酷な愉悦に火がついた子どもたちが、次々と石を投げ始める。
いくつかの小石が額や肩に硬い音を立てて当たり
喉から小さな苦痛の声が漏れた
けれど、彼女はそれ以上の抵抗も、泣き叫ぶこともしなかった。
ただ、泥に転がった水樽を拾い上げ
そこに誰もいないかのように、再び黙々と水を汲み始める。
その細い背中に、腕に、容赦なく石がぶつかる
視界に映り込両手には、たった今血の滲んだ新しい生傷と
赤黒いかさぶたになった古い傷跡が、無数に重なり合っていた。
(この子が、きな子だ――)
祥吾は確信した
自分は今、きな子の記憶の中にいる
この小さな身体が、これまでどれほどの理不尽と悪意に晒されて生きてきたのか
きな子の皮膚が感じる痛みが
その胸の凍るような孤独が
祥吾の意識に直接流れ込み
抑えきれない怒りとなって彼の魂を翻弄した。
子どもたちの耳は、すらりと長くて、葉先のようにきれいに尖っている
祥吾が覚えているきな子の耳は、そこまで長くなく、先も丸みを帯びていた
きな子の肌は、温かみのある淡い褐色だが
子どもたちは青みがかった白で、瞳だけが同じ緑色をしている
それが、一斉に憎々しげな視線を向けていた
水を汲み終えたきな子は
子どもたちに一切の視線を向けず
ただ足早にその場を立ち去ろうとした。
だが、水の重さによろめき、すれ違いざま
すぐ傍らにいた子どもの肩に軽くぶつかった
途端に、その子どもは切り裂くような悲鳴を上げ、きな子を突き飛ばした
水樽が手から離れ、汲んだばかりの水がぶちまけられる
その上にきな子は倒れた
「視たな! おまえ、今、僕の心を視ただろ!」
突き飛ばした子どもは、怒りというよりも、むしろ深い怯えを声に滲ませて叫んだ
きな子はのろのろと身体を起こし、言葉の代わりに小さく、必死に首を横に振った。
「嘘をつくな! 大人が言ってたぞ
お前は人の心を盗み見る不浄の者だって!
言おうとしたことを、いつも先回りしてやりやがって!」
その言葉に、きな子の彼女の唇が絶望に震え
その震えは、痩せ細った身体全体へと広がっていく
子どもたちの嗜虐欲が再び燃え上がり
言葉の暴力だけでなく、肉体的痛みを与えようと足が踏み出された
祥吾は思わず、きな子の前に飛び出そうとしたが
そのための体も、手も、足もなく、何の役にも立たなかった
目の前の悲劇をただ見届けることしかできない絶望に胸が引き裂かれる
その時だった
「何をしている!」
頭上から、威圧するような冷徹な声が響き渡った
現れたのは、見事な銀髪を後ろで結わえた
体躯のいい大人だった
背には、精緻な細工が施された長弓が背負われている
子どもたちと同じ耳、肌の色、瞳をしていた
子どもたちは一瞬で顔をこわばらせ
互いに目配せをしながら、その場から離れていった
彼らを追い払った男の視線が、ゆっくりときな子へと向けられる
きな子はその男を見上げた
きな子の目を通じて、祥吾もその男を見た
優しい言葉がかけられるのではないか――
そんな一抹の希望は、男の放った次の言葉によって叩き潰された。
「……忌み子が、人間の血を引くハーフエルフなどという存在を
純血の森の住人である我々エルフが、その内に抱えること自体が大いなる恥なのだ
お前の母ともども、我々の前に、その姿を晒すな!」
冷ややかな言葉を残し、男はきな子を置き去りにして去っていった。
見ることすら拒否するように
きな子は、転がった水樽を拾い上げ、重い足取りで我が家へと向かった
たどり着いたのは、集落の清涼な住居群から遠く離れた
今にも崩れそうな、暗く湿った小さな小屋だった
中に入ると、薄暗い部屋の奥、
粗末な藁布団の上に一人の女性が横たわっていた
きな子の母親のようだった
彼女の肌は、祥吾が見た子どもたちや男と同じだったが
その顔色は土色に近く
死の影が濃く付きまとっているように見えた
「……また、苛められたのですか」
母親は掠れた声で囁き、きな子の濡れた頬に、骨張った細い手を添えた
きな子はただ、母の手のひらに縋るように顔を寄せ、小さく首を振る
言葉はなくとも、母の胸にはきな子の痛みがすべて伝わっているようだった。
「ごめんなさいね……私のせいで、あなたをこれほど苦しめてしまう
人間の血を引くハーフエルフというだけでも誹りをうけてしまうのに
あなたには人の想いを受け止めてしまう、哀しい力まで宿ってしまった……」
母の言葉ときな子の記憶の断片が、祥吾の意識の中で現実として露わになっていく
純潔を重んじるエルフたちにとって、人間との間に生まれたきな子とその母は
「汚れた血」そのものだった
加えて、他人の思考を無意識に察知してしまうきな子の能力は
清らかであると自負するエルフたちの心の奥底にある
醜悪な本音を暴きだされかねない「悪魔の力」として、恐れ忌み嫌われていた
それでも、きな子を、見下している人間に見られることを嫌って
母子を追放せず、飼い殺しのように集落に留めていた
第三十五話から数話、きな子の過去の話なので、少し重い内容が続きます
けれど、この作品の核は、これまでと同じコメディです
また、元の様に戻りますので、お見捨て亡きようお願いしますm(_ _)m




