扉の向こう側の人間たち
その足音は、感染者のものじゃなかった。
ばらばらじゃない。
無駄がない。
数人が呼吸を揃えて移動してきた時の音だった。
六花が目を細める。
「人間」
「それ助かった感じ?」
花音がすぐ聞く。
「全然」
六花は答えた。
「むしろ嫌」
廊下の向こうで、短い無線音が鳴る。
続いて、低い声。
「対象反応を確認」
花音が息を呑む。
「……対象?」
「心晴ちゃんのこと?」
「たぶん」
湊が言う。
その答えを裏づけるみたいに、端末室の扉の向こうで誰かが静かに止まった。
「中の人間へ告ぐ」
女の声だった。
冷たい。
怒鳴っていない。
でも逆に、それが気味悪い。
「対象を引き渡してください。不要な接触は避けたい」
花音が顔をしかめる。
「いや、もう言い方が完全に無理なんだけど」
「静かに」
六花が言う。
湊は心晴を見る。
心晴はすでに顔色が白い。
父の名前を見た直後に、今度は“対象”として呼ばれる。
普通に立ってるだけでもきついはずだった。
扉の外の女が続ける。
「抵抗した場合、接触者は処理対象に切り替えます」
その言葉で、六花の目つきがはっきり変わった。
「やっぱ敵だ」
短く吐き捨てる。
花音が小さく言う。
「ちょっと待って、あの、救助とかじゃなくて?」
「救助なら“処理”とか言わない」
湊が答える。
女の声がもう一度響く。
「返答を」
六花が扉の横に立ち、湊へ視線だけ寄越す。
通じた。
左右に散る。
湊が心晴と花音を机の陰へ寄せる。
心晴はまだ呼吸が浅い。
でも気を失ってる場合じゃないことだけは、たぶん本人が一番分かっている。
「心晴」
「……なに」
「動けるか」
「動く」
「よし」
そのやり取りの直後、扉のロックが外部から解除されかけた。
だが心晴の認証で開いた区画だからか、完全には通らない。
短いエラー音。
その隙に六花が中央机を蹴って扉前へ滑らせる。
「三秒」
「何が」
花音が聞く。
「持つ時間」
返した瞬間、扉が内側へ強く叩かれた。
がん、と重い音。
続けて二撃目。
机が少しずれる。
「っ、ほんとに三秒じゃん!」
「正直でしょ」
六花が言う。
湊は端末室の奥を見る。
別の出入口。
点検用か搬送用の小通路に繋がる白いスライド扉があった。
「逃げ道」
湊が言う。
心晴がすぐ振り向く。
「そっち、搬送路かも」
「開く?」
「……たぶん」
「その言い方やめてって!」
花音が言う。
「今ほんとに心臓に悪い!」
三撃目で机がさらにずれた。
扉の隙間から黒い銃口みたいなものが覗く。
「伏せて!」
六花の声。
次の瞬間、扉越しにスタン弾のようなものが撃ち込まれた。
机に当たって火花が散る。
「うわっ!」
花音がしゃがみ込む。
六花はもう完全に“戦う側”の顔になっていた。
でも相手は人間だ。
しかも武装している。
「六花、正面はきつい」
湊が言う。
「知ってる」
「じゃあ」
「抜けるよ」
心晴が搬送路側の扉パネルへ走る。
指を置く。
一秒。
青。
ほんの一瞬だけ、全員がもうそれに慣れ始めているのが少し怖かった。
扉が開く。
中は細い搬送用通路。
明かりはさらに少ない。
「行け!」
六花が言う。
花音を先に押し込み、心晴が続く。
湊がその背を見送り、最後に六花を見る。
「来い」
「あとで」
「六花」
「行けって」
その言い方で、湊は一瞬だけ真壁進を思い出した。
教師の声。
行け。
それが嫌だった。
「死ぬなよ」
口から出る。
「命令?」
六花が聞く。
「お願い」
「……それなら聞く」
その一瞬だけ、六花の口元がわずかに動いた気がした。
湊は搬送路へ飛び込む。
直後、背後で端末室の扉が完全に破られる音。
搬送路は狭く、空調も強かった。
消毒液と金属の匂いが混ざっている。
足音が響く。
花音が前を走りながら息を切らす。
「ねえ、これどこに出るの!」
「知らない!」
心晴が返す。
「でも、研究区の搬送路なら管理系の通路に繋がるはず!」
「“はず”多すぎるって!」
「分かってる!」
そのやり取りにかぶせるように、後ろで短い衝突音。
六花がついてきた。
ちゃんと来た。
花音が振り返る。
「六花ちゃん!」
「前見て」
「はい!」
しばらく走った先で、搬送路が左右に分かれる。
心晴が立ち止まりそうになる。
その一瞬の迷いに、六花が低く聞く。
「どっち」
「右」
「根拠」
「表示」
心晴が壁の小さな案内灯を指さす。
「中央管理補助ライン」
六花が一瞬だけうなずく。
「十分」
右へ切る。
だが、通路の奥から今度は別の足音が近づいてきた。
重くない。
揃った歩調。
挟まれる。
「前にもいる!」
花音が言う。
通路の向こうに、黒い装備の人影が現れた。
フルフェイスではないが、防護マスクと軽装甲。
先頭に立つのは、短い髪の女だった。
端末室の外で声をかけてきた相手だと分かる。
霧原沙耶。
彼女は四人を見て、ほんの一拍だけ目を止めた。
その視線は人を見るものじゃない。
確認するものだった。
「対象確認」
その声で、花音の背筋に寒気が走る。
「やだ、ほんとにその言い方なんなの…」
「下がって」
六花が言う。
沙耶は銃口をわずかに下げたまま、静かに言った。
「対象を渡して」
「断る」
湊が即答する。
「不要な損耗です」
「知るか」
「そうですか」
その返しに感情はなかった。
だから余計に怖い。
六花が一歩前へ出る。
「退いて」
「命令です」
沙耶が言う。
「感情は要りません」
六花の目が少しだけ細くなる。
「それ、そっちの都合でしょ」
次の瞬間、両方が同時に動いた。
沙耶の後ろの隊員が射線を取ろうとする。
六花は横へ切って壁を使い、相手の腕を打つ。
湊は花音と心晴を背中で押して、左の保守ハッチへ押し込もうとした。
「そっち!」
心晴が言う。
「小さいけど抜けられる!」
花音が半分泣きそうな顔で叫ぶ。
「何でそんなの知ってるのもう!」
でも体は動いていた。
保守ハッチのレバーを引く。
狭い。
でも通れる。
六花が沙耶と一瞬だけ正面でぶつかる。
似た動きなのに、迷いの向きが違う。
沙耶は対象を回収するために。
六花は仲間を逃がすために。
「行け!」
六花が叫ぶ。
湊が花音を押し込み、心晴が続く。
自分も入る直前、六花が後ろへ飛び退くのが見えた。
沙耶の一撃が壁に当たり、火花が散る。
狭い保守シャフトの中は、立って進けない。
膝と手で進むしかない。
背後の音がやけに近い。
花音の声が震える。
「これ、ほんとに合ってるの!?」
「今さら引き返せない!」
心晴が言う。
「私もそう思う!」
湊は後ろを振り返れないまま、ただ前へ進む。
狭い。
息苦しい。
でも、止まれない。
やがてシャフトの先に薄い光が見えた。
出口だ。
四人がそこから転がり出るように抜けた先は、研究区の外周に近い保守通路だった。
一般学区と研究区を隔てる白い連絡橋の外側。
下には海が見える。
風が強い。
「……っは」
花音がようやく息を吐く。
「ほんとに心臓やばい…」
六花が遅れて出てきて、すぐにハッチを閉めた。
後ろからはまだ音がする。
でも少しだけ距離ができた。
誰もすぐにはしゃべらなかった。
心晴だけが、自分の持っている端末を見ている。
そこにコピーされたファイル群。
父の名前。
回収対象。
全部が重なって、ようやく一つの形になり始めている。
そして、その顔を見て、湊は分かった。
ここから先は、ただ逃げるだけじゃ済まない。
心晴が、自分を切り離そうと考え始める顔をしていた。
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