誰も助けに来ない
白い廊下の奥から聞こえた音は、すぐには止まなかった。
ぎ、……ずる。
ぎ、……ずる。
何か重いものを、床の上で引きずるみたいな音。
規則的ではない。
でも、生き物の気配がある。
六花が片手を上げた。
止まれ、の合図だ。
四人ともその場で動きを止める。
扉は半分ほど開いたまま。
白い廊下の冷たい空気だけがこちらへ流れてくる。
花音が小さく息をひそめた。
「……入るの?」
「ここまで来て閉める?」
六花が聞く。
花音は口を閉じる。
聞いた自分でも、その答えがないのは分かっている顔だった。
心晴はまだ認証パネルの前に立っていた。
自分の指先を見ている。
さっきまで扉の向こうにあった壁を、自分が開けたのだと、遅れて理解しているみたいだった。
「心晴」
湊が呼ぶ。
心晴がゆっくり顔を上げる。
「入るぞ」
「……うん」
六花が一番に踏み込む。
警棒を構え、視線を左右に流しながら慎重に進む。
湊がその少し後ろ。
花音と心晴は並び、その後ろをついていく形になった。
廊下に入った瞬間、音が少しだけ変わる。
靴底が硬い床を踏むたび、小さく空間に返ってくる。
一般学区の校舎よりずっと響く。
壁には一定間隔で扉が並んでいた。
どれも曇りガラスの小窓つき。
診察室、検査室、試料保管、観察室。
名前だけ見れば医療施設だ。
でも、どの扉も人を迎えるための顔をしていない。
入ることを前提にしていない、閉ざされた場所の顔だった。
「……なんか、病院っていうより」
花音が小声で言う。
「実験室って感じ」
「たぶん近い」
心晴が返した。
その言葉のあと、花音は少しだけ自分の肩を抱いた。
廊下の先の角を曲がる。
そこから先は左右に分岐していた。
案内表示の一部は消灯していて、読めるのはごく一部だけだ。
六花が壁の案内板を見た。
「右が管理端末室。左が病棟区画」
「病棟」
花音が眉をひそめる。
「学校の中にある言葉じゃなくない?」
「ここ、もう学校じゃない」
湊が言う。
その一言に、誰も否定しなかった。
また、音がした。
今度は少し近い。
ぎ、……ずる。
そのあと、小さく何かがぶつかる音。
六花が右手を少し下げる。
「病棟側」
「行くの?」
花音が聞く。
「端末室じゃなくて?」
「端末室は閉じてる可能性が高い。病棟側なら開いてる部屋から情報拾える」
「拾い方がもう怖い」
「知ってる」
六花の返事は相変わらず短い。
でも、“怖くない”とは言わないあたりが少しだけ優しかった。
左の病棟区画へ進む。
ガラス張りの観察室。
ベッド。
空の点滴スタンド。
床に散らばるカルテ端末。
どれも、ついさっきまで人がいたみたいに生々しい。
心晴がある部屋の前で足を止めた。
曇りガラス越しに、倒れた椅子が見える。
壁にはモニター。
その下に、まだ電源が生きている小型端末がひとつだけ点滅していた。
「何だ」
湊が聞く。
「分からない……でも」
心晴はその扉の横のパネルに手を伸ばした。
認証は不要だったらしく、すぐに開く。
部屋の中は狭かった。
個室の診察室というより、簡易的な観察記録室。
机の上には開いたカルテファイル。
端末の画面はスリープ寸前で、何かのグラフが表示されている。
六花が部屋の中を素早く見てから言う。
「三十秒だけ」
「短い」
花音が反射で言う。
「一分」
「増えた」
「今のうちに」
心晴が端末へ近づく。
花音は入り口近く、湊はその横、六花は廊下側を警戒した。
画面に触れると、スリープが解除される。
表示されたのは観察記録だった。
番号。
被験体。
段階移行。
投与量。
何を意味するのかまでは花音には分からない。
でも、読めてしまう単語だけで十分すぎた。
「……やだ」
小さくこぼれる。
心晴は画面を見つめたまま、唇をきつく結んだ。
「やっぱり……」
「何」
湊が聞く。
心晴は一度だけ息を吸う。
「発症段階の記録がある。噛傷だけじゃない。血液接触、飛沫、組織暴露……条件が複数ある」
「組織、って」
花音が聞く。
「言わなくていい」
「いや、言う」
六花が振り返らずに言う。
「知らない方が死ぬ」
心晴は頷いた。
「血液とか、体液に近いものに触れるだけでも危険な可能性がある」
「可能性、ね」
六花が言う。
「今回は正しい方?」
「たぶん」
「やめてその言い方!」
花音が思わず声を上げる。
「いやほんと、今ので“たぶん”はやだって!」
その時だった。
廊下の向こうで、がたん、と何かが倒れる音がした。
六花の体が即座に構えへ入る。
湊も反射で花音の肩を引いた。
心晴の指が端末の上で止まる。
「来る」
六花が言う。
次の瞬間、病棟奥の自動扉が半分開いたまま揺れて、そこから白衣の男が現れた。
医師か研究員か分からない。
片脚を引きずっている。
顔の半分が血で濡れ、眼鏡がずれていた。
でももう、人として何かを見ている目ではない。
湊は息を呑む。
男は一歩、引きずる。
二歩目で急に速くなる。
「下がれ!」
六花が廊下へ飛び出す。
白衣の男が腕を振る。
六花がそれを避け、横から警棒を叩き込む。
だが相手は止まらない。
頭を狙おうとした二撃目の前に、別の扉が内側から激しく叩かれた。
花音がひっと息を漏らす。
「まだいるの!?」
「いる」
六花が吐き捨てる。
湊は観察記録室の扉を掴み、花音と心晴を外へ出さない位置に立つ。
廊下の奥から、白衣の男とは別の呻き声。
病棟のどこかに、まだ複数いる。
「心晴、端末!」
湊が言う。
「持てるか!」
「やる!」
心晴は記録データを急いで端末へ転送し始める。
指先が震えている。
花音はその横で周囲を見ながら、呼吸だけは止めないようにしていた。
六花が男の膝を横から蹴り、体勢を崩したところへ警棒を打ち下ろす。
今度は確かに音が変わる。
男が床に崩れる。
だが、病棟奥の自動扉の向こうで、また別の人影が動いた。
「まだいる!」
花音が言う。
「見れば分かる!」
六花が返す。
その返しが少しだけいつも通りで、変なところで花音は安心しかけた。
もちろん、安心なんかしてる場合じゃない。
「転送、終わった!」
心晴が言う。
「出るぞ!」
湊が言う。
四人は記録室を出て、来た廊下を戻る。
病棟奥の気配が一斉に動き始める。
白衣。患者服。ストレッチャーに引っかかったままの何か。
全部がこの白い空間の中だと、余計に異様に見えた。
走りながら、花音が声を上げる。
「ここほんとに学校!?」
「もうその質問は答え出てる!」
湊が返す。
角を曲がり、ひとつ前の分岐へ戻る。
六花が一瞬だけ足を止めて案内板を見る。
「端末室、右!」
「今度はほんとにそっち?」
花音が言う。
「病棟はもういやなんだけど!」
「私もいや」
心晴が珍しく即答した。
その一言に、こんな状況でも花音は少しだけ笑いそうになる。
でも実際には、肺が苦しくて笑えなかった。
端末室前までたどり着く。
白い自動扉。
今度は明らかに一般権限では開かなそうな厚いロック。
六花が手早くパネルへ保安端末を接続する。
赤。
「だめ」
「早いな」
湊が言う。
「だめな時の判断は」
「嬉しくない特技」
心晴が前へ出る。
さっきより迷いが少ない。
たぶん、病棟の記録を見たせいだ。
もう知らないではいられない。
認証。
青。
ロック解除。
花音は今度こそちゃんと顔をしかめた。
「ほんとに開くんだ…」
「驚いてるの、私なんだけど」
心晴が言う。
端末室の中は、病棟区画よりさらに静かだった。
大きな机が並び、壁一面にモニター。
非常電源だけで生きているらしく、画面は暗めだがまだ使える。
四人が入る。
扉が閉まる。
外の音が少し遠くなる。
「ここなら少し時間取れる」
六花が言う。
「でも長くは無理」
心晴は中央端末へ向かった。
画面に手を触れた瞬間、認証名が表示される。
**AMAGI_KOHARU / LEVEL-B ACCESS**
その文字を見て、心晴の顔から表情が消えた。
花音も息を止める。
「……心晴ちゃん」
「見えてる」
心晴は小さく言った。
「ちゃんと、見えてる」
湊はモニターの一つに表示された文字を見た。
被験体。
適応率。
観察ログ。
投与群。
どれも学校で見るような言葉じゃない。
心晴の指が次の画面を開く。
複数の記録ファイル。
その中の一つに、責任者名が表示されていた。
**統括責任者 天城大地**
心晴の肩が止まる。
湊は画面を見る。
花音も、六花も見る。
数秒、誰もしゃべらない。
そして花音が、ひどく小さい声で言った。
「……お父さん?」
心晴は答えない。
答えないことが、そのまま答えだった。
六花がモニターから視線を外さずに言う。
「なるほどね」
「六花ちゃん」
花音が見る。
「今それ言う?」
「今だから言う」
「でも」
「でもじゃない。これで全部つながった」
湊は六花の横顔を見る。
疑っていたことが確信に変わった顔だ。
でも、そこで心晴を切り捨てる顔ではなかった。
心晴は画面に触れたまま、声を絞り出す。
「違う」
「何が」
湊が聞く。
「こんなの……父が、こんなこと」
「見えてる」
湊が言う。
「でも」
「今は崩れるな」
心晴が顔を上げる。
「……」
「あとで崩れろ」
「言い方」
「あとにしろって意味」
「……ちゃんと雑」
その返しができたことで、少しだけ心晴の呼吸が戻った。
六花が別の画面を開く。
「発症ログ、被験体記録、変異段階……」
「全部最悪な単語しかないんだけど」
花音が言う。
「学校のパソコンで出る一覧じゃないって」
その時、室内放送が鳴った。
無機質な音。
聞いたことのない高さ。
『当区画はこれより回収対象に指定されました』
四人とも同時に顔を上げる。
『不要接触者の排除を優先してください』
花音の顔色が変わる。
「不要って何」
「私たち」
六花が即答した。
「最悪」
湊はすぐに出入口を見る。
病棟区画から追ってきたものだけじゃない。
今度は人間が来る。
心晴は端末に映るログを見たまま、小さく呟いた。
「……回収部隊」
その言葉が落ちた瞬間、端末室の外の廊下で、複数の足音が止まった。
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