生き残るための条件
小さな部屋だった。
セミナールームか、使われなくなった打ち合わせ室みたいな場所。
長机が三つ、折りたたみ椅子が数脚、壁に固定されたモニター、隅に白い収納棚。
窓はなく、換気口の音だけがやけに耳についた。
六花が最後に入ってきて、すぐ扉を閉める。
鍵を確認して、近くにあった机を横向きにして押しつけた。
「これで少しは持つ」
言いながら、耳を扉に寄せる。
外の足音は、今のところ遠い。
少なくとも、すぐにここへ何かがぶつかってくる感じではない。
それでも花音はその場にしゃがみ込んだまま、荒い息を整えられずにいた。
「ちょっと待って…ほんと、ちょっと待って…」
声がかすれている。
無理もない。
湊も壁に手をついたまま、一度だけ強く息を吐いた。
喉が熱い。
走ったせいだけじゃなく、ずっと息を止めていたみたいな苦しさが残っている。
心晴は扉から一番遠い壁際に背中を預けていた。
立ってはいる。
けれど、今にも座り込みそうなくらい顔色が悪い。
七瀬陸が机の端に手をつきながら言った。
「……まじで、何なんだよ、これ」
誰に聞いたわけでもない。
でも、ここにいる全員が同じことを思っていた。
六花が扉に耳をつけたまま答える。
「まだ分からない」
「分からないで済んでないんだけど…」
花音が言う。
「教師までああなるとか、意味分かんないし…避難区画閉めるとかもっと意味分かんないし…」
そのまま両手で顔を押さえる。
泣いてはいない。
でも、泣く寸前の息になっていた。
湊は近くの机の上に置かれていた未開封の水を見つけて、一本取った。
キャップを開けて花音に渡す。
「飲め」
「……ありがと」
「こぼすなよ」
「そんな余裕ないよ」
言いながらも、花音はちゃんと受け取った。
半分ほど一気に飲んで、ようやく息が少し整う。
その横で、心晴が小さく息を吐いた。
「……ごめん」
「何が」
湊が聞く。
心晴は少しだけ俯く。
「さっき、止まったから」
「今さら」
六花が先に切った。
「生きてるなら次から止まらないで」
「……うん」
言い返せないのか、心晴は素直にうなずく。
その返事が妙に小さくて、花音が水を持ったまま顔を上げた。
「でも、心晴ちゃんだけが悪いわけじゃないし」
「悪いとかじゃない」
六花が言う。
「止まると死ぬ。今はそれだけ」
「言い方」
「事実」
「分かってるけどさ」
花音が頬をしかめる。
そのやり取りを聞きながら、陸が苦笑いみたいな顔をした。
「火澄って、ほんと容赦ないな」
「必要だから言ってる」
「必要なのは分かるけど、もうちょいこう…」
「やわらかく?」
「そう、それ」
「無理」
即答だった。
少しだけ、空気が緩む。
ほんの少しだけ。
六花は扉から離れ、部屋の中央に立った。
「聞いて」
その一言で、全員の視線が集まる。
「さっき見たやつら、今までの暴れてる生徒とは違う。頭を止めるまで動く。腕とか腹とかじゃ、止まりにくい」
花音が顔をしかめる。
「止まりにくいって…そういう言い方やめて」
「他に言い方ある?」
「ないけど…」
「なら聞いて」
六花は続ける。
「噛まれたら終わりだと思って動く。血も触るな。口とか目も。転んだら立て。止まるな。一人になるな」
「多すぎるって…」
花音がぼそっと言う。
「分かるけど、いっぺんに来ると無理…」
「かなり危ないってことだよ」
六花は短く言った。
その平たい言い方が逆に重い。
沈黙が落ちる。
その中で、心晴がぽつりと口を開いた。
「たぶん、発症までそんなに時間かからない」
六花の目がわずかに動く。
湊も顔を上げた。
「……何でそう思う」
湊が聞く。
心晴は一瞬だけ言葉に詰まった。
でも、もう出してしまった以上、完全には引けない。
「さっきの教師も、生徒も…症状の進み方が早すぎたから」
「症状って」
陸が眉を寄せる。
「おまえ、それ知ってる言い方じゃん」
「……」
心晴の唇がわずかに固くなる。
花音も気づいたらしい。
でも責めるより先に、不安そうな顔で心晴を見た。
「心晴ちゃん、何か知ってるの?」
「全部じゃない」
心晴はすぐに言った。
「でも、普通の感染症じゃないと思う」
「普通の感染症だったら今こうなってないだろ」
陸が半分投げるように言う。
「いや、そういう意味じゃなくてさ…」
「じゃあどういう意味」
六花が聞く。
声は短い。
でも刺しにいっている。
心晴は目を伏せた。
「……分からない」
「それ多いな」
六花が言う。
「分からない、でも知ってるっぽい。そういうの」
花音がすぐに口を挟んだ。
「ちょっと、今それ言わなくても」
「今だから言う」
六花は譲らない。
「さっきから天城だけ反応が早い。施設の動きも、放送も、今の話も」
心晴の肩がかすかに揺れる。
湊はその顔を見ていた。
責められてるからじゃない。
責められると分かっていた顔だと思った。
「今はまだいい」
湊が言う。
「聞くのはあとだ」
「あとで済む?」
六花が見る。
「済まなくても、今ここで止まるよりはまし」
「……そう」
六花はそれ以上は言わなかった。
「じゃあ話戻す。とにかく、次から止まるな。一人になるな。助けるなら、自分が死なない範囲で」
「それ一番むずかしいやつ…」
花音が小さく言う。
確かにそうだ。
分かりやすくて、いちばん守れない。
その時だった。
扉の向こうで、何かが擦れる音がした。
全員の息が止まる。
六花が手を上げる。静かに、の合図。
花音は反射で口を押さえた。
陸も息をひそめる。
心晴は壁際で体を固くしたまま動かない。
外の音は、一度近づいて、それから遠ざかった。
長く感じた。
たぶん数秒しかなかったのに。
六花がようやく肩の力を少しだけ抜く。
「今のは通り過ぎた」
「心臓に悪すぎる…」
花音が息だけで言う。
「ほんとに…」
湊は部屋を見回した。
窓はない。
外の状況はほとんど分からない。
ここは一時しのぎにしかならない。
「どうする」
陸が聞く。
「ずっとここってわけにもいかないだろ」
「そうだな」
湊が答える。
「でも適当に出たらさっきと同じだ」
「中央避難区画はもうだめ」
六花が言う。
「少なくとも私は行かない」
「俺も」
湊が言う。
「橋切った時点で信用できない」
真壁進の声が、ふいに脳裏をよぎる。
今は集団で動くべきだ。
まだ学校側が機能している可能性はある。
それはたぶん、教師として正しい言葉だった。
でも目の前でシャッターが人を切った以上、もうその正しさには乗れない。
「……先生、どうなったかな」
花音がぽつりと言う。
誰もすぐには答えなかった。
陸が視線を落とす。
「生きててほしいけど」
「うん」
花音が小さくうなずく。
「うん…」
その沈黙を切るように、また外から声がした。
今度は、人の声だった。
「誰か!」
くぐもっているけど、たしかに人間の声。
「開けてくれ! 人がいるんだろ!」
花音が顔を上げる。
「生存者…?」
「静かに」
六花が言う。
「まだ分からない」
また声。
「お願いだ! こっちに二人いる!」
「花音ちゃん! いないの!?」
その名前で、花音の目が見開いた。
「凪咲…?」
湊は扉の小さな覗き窓に近づいた。
外の廊下は薄暗い。
でも人影は見える。
先頭にいるのは、見覚えのある男子生徒だった。
神代奏多。三年。学級委員長だか生徒会補佐だか、とにかく真面目なやつとして顔は知っている。
その少し後ろに、肩を押さえながら立つ真壁進。
さらに、顔を真っ青にした乙坂凪咲。
そして壁に寄りかかるようにしている七瀬陸。
「如月…!」
陸がこちらに気づいて声を上げる。
「いるなら早く!」
「知り合い?」
六花が聞く。
「いる」
「数は」
「四人、いや後ろにもう少しいるかも」
「多い」
「でも放置できない」
花音が言う。
「凪咲いるし…先生も…」
六花は数秒だけ黙った。
その間に外からもう一度、扉を叩く音。
「頼む!」
奏多の声だ。
「もう後ろ来てる!」
「開ける」
湊が言う。
「机どかせ」
「……はあ」
六花が短く息を吐く。
「開けたらすぐ閉める。長くは開けない」
全員で机を少しずらす。
ロック解除。
扉を開けると、四人がなだれ込むように中へ入ってきた。
凪咲は入ってすぐに花音へ縋るように寄った。
「花音ちゃん…!」
「凪咲…」
「よかった…ほんとに…」
「うん、うん…」
凪咲は小柄な体を震わせていた。
泣いてはいない。
でも、泣ける余裕もないみたいな顔だった。
陸は壁に手をついて息を整える。
「助かった…」
「助かったとはまだ言えない」
六花が言う。
「ここも安全じゃない」
「分かってるよ…」
陸が苦く言う。
「でも今くらい言わせてくれって…」
真壁進は扉が閉まるのを確認すると、その場で大きく息をついた。
ジャケットの袖に血がついている。
自分の血か、他人の血かは分からない。
「火澄」
「先生」
「今の状況、分かるか」
「分からない。分かるのは、学校側がまともに機能してないってことだけ」
「……そうか」
真壁はそれ以上は言わなかった。
否定しきれなかった顔だった。
神代奏多が周囲を見回す。
息は上がっているが、声はまだしっかりしていた。
「生き残りは他にもいる」
「どこに」
湊が聞く。
「二階下の演習室に集まってる。けど、中央避難区画が閉まってからみんな混乱してて…」
「そりゃそうだろ」
陸が言う。
「俺らも見たぞ、あれ」
「見た上で言ってる」
奏多は少し強めに返す。
「だからこそ、ばらける方が危ない」
六花が壁にもたれたまま見る。
「その集まってる場所、守れるの?」
「守るために人数が要る」
奏多が答える。
「一人ずつ逃げたって削られるだけだ」
「まとまって死ぬ方が早い」
六花は平坦に言った。
「それは結果論だろ」
「いや、さっき見た限りかなり現実寄り」
湊が入る。
空気が少しだけ張る。
真壁進が低く言う。
「まずは落ち着け」
「落ち着いてるように見えます?」
花音が思わず返す。
「私は今ぜんぜん無理なんですけど…」
「白峰」
「すみません、でもほんとに…」
その横で、凪咲が花音の袖を弱くつかんだ。
「花音ちゃん…」
「うん」
「これ、どうなるの…」
「……分かんない」
花音は正直に言う。
「でも、一人にはしないから」
凪咲が小さくうなずく。
奏多は部屋の真ん中に立ったまま、全員を見る。
「今の放送が信用できるかは分からない。でも、何もしないままここにいるのも危ない」
「中央避難区画は閉められた」
湊が言う。
「切り捨てられたの、見ただろ」
「見た。だからルートを変える」
「どこへ」
「教員区画か、管理棟寄りの避難スペース。少なくとも、人がまとまれる場所に」
「まとまれる場所ってだけで信用するの」
六花が聞く。
「今はそれしかないだろ」
「あるかもしれない」
心晴が、小さく言った。
全員の視線が集まる。
心晴は一瞬だけ黙って、それから言葉を選ぶように続けた。
「……場所じゃなくて、原因に近い方」
「何」
湊が聞く。
「医療研究区」
「は?」
陸が顔をしかめる。
「何でそうなるんだよ」
「分からない。でも、あそこなら何か残ってるかもしれない」
「何かって」
花音が聞く。
「抑える薬とか、データとか…何が起きてるのか分かるもの」
六花の目つきが変わる。
「おまえ、やっぱり知ってるね」
「全部じゃない」
心晴はすぐに言う。
「でも、普通の施設より可能性はあると思う」
「思う、ね」
六花が繰り返す。
「便利な言い方」
奏多が眉を寄せる。
「医療研究区って、一般生徒が入れる場所じゃないだろ」
「そうだけど」
「なら余計危ない」
「今もう、どこも危ないよ」
花音が言う。
「それは、そうなんだけど…」
真壁進が口を開いた。
「中央避難区画が使えない以上、他の安全スペースを探すべきだ。研究区は生徒が行く場所じゃない」
「生徒が行く場所じゃないところが、一番答えに近いのかも」
湊が言う。
自分で言ってから、少しだけ妙な感じがした。
さっきまでまったく知らなかった場所なのに、そう言い切る理由はない。
でも、切り捨ての仕方が普通じゃなさすぎた。
この街は、最初から何かを隠している。
奏多が湊を見る。
「如月、おまえ本気で言ってるのか」
「放送よりはましだと思ってる」
「それ、勘だろ」
「今ここで生きてるの、だいたい勘だろ」
「……」
奏多が言葉を失う。
その空気を切るように、外の廊下で何かが倒れる音がした。
全員が反射で息を止める。
六花がまた扉に耳を寄せた。
今度は、さっきより近い。
「動くなら早い方がいい」
六花が言う。
「ここも長くは持たない」
凪咲が花音の袖をつかむ力を少し強めた。
「花音ちゃん…」
「うん」
「私、ちゃんと走れるかな…」
「走るしかない」
花音は自分に言い聞かせるみたいに言った。
「私もたぶんそんなに速くないし」
陸が苦笑する。
「俺もだいぶ無理」
「見れば分かる」
湊が言う。
「その言い方ちょっと腹立つな」
「元気あるじゃん」
「今の一言で消えたわ」
少しだけ、部屋の中に笑いになり損ねた空気が落ちる。
そのくらいが、逆によかった。
奏多が大きく息を吸った。
「分かった。なら一回、演習室の連中にも声をかける」
「今から?」
六花が聞く。
「まとまるなら、だ」
「まとまらないなら?」
「……その時考える」
その答えは、真面目な奏多らしかった。
でも六花は納得していない顔だ。
真壁進が肩を押さえながら言う。
「私は一度、下の避難グループへ戻る。まだ動けない生徒がいる」
「先生」
花音が言う。
「無茶です」
「教師だからな」
真壁は疲れた顔のまま、少しだけ笑った。
「そういうことをする仕事だ」
その言い方が、妙に静かだった。
湊はその横顔を見て、何も言えなかった。
止めても行くだろう。
そういう顔だった。
心晴は扉の方を見る。
その先のもっと奥。
たぶん研究区の方向。
「……行けば、分かる」
今度ははっきりと、その言葉が落ちた。
誰に向けたのかは分からない。
自分自身かもしれなかった。
部屋の中の空気が、その一言で少しだけ変わる。
まだ誰も、本当には同じ方を向いていない。
でも、もう“逃げるだけ”では先がないことだけは、全員が薄く理解し始めていた。
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