襲撃
最初に響いたのは、銃声じゃなかった。
金属をひしゃげるような、鈍い衝突音。
外縁バリケードのどこかで、何か重いものがぶつかった音だった。
その次に、怒鳴り声。
警笛。
そしてようやく、乾いた発砲音が重なってくる。
火澄六花が外へ飛び出した時には、生存圏の空気はもう完全に戦闘の色へ変わっていた。
狭い通路を走りながら、頭の中で先に地図を組む。
外縁バリケードは東西に細長い。
正面突破されれば、避難テント側へ一気に雪崩れ込まれる。
防ぐべきは侵入そのものじゃない。
**侵入した敵を、居住区側へ通さないこと**。
「東側!」
前方から蓮司の声が飛ぶ。
「火炎瓶来るぞ!」
六花が角を抜ける。
視界が開ける。
外縁バリケードの向こう、コンテナの影から男たちが走り込んできていた。
鬼塚の手下だ。
数は多くない。
だが、少人数で崩しに来る動きが明らかに手慣れている。
そのうちの一人が火のついた瓶を振りかぶる。
「右」
六花が低く言った瞬間、蓮司がショットガンを撃つ。
爆ぜる前に瓶が割れ、火が地面へ散った。
炎は土嚢の外側を這うように広がり、焦げたアルコールの匂いが一気に立つ。
「助かる」
六花が言う。
「礼はあと」
蓮司が返す。
「生きてたら」
「縁起悪い」
「今さらだ」
そのやり取りの裏で、さらに二人がバリケードを越えようとする。
六花は迷わず前へ出た。
狭い。
なら、数は殺せる。
一人目の腕を警棒で払う。
手首の角度を潰して武器を落とさせ、そのまま踏み込んで膝を入れる。
男が体勢を崩したところへ、後ろから来た二人目が無理に割って入ろうとする。
六花は半歩だけ退いて、その進路を意図的に残した。
次の瞬間、横から蓮司が肩でぶつかる。
男が土嚢へ叩きつけられた。
「連携よすぎない?」
後方から花音の声がした。
振り返らないまま、六花が返す。
「黙って避難誘導」
「やってる!」
花音の声は近い。
たぶんバリケードの一段後ろで、走れない子どもや老人を奥へ回している。
六花はそれだけで十分だった。
花音は前線向きじゃない。
でも、こういう時に一番“人を動かす”声を出せる。
「こっち!」
花音が叫ぶ。
「急いで! 立てる人から先に中へ!」
泣きかけた子どもがいる。
花音はその子の肩を抱いて押し出す。
横では澪が簡易担架を回し、九条が人数を見ながら退避ルートを切っていた。
「老朽コンテナ区画、先に閉じる!」
九条の声が飛ぶ。
「西側まだ通せる! 走れるやつから!」
責任者の声だった。
疲れも寝不足も、その瞬間だけは消えている。
その背後で、湊が心晴の前に立っていた。
「下がれ」
湊が言う。
「だけど」
心晴が返す。
「だけどじゃない」
「私も運べる」
「知ってる」
湊は前を見たまま言う。
「でも今は見られる位置に立つな」
その言葉の意味を、心晴はすぐに理解した。
鬼塚たちが狙うのは、食料だけじゃない。
若い女。
動ける人間。
それを分かった上で前に出るのは、今は違う。
心晴は唇を噛みそうになって、やめた。
その代わり、後ろにいた子どもの手を引く。
「こっち」
静かな声で言う。
「走れる?」
子どもは頷いた。
その目は完全に怯えていたが、まだ動ける。
その時、バリケード外縁の向こうから、聞き覚えのある笑い声が届いた。
鬼塚だ。
「いいねえ!」
通る声。
人を煽ることに慣れた声だった。
「ちゃんと焦ってる顔すると、やっぱ映えるなあ!」
花音の背中が強張る。
六花の目が冷える。
湊の中で何かが静かに沈む。
鬼塚がコンテナの上から顔を出した。
見下ろしている。
こちらの動き、逃げる人間、防衛線の薄い箇所、全部を見ている。
そして、その視線が花音へ止まる。
次に、心晴。
最後に六花。
「やっぱ三人ともいいな」
鬼塚が笑った。
「今日のうちに一人くらい持って帰れりゃ上出来か?」
「黙れ!」
花音が叫んでいた。
自分でも驚くくらい、先に声が出ていた。
怖い。
でも、もうそれより先に腹が立つ。
「気持ち悪いんだよ!」
花音は叫ぶ。
「勝手に見んな!」
鬼塚は一瞬だけ目を丸くして、それから大きく笑った。
「元気でいいなあ!」
「白峰!」
湊が呼ぶ。
「前に出るな!」
「分かってる!」
花音は怒鳴り返して、すぐに子どもの背を押した。
「走って!」
その一連を見ていた鬼塚の部下の一人が、土嚢を蹴り越えて突っ込んでくる。
狙いは避難民側。
六花が間に入るより、半拍だけ速く、湊が踏み込んだ。
男の腕を掴んで引きずり込み、壁へ叩きつける。
そのまま肘で喉元を押し込む。
「誰狙ってんだ」
低い声だった。
男は短く呻いて、無理にナイフを抜こうとする。
湊はその手首を蹴り、ナイフを床へ転がした。
鬼塚がそれを見て、口元を歪める。
「へえ」
「……」
「やるじゃねえか、坊主」
その直後、左の通路側から悲鳴が上がった。
生存圏の別の入口だ。
完全包囲ではなく、二手に分けて崩しに来ている。
「ちっ」
蓮司が舌打ちする。
「西も来てる!」
九条が即座に叫ぶ。
「走れるやつは中央へ寄せろ! 子ども優先!」
「白峰!」
澪が呼ぶ。
「こっち二人お願い!」
「はい!」
花音が駆ける。
腕を引く。
泣きかけた子を抱える。
言葉をかける暇も惜しい。
でも、言わないと足が止まる。
「大丈夫じゃないけど行こう!」
花音が叫ぶ。
「走って! 今は走って!」
その言葉が、なぜか自分にも刺さる。
大丈夫じゃない。
でも行くしかない。
それがこの世界の合言葉みたいになっているのが嫌だった。
六花は西側の崩れかけた土嚢ラインへ滑り込む。
そこでは九条の部下が一人、肩を撃たれて倒れていた。
男二人がそこを抜こうとしている。
「下がって」
六花が言う。
返事を待たずに動く。
一人目の足を払う。
二人目が拳銃を上げるより早く、警棒の先で手首を打つ。
銃が落ちる。
そのまま顎へ一撃。
沈む。
倒れた男の口から、聞きたくない言葉が漏れた。
「女、奥だろ……!」
六花の動きが、一瞬だけ止まるように見えて、実際は逆だった。
次の一撃が明らかに重くなった。
「二度と喋るな」
その声は低すぎて、花音のところまでは届かなかった。
でも、近くにいた蓮司だけははっきり聞いた。
「六花!」
蓮司が叫ぶ。
「前見ろ!」
六花はすぐに切り替える。
感情で追いすぎれば、穴が開く。
今は守る方が先だ。
鬼塚はまだ前線の後ろで笑っている。
自分では突っ込まず、欲しいものだけ選ぶ位置から見ている。
それが、湊にはたまらなく腹立たしかった。
正面の土嚢を越えて、湊は一歩前へ出る。
「如月!」
九条の声。
「出すぎるな!」
分かっている。
でも鬼塚を前にして、このまま守るだけで終わるのは嫌だった。
鬼塚が目を細める。
「どうした。来るか?」
「行ってもいい?」
六花が横で言う。
「今はだめ」
湊が返す。
「了解」
その短いやり取りだけで、二人の意識が揃う。
今は崩すより持たせる。
鬼塚を仕留めるなら、この乱戦の中ではない。
その時、奥から澪の声が飛んだ。
「足りません!」
九条が振り返る。
「何が!」
「人が!」
澪が叫ぶ。
「避難区画の人数が合わない!」
空気が一段冷える。
湊が反射で振り向く。
花音も息を止める。
心晴が目を見開く。
澪が顔色を変えたまま続けた。
「若い女の子が二人、子どもが一人、見当たりません!」
鬼塚がその瞬間、愉快そうに笑った。
「ほらな」
その声がやけにはっきり届く。
「言っただろ?」
花音の背中がぞくりと冷える。
もうやった。
この襲撃の混乱の中で、もう狙って連れていった。
「っ……!」
花音は何か言おうとして、喉が詰まる。
湊の中で、怒りがやっと形になる。
こいつらは脅しじゃない。
奪う。
そしてまた来る。
放っておけば、次も同じことをする。
鬼塚が手を上げる。
撤退の合図だ。
「今日はここまでだ」
鬼塚は笑ったまま言う。
「次はもっと持ってく」
「待て!」
湊が踏み込もうとした瞬間、六花が腕を掴んだ。
「今じゃない」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「……っ」
「今追うと、後ろが死ぬ」
六花の声は低く、鋭かった。
「見る方先」
湊は奥歯を噛みしめた。
分かっている。
分かっているから余計に腹が立つ。
鬼塚たちは、奪うものだけ奪ってコンテナの影へ消えていく。
残ったのは焦げ跡、血のにおい、怯えた人間の呼吸、それから、取り返せなかったという最悪の事実だった。
生存圏に、ようやく静けさが戻り始める。
でもその静けさは、朝のそれよりずっと重い。
花音は震える手を押さえながら、澪の方へ歩いた。
「……ほんとに」
声がうまく出ない。
「いないの?」
澪は頷く。
その目は静かだった。
静かすぎるくらいに。
「確認した」
「……」
「いない」
花音は目を閉じそうになって、やめた。
閉じたら、鬼塚の顔だけが残りそうだった。
心晴が横に立つ。
顔色はまた悪くなっている。
でも声は静かだった。
「連れていかれた」
「うん」
花音が答える。
「たぶん」
「たぶんじゃない」
心晴が言う。
「そういうやつだった」
その一言が、花音にはひどく重かった。
鬼塚は次も来る。
そして、その先にまだ別の地獄がある。
六花は外縁の壊れた土嚢を見たまま、低く言う。
「終わってない」
「知ってる」
湊が返した。
その返答の声だけで、花音は分かった。
湊の中で、もう何かが決まっている。
まだ言葉にはなっていない。
でも、もう“逃げるだけ”で終わる顔じゃない。
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