守る価値
戻ってきた時、生存圏の空気は行く前よりさらに重く感じた。
コンテナの間を抜ける風は同じだ。
炊き出しの匂いも、油と錆の混ざった港のにおいも変わらない。
なのに、花音にはもう全部が少し違って見えた。
さっきまでただ疲れている人たちの街だと思っていた。
でも今は違う。
ここは、いつ奪われてもおかしくないものを必死で抱えている街だ。
人も。
食料も。
女も。
その最後の単語が頭に浮かんだ瞬間、花音はまた胃の奥がむかつくのを感じた。
「白峰」
後ろから蓮司の声。
「……はい」
「顔」
「え」
「ひどい」
「それ今言います?」
「今だから言う」
蓮司はぶっきらぼうに返す。
「吐くなら端で吐け。真ん中でやられると処理が面倒だ」
「ちょっと優しい言い方してほしい」
「優しくしたら吐かねえのか」
「それはたぶん無理」
「じゃあ同じだ」
花音は思わず肩を落とす。
「ほんとにこの世界、言い方が全部ひどい」
「今さら」
湊が言った。
「便利すぎるんだって、その返し!」
「事実だろ」
「それで全部片づけないでほしい」
「片づく時は片づく」
六花が言う。
そこで花音は振り返って、二人を順番に見た。
「ねえ」
「何」
湊が返す。
「今のやつに関して、何か一言ないの?」
「ある」
「ほんと?」
「死ねばいい」
六花が言った。
花音は少しだけ黙って、それから頷いた。
「……それは、かなりそう」
「だろ」
六花の声は低かった。
それで会話は切れた。
切れたけれど、妙にすっきりした。
怖かった。
気持ち悪かった。
でも、“嫌だ”をちゃんと嫌だと言える相手が今ここにいる。
それだけで少しだけ呼吸が戻る。
作戦区画に戻ると、九条が待っていた。
椅子に座ってはいない。
木箱の脇に立って、戻ってきたこっちを見ている。
その顔は、さっきよりさらに疲れて見えた。
「見たか」
短く聞く。
「見た」
湊が答える。
「鬼塚いた?」
九条の問いに、蓮司が代わりに返した。
「いた。しかもだいぶ機嫌が良さそうだった」
「最悪だな」
九条が言う。
「最悪だった」
花音が思わず重ねる。
九条の目が花音へ向く。
問いただす感じではない。
でも、何を見たのかは把握したい目だ。
「何言われた」
「……」
花音は少し口を閉じる。
「言わなくていい」
湊が横から言った。
でも、花音は一度だけ息を吸ってから口を開く。
「“資源”って」
自分の声が思ったより平たく聞こえた。
「食いものとか燃料と同じみたいに」
「……」
「あと、“部下に見せると喜ぶ”って」
そこまで言って、やっぱり喉が嫌になった。
「もういい」
湊が言う。
「いや」
花音は首を振る。
「聞いてほしい」
「白峰」
「聞いて、ちゃんと」
花音は九条を見た。
「こういうのが来るんだよね、ここに」
九条は少しだけ黙った。
その沈黙の長さで分かる。
知っているのだ。
知らない話ではない。
ただ、聞き慣れてしまっているわけでもない。
「来る」
九条が言う。
「だから壁を作ってる」
「壁だけで止まる相手?」
六花が聞く。
「止まらない」
「だよね」
「でも、ないよりましだ」
九条の返答は短かった。
湊はその言い方に、少しだけ苛立ちを覚える。
正しい。
たぶん正しい。
壁を作るしかない。
守れる範囲を決めるしかない。
その理屈は分かる。
でもそれで、攫われる側の話が終わるわけじゃない。
「鬼塚は、ここを試してる」
湊が言う。
「今日のやつで」
「そうだろうな」
九条も否定しない。
「だったらまた来る」
「来る」
「止める気は」
「ある」
九条はまっすぐ返した。
「でも、今正面からぶつかっても勝ち切れない」
「……」
「向こうは略奪に慣れてる。こっちは守るので精一杯だ」
花音はその会話を聞きながら、拳を握っていた。
分かる。
九条が冷たいことを言ってるわけじゃないのも分かる。
でも、分かることと納得することは違う。
「ねえ」
花音が言う。
全員の視線が一度だけ集まる。
「私、こういうの、ほんと無理」
「知ってる」
湊が言う。
「まだ言い終わってない」
「じゃあ続けろ」
「続けるよ」
花音は息を吸った。
「怖いのもある」
「うん」
「でも、それより、むかつく」
声が少しだけ強くなる。
「なんでそんなふうに見られなきゃいけないのか分かんないし、なんでこっちが怯えて、あっちは楽しそうなのかも分かんない」
「……」
「女だからって勝手に値段つけられるみたいなのも最悪だし、子どもまで狙うのもほんと最悪」
花音は言う。
「怖いけど、それより腹立つ」
沈黙が落ちる。
九条はその言葉を遮らなかった。
蓮司は腕を組んだまま少しだけ目を伏せる。
六花は壁にもたれていた背を離した。
湊は花音を見て、それから短く言った。
「そうだな」
ただ同意するだけの声だった。
でも、それで十分だった。
心晴がいない場所で、花音がここまで感情を前に出すのは珍しい。
それだけ今回のことが、花音の中で深く刺さったのだと分かる。
六花が低く言う。
「鬼塚みたいなのは、次も同じことする」
「するだろうな」
蓮司が返す。
「今回は値踏みで済ませた」
「次は試し取り」
六花が続ける。
「その次は、奪う」
その言い方があまりに平坦で、花音は逆にぞっとした。
「……そういうの、慣れたみたいに言わないで」
「慣れてない」
六花が返す。
「読めるだけ」
「それもやだ」
「私も」
心晴の声が、入り口側からした。
全員がそっちを見る。
布をめくって、心晴が出てきていた。
澪も一緒だ。
顔色は少しだけ戻っている。
でも眠れた感じではない。
「何で出てきた」
湊が言う。
「寝られない」
心晴が答える。
「それと、聞こえた」
「聞こえたって」
「花音の怒ってる声」
「やだ、それちょっと恥ずかしい」
「でも正しい」
心晴は言う。
「私も同じ」
花音は少しだけ唇を引き結んで、それから視線を落とした。
怒っているのは自分だけじゃない。
そう思うと、逆に少しだけ目の奥が熱くなる。
心晴はそのまま続けた。
「外でも同じなんだって分かった」
「何が」
花音が聞く。
「人を勝手に決める人たち」
心晴の声は静かだった。
「鍵とか、保護対象とか、女とか、褒美とか」
「……」
「呼び方は違っても、やってることは同じ」
その目が少しだけ冷える。
「ほんとに最悪」
澪が横で、小さく息を吐いた。
「そうですね」
その声も静かだ。
「外の世界では、怪物より人間の方がよほど理屈をつけて奪います」
「理屈」
花音が顔を上げる。
「守るため」
「食わせるため」
「秩序のため」
澪はゆっくり言う。
「言い方はいろいろです。でも中身は似ています」
「保護の顔をした支配、ってやつか」
真琴が低く言った。
九条は眉間を押さえる。
「今の状況で、その話まで広げるのはきついな」
「でも本質ではある」
奏恵が言う。
「だからこそ厄介なのよ」
「分かってる」
九条は返す。
「分かってるから、今すぐ動けないのも分かるだろ」
その言葉に、今度は湊が顔を上げる。
「それで終わらせる気か」
「終わらせる気じゃない」
九条もすぐ返した。
「ただ、今ここで全面衝突したら、生存圏ごと潰れる」
「……」
「守るものがある側の現実だ」
九条の声は低かった。
「気に入らないのは分かる。俺だって気に入ってない」
花音は九条の顔を見る。
疲れている。
眠れていない。
たぶん、助けられなかった人間もいる。
なのに、まだこの場所を持たせなきゃいけない。
その人の言葉だ。
正しい。
でも、苦い。
蓮司が壁を蹴るみたいに軽く足を動かす。
「鬼塚は様子見で来た」
「うん」
六花が返す。
「ってことは、今夜もしくは明日」
「早い」
「早い方が困る」
湊が言った。
その通りだった。
鬼塚の顔には、“次がある”って確信があった。
奪えるかどうか、どこまで抵抗されるか、何を持っていけるか。
ああいう顔をしていた。
「見張りを増やす」
九条が言う。
「外縁は二重」
「こっちも入る」
湊が言う。
「もう少し休め」
九条が返す。
「今の顔で立たれても困る」
「そっちも似たような顔してる」
「だから困るんだよ」
九条は珍しく少しだけ言い方を荒くした。
「一人疲れてるだけなら回る。全員疲れてると回らない」
その一言で、また少しだけ空気が静かになる。
事実だ。
事実だから刺さる。
澪が口を開いた。
「休める人は休みましょう」
「寝られない」
心晴が言う。
「横になるだけでも違います」
「花音」
心晴がそっちを見る。
「なに」
「あなたも」
「え、私?」
「怒ってると疲れる」
「それはそうなんだけど」
「だから休んで」
「……そう言われると逆に断りにくいな」
六花がそこで、小さく耳を動かすみたいに顔を上げた。
「外」
全員がそっちを見る。
六花はもう入り口の方を見ていた。
その目が、さっきまでと明らかに違う。
「何」
湊が聞く。
「足音」
六花が言う。
「見張りじゃない」
「近い?」
「近い」
蓮司も一歩動いた。
「外縁側だ」
「まじ?」
花音が言った瞬間だった。
外から、短い警笛が鳴った。
一回。
二回。
間を置かずに三回目。
警報だ。
生存圏の空気が、一瞬で張りつめる。
九条の顔から、わずかに残っていた人間っぽい疲れが消えた。
責任者の顔になる。
「来たな」
蓮司が低く吐く。
「たぶん鬼塚」
「早い」
花音が言う。
「言っただろ」
六花が返す。
湊はもう動いていた。
心晴の前に立ち、入り口の方を見る。
その横で六花も腰を落とす。
蓮司は外へ駆ける。
九条も指示を飛ばしながら続いた。
花音は自分の喉が乾くのを感じる。
まだ昼にもなっていない。
もう来るのか。
脅しの次は、ほんとに来るのか。
来る。
この世界はそういう世界なんだと、誰かが説明する前に警報が答えていた。
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