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LAST EXIT ACADEMIA  作者: きなこもち
第4章 『漂着する街』

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逃げてきた少女



 襲撃のあと、生存圏はひどく静かだった。


 泣き声はある。

 怒鳴り声もある。

 怪我人のうめきも、壊れた土嚢を積み直す音も、確かに聞こえる。


 でも、その全部の上に、もっと重い沈黙がかぶさっていた。


 **また奪われた。**


 その事実を、誰も大きな声では言わない。

 言わなくても分かるからだ。

 そして、言葉にした瞬間に、もう一度全員が正面からそれを見なきゃいけなくなるからだ。


 白峰花音は、避難区画の外れにある給水タンクの横で、しばらく動けずにいた。


 喉が乾いている。

 でも水を飲みたいのかどうか、自分でもよく分からない。

 腕の包帯はまだ新しいのに、もう中まで汚れている気がした。

 さっきから手を洗ったのに、鬼塚の目だけがまだ肌の上に残っているみたいで気持ち悪い。


「白峰」


 低い声で呼ばれて、花音は肩を跳ねさせた。


 振り向くと、六花が立っている。

 服の裾が少し切れていて、頬にも浅い擦り傷があった。

 それでも表情はいつも通り薄い。

 でも、目だけがいつもより少し冷たかった。


「……びっくりした」

「知ってる」

「気づいてるならもうちょっと優しく来てよ」

「今それ必要?」

「必要」

 花音は即答した。

「かなり」


 六花は小さく息を吐く。


「ごめん」

「え」

「びっくりさせた」

「……」

「必要なんでしょ」

「そうだけど」

 花音は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。

「六花ちゃんがそれ言うと、逆にちょっとびっくりする」

「面倒」

「知ってる」


 それで少しだけ、呼吸が戻る。


 少し離れたところでは、九条と蓮司がまだ外縁の再確認をしていた。

 湊はその二人の間にいる。

 話している内容までは聞こえない。

 でも、顔だけで分かる。

 全員、次のことを考えている。


 花音はその横顔を見てから、視線を落とした。


「……ねえ」

「何」

 六花が返す。


「取り返せるかな」

「誰を」

「分かってるくせに」

「確認」

 六花は言った。

「言葉にしないと、曖昧になる」

「そういうの今やめてよ」

「やめない」

 六花の声は静かだった。

「白峰」

「……」

「攫われた人の話でしょ」

「……うん」

「なら、取り返す前提で動くしかない」

「前提」

「そう」

 六花は花音を見る。

「諦める理由を先に探すな」


 その言い方は厳しい。

 でも、その厳しさに少しだけ救われる。

 六花がそう言うなら、まだ終わっていない気がするからだ。


 その時、区画の奥の方で騒ぎが起きた。


 人が走る音。

 短い叫び。

 澪の声。

 そして、蓮司の「下がれ!」という怒鳴り声。


 六花が即座に顔を上げる。


「行く」

「う、うん!」


 二人で駆ける。


 診療区画の少し手前、資材用の通路脇に人だかりができていた。

 九条の部下が二人、何かを支えるようにしゃがんでいる。

 その奥で澪が膝をつき、手早く誰かの肩を見ていた。


「何」

 六花が短く聞く。


 澪は振り向かずに答えた。


「生きてる」

「誰」

「少女」

 そこでようやく少しだけ顔を上げる。

「逃げてきたみたい」


 花音は人の隙間からその姿を見て、息を止めた。


 女の子だった。


 年は、自分たちより少し下か、同じくらいか。

 痩せている。

 肩も腕も細い。

 服は汚れていて、裾が裂け、靴も片方がだいぶ傷んでいる。

 膝を擦りむいていて、髪は乱れたまま頬に貼りついていた。


 でも、一番印象に残ったのは、その子の目だった。


 開いている。

 ちゃんと開いているのに、何も見たくないみたいな目。


「名前は」

 澪が静かに聞く。


 少女はすぐには答えなかった。

 息だけが浅い。

 肩が震えている。

 でも泣いていない。

 泣くところまで、もう行けていない感じだった。


「……乙葉」


 小さな声。


「下の名前?」

 澪が確認する。


 少女はこくりと頷く。


「苗字は?」

「……」

「言いたくなければ、今はいいです」

 澪は言った。

「でも、呼ぶ名前は必要だから」

「……柊」

「柊乙葉さん」

 澪が繰り返す。

「分かりました」


 そのやり取りの間も、乙葉の目は落ち着かない。

 人を見ているようで、視線が定まらない。

 でも、男の動きだけには妙に早く反応していた。


 蓮司が一歩近づいただけで、乙葉の肩がびくっと跳ねる。


「……あ」

 花音が思わず声を漏らす。


 蓮司はその反応を見て、すぐに足を止めた。

 そして何も言わずに一歩下がる。


 その判断の速さに、花音は少しだけほっとした。


「白峰」

 澪が呼ぶ。

「え」

「この子、診療区画まで一緒に来てくれる?」

「うん、もちろん」

 花音はすぐ頷いた。


 澪はそこで初めて、湊の方へ視線を向ける。


「如月くん」

「何」

「あなたは少し離れて」

「……」

「今は、男の人の声と足音がだめ」

 澪ははっきり言った。

「たぶん、かなり」


 湊は一瞬だけ黙って、それから頷いた。


「分かった」


 あっさり下がる。

 言い訳も、無理に優しくする言葉もない。

 その方が、今は正しい気がした。


 心晴も診療区画の入口まで来ていた。

 顔色はまだ悪い。

 でも、今はそれどころじゃない目をしている。


 花音はしゃがみ込み、乙葉と目線を合わせようとした。

 でも相手はまだ、まっすぐは見ない。


「私、白峰花音」

「……」

「今、名前言いたくなかったら別にいい」

「……聞いた」

 乙葉が小さく言う。

「え」

「さっき、呼ばれてた」

「あ」

 花音は少しだけ間抜けな声を出す。

「そっか」

「……」

「じゃあ、花音でいいよ」

「……」

「無理なら、白峰さんでも」

「……花音、さん」

 すごく小さい声だった。


 その呼び方に、花音は胸の奥が少しだけ痛む。


 この子は今、“人を呼ぶ”ことにまで力を使わなきゃいけない。


「うん」

 花音はできるだけやわらかく返した。

「それでいい」


 乙葉は、そこで初めて少しだけ花音を見た。

 大きい目だ。

 でも、その奥の光が薄い。

 ずっと緊張してきた人の目。


 診療区画へ移動する途中も、乙葉はずっと周囲を警戒していた。

 特に男の足音。

 蓮司が遠ざかる方向へ、さっきから何度も視線が向く。


 布で仕切られた診療所の中へ入ると、少しだけ空気が変わる。

 アルコールの匂い。

 狭いけれど、外よりは区切られた空間。


 澪が乙葉を椅子に座らせる。

 花音はその横にしゃがんだ。

 心晴は少し後ろ。

 六花は入り口近くの壁際に立つ。

 近づきすぎない位置だ。


「その人」

 乙葉が、六花を見た。


「え?」

 花音が振り返る。


「怖い」

 乙葉が言う。


 六花は一瞬だけ目を瞬く。

 それから淡々と返した。


「知ってる」

「そこ認めるんだ」

 花音が言う。


「でも、殴るなら殴る前に言う」

 六花は続けた。

「……」

「たぶん」

 花音が横から言う。

「“たぶん”って何」

「ちょっとだけ不安になってきた」

「失礼」

「ごめん、今のは半分冗談!」


 乙葉の目が少しだけ動いた。

 まだ笑わない。

 でも、“今のやり取りは自分に向いていない危険ではない”と理解した顔だった。


 澪が傷の確認をしながら、静かに聞く。


「追われていたの?」

「……」

 乙葉は少しだけ固まる。

「答えなくていい」

 澪がすぐに言った。

「でも、ここに来たなら、何から逃げてきたかだけは知りたい」

「……人」

「男たち?」

 乙葉が小さく頷く。


 花音は喉の奥が冷えるのを感じた。


「鬼塚みたいな?」

 そう聞いた瞬間、乙葉の目がはっきり揺れた。

「鬼塚」

 その名前を、嫌なものみたいに繰り返す。

「あいつ、知ってるの」

「今日会った」

 花音が言った。

「最悪だった」


 乙葉は少しだけ唇を噛む。


「……あれ、下の方」

「下?」

 心晴が初めて口を開く。

「下っ端」

 乙葉は言う。

「もっと、上がいる」


 部屋の中がしんとする。


 花音が言葉を失う。

 鬼塚であれなら、その上って何だ。

 どこまで悪くなれるんだ、人間って。


 澪は静かに問いを続ける。


「どこから逃げてきたの」

「……分かんない」

「分からない?」

「連れてかれて、目隠しされて」

 乙葉の声は少しだけかすれていた。

「だから、道は……」

「そう」

 澪は頷く。

「じゃあ、中のことだけでも」


 乙葉は少しだけ呼吸を乱す。

 花音は反射的に手を伸ばしかけて、でも触れるのがだめかもしれないと思って止めた。

 その迷いを見て、乙葉の方から毛布の端を少しだけ握り直す。


「女の人、いた」

「うん」

「いっぱいじゃない」

 乙葉が言う。

「でも、いた」

「……」

「若い子と、私くらいの子と、もっと上も」

 言葉が途切れがちになる。

「仕事って言われる」

「何の」

 花音が聞きそうになって、でも澪が先に目で止めた。


 澪はもっと穏やかに言う。


「役割をつけられるのね」

「……うん」

「男たちの?」

 乙葉は黙ったまま、こくりと頷いた。


 花音の拳が膝の上でこわばる。


 もう十分だった。

 それ以上具体的に聞かなくても、伝わってしまう。


「逃げたら」

 乙葉が続ける。

「戻ってきた人、見せられる」

「……」

「言うこと聞かないと、順番が来る」

 その声は不思議なくらい静かだった。

「だから、みんな黙る」


 花音はもう、自分の顔がどうなっているか分からなかった。

 怖い。

 気持ち悪い。

 悔しい。

 怒りたいのに、うまく言葉にならない。


 心晴がその横で、小さく聞く。


「まだいるの」

「……うん」

「何人」

「分かんない」

 乙葉は首を振る。

「でも、まだいる」


 その一言で、空気が決まった。


 まだいる。


 今この瞬間も。

 あそこに。

 鬼塚の先にいる“もっと上”の連中のところに。


 花音は息を吸って、でもうまく吐けなかった。


「最低」

 ようやく出た言葉がそれだった。


 乙葉の目が少しだけ動く。


「……」

「最低だよ、ほんとに」

 花音は言う。

「意味わかんない」

「うん」

 乙葉が小さく答えた。

「わかんない方が、たぶん普通」


 その言葉に、心晴が少しだけ顔を上げる。


「あなた、名前呼ばれてた」

 心晴が静かに言う。

「乙葉」

「……うん」

「逃げてきたの、すごい」

「すごくない」

「すごいよ」

 花音がすぐ言う。

「ここまで来たんでしょ」

「でも、途中で何人も……」

「それでも来たじゃん」

 花音ははっきり言った。

「来たなら、それはすごい」


 乙葉は少しだけ目を見開いて、それから視線を落とした。


 泣かない。

 でも、何かが少しだけ揺れたのは分かった。


 六花が壁際から低く言う。


「鬼塚は末端」

 誰に向けた声でもない。

 でも部屋の全員に聞かせる声だった。

「ってことは、次はそっち」

「うん」

 花音が答える。

「だよね」


 そこへ、布の向こうから足音がした。

 男の足音。

 乙葉の肩が強張る。


 でも、次に聞こえた声で少しだけ空気が変わる。


「……入る」

 湊だった。


 澪が短く返す。


「大丈夫」

 その許可を聞いてから、湊が中へ入る。

 いつもより一歩分、動きがゆっくりしている。


 乙葉は一瞬だけそっちを見て、それからまた視線を下げた。

 完全には無理でも、“さっきみたいな目”ではなくなっている。


「聞いた」

 湊が言う。


 短い一言。


 花音はその声を聞いただけで分かった。

 もう決めかけている。

 まだ全部言葉になっていなくても、湊の中では次が始まっている。


「……まだ、あそこに何人もいる」

 乙葉が小さく、でもはっきりと言った。


 部屋の中がまた静かになる。


 でもその静けさは、さっきまでの沈んだ静けさじゃなかった。

 次に向かう前の、張った静けさだった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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