逃げてきた少女
襲撃のあと、生存圏はひどく静かだった。
泣き声はある。
怒鳴り声もある。
怪我人のうめきも、壊れた土嚢を積み直す音も、確かに聞こえる。
でも、その全部の上に、もっと重い沈黙がかぶさっていた。
**また奪われた。**
その事実を、誰も大きな声では言わない。
言わなくても分かるからだ。
そして、言葉にした瞬間に、もう一度全員が正面からそれを見なきゃいけなくなるからだ。
白峰花音は、避難区画の外れにある給水タンクの横で、しばらく動けずにいた。
喉が乾いている。
でも水を飲みたいのかどうか、自分でもよく分からない。
腕の包帯はまだ新しいのに、もう中まで汚れている気がした。
さっきから手を洗ったのに、鬼塚の目だけがまだ肌の上に残っているみたいで気持ち悪い。
「白峰」
低い声で呼ばれて、花音は肩を跳ねさせた。
振り向くと、六花が立っている。
服の裾が少し切れていて、頬にも浅い擦り傷があった。
それでも表情はいつも通り薄い。
でも、目だけがいつもより少し冷たかった。
「……びっくりした」
「知ってる」
「気づいてるならもうちょっと優しく来てよ」
「今それ必要?」
「必要」
花音は即答した。
「かなり」
六花は小さく息を吐く。
「ごめん」
「え」
「びっくりさせた」
「……」
「必要なんでしょ」
「そうだけど」
花音は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「六花ちゃんがそれ言うと、逆にちょっとびっくりする」
「面倒」
「知ってる」
それで少しだけ、呼吸が戻る。
少し離れたところでは、九条と蓮司がまだ外縁の再確認をしていた。
湊はその二人の間にいる。
話している内容までは聞こえない。
でも、顔だけで分かる。
全員、次のことを考えている。
花音はその横顔を見てから、視線を落とした。
「……ねえ」
「何」
六花が返す。
「取り返せるかな」
「誰を」
「分かってるくせに」
「確認」
六花は言った。
「言葉にしないと、曖昧になる」
「そういうの今やめてよ」
「やめない」
六花の声は静かだった。
「白峰」
「……」
「攫われた人の話でしょ」
「……うん」
「なら、取り返す前提で動くしかない」
「前提」
「そう」
六花は花音を見る。
「諦める理由を先に探すな」
その言い方は厳しい。
でも、その厳しさに少しだけ救われる。
六花がそう言うなら、まだ終わっていない気がするからだ。
その時、区画の奥の方で騒ぎが起きた。
人が走る音。
短い叫び。
澪の声。
そして、蓮司の「下がれ!」という怒鳴り声。
六花が即座に顔を上げる。
「行く」
「う、うん!」
二人で駆ける。
診療区画の少し手前、資材用の通路脇に人だかりができていた。
九条の部下が二人、何かを支えるようにしゃがんでいる。
その奥で澪が膝をつき、手早く誰かの肩を見ていた。
「何」
六花が短く聞く。
澪は振り向かずに答えた。
「生きてる」
「誰」
「少女」
そこでようやく少しだけ顔を上げる。
「逃げてきたみたい」
花音は人の隙間からその姿を見て、息を止めた。
女の子だった。
年は、自分たちより少し下か、同じくらいか。
痩せている。
肩も腕も細い。
服は汚れていて、裾が裂け、靴も片方がだいぶ傷んでいる。
膝を擦りむいていて、髪は乱れたまま頬に貼りついていた。
でも、一番印象に残ったのは、その子の目だった。
開いている。
ちゃんと開いているのに、何も見たくないみたいな目。
「名前は」
澪が静かに聞く。
少女はすぐには答えなかった。
息だけが浅い。
肩が震えている。
でも泣いていない。
泣くところまで、もう行けていない感じだった。
「……乙葉」
小さな声。
「下の名前?」
澪が確認する。
少女はこくりと頷く。
「苗字は?」
「……」
「言いたくなければ、今はいいです」
澪は言った。
「でも、呼ぶ名前は必要だから」
「……柊」
「柊乙葉さん」
澪が繰り返す。
「分かりました」
そのやり取りの間も、乙葉の目は落ち着かない。
人を見ているようで、視線が定まらない。
でも、男の動きだけには妙に早く反応していた。
蓮司が一歩近づいただけで、乙葉の肩がびくっと跳ねる。
「……あ」
花音が思わず声を漏らす。
蓮司はその反応を見て、すぐに足を止めた。
そして何も言わずに一歩下がる。
その判断の速さに、花音は少しだけほっとした。
「白峰」
澪が呼ぶ。
「え」
「この子、診療区画まで一緒に来てくれる?」
「うん、もちろん」
花音はすぐ頷いた。
澪はそこで初めて、湊の方へ視線を向ける。
「如月くん」
「何」
「あなたは少し離れて」
「……」
「今は、男の人の声と足音がだめ」
澪ははっきり言った。
「たぶん、かなり」
湊は一瞬だけ黙って、それから頷いた。
「分かった」
あっさり下がる。
言い訳も、無理に優しくする言葉もない。
その方が、今は正しい気がした。
心晴も診療区画の入口まで来ていた。
顔色はまだ悪い。
でも、今はそれどころじゃない目をしている。
花音はしゃがみ込み、乙葉と目線を合わせようとした。
でも相手はまだ、まっすぐは見ない。
「私、白峰花音」
「……」
「今、名前言いたくなかったら別にいい」
「……聞いた」
乙葉が小さく言う。
「え」
「さっき、呼ばれてた」
「あ」
花音は少しだけ間抜けな声を出す。
「そっか」
「……」
「じゃあ、花音でいいよ」
「……」
「無理なら、白峰さんでも」
「……花音、さん」
すごく小さい声だった。
その呼び方に、花音は胸の奥が少しだけ痛む。
この子は今、“人を呼ぶ”ことにまで力を使わなきゃいけない。
「うん」
花音はできるだけやわらかく返した。
「それでいい」
乙葉は、そこで初めて少しだけ花音を見た。
大きい目だ。
でも、その奥の光が薄い。
ずっと緊張してきた人の目。
診療区画へ移動する途中も、乙葉はずっと周囲を警戒していた。
特に男の足音。
蓮司が遠ざかる方向へ、さっきから何度も視線が向く。
布で仕切られた診療所の中へ入ると、少しだけ空気が変わる。
アルコールの匂い。
狭いけれど、外よりは区切られた空間。
澪が乙葉を椅子に座らせる。
花音はその横にしゃがんだ。
心晴は少し後ろ。
六花は入り口近くの壁際に立つ。
近づきすぎない位置だ。
「その人」
乙葉が、六花を見た。
「え?」
花音が振り返る。
「怖い」
乙葉が言う。
六花は一瞬だけ目を瞬く。
それから淡々と返した。
「知ってる」
「そこ認めるんだ」
花音が言う。
「でも、殴るなら殴る前に言う」
六花は続けた。
「……」
「たぶん」
花音が横から言う。
「“たぶん”って何」
「ちょっとだけ不安になってきた」
「失礼」
「ごめん、今のは半分冗談!」
乙葉の目が少しだけ動いた。
まだ笑わない。
でも、“今のやり取りは自分に向いていない危険ではない”と理解した顔だった。
澪が傷の確認をしながら、静かに聞く。
「追われていたの?」
「……」
乙葉は少しだけ固まる。
「答えなくていい」
澪がすぐに言った。
「でも、ここに来たなら、何から逃げてきたかだけは知りたい」
「……人」
「男たち?」
乙葉が小さく頷く。
花音は喉の奥が冷えるのを感じた。
「鬼塚みたいな?」
そう聞いた瞬間、乙葉の目がはっきり揺れた。
「鬼塚」
その名前を、嫌なものみたいに繰り返す。
「あいつ、知ってるの」
「今日会った」
花音が言った。
「最悪だった」
乙葉は少しだけ唇を噛む。
「……あれ、下の方」
「下?」
心晴が初めて口を開く。
「下っ端」
乙葉は言う。
「もっと、上がいる」
部屋の中がしんとする。
花音が言葉を失う。
鬼塚であれなら、その上って何だ。
どこまで悪くなれるんだ、人間って。
澪は静かに問いを続ける。
「どこから逃げてきたの」
「……分かんない」
「分からない?」
「連れてかれて、目隠しされて」
乙葉の声は少しだけかすれていた。
「だから、道は……」
「そう」
澪は頷く。
「じゃあ、中のことだけでも」
乙葉は少しだけ呼吸を乱す。
花音は反射的に手を伸ばしかけて、でも触れるのがだめかもしれないと思って止めた。
その迷いを見て、乙葉の方から毛布の端を少しだけ握り直す。
「女の人、いた」
「うん」
「いっぱいじゃない」
乙葉が言う。
「でも、いた」
「……」
「若い子と、私くらいの子と、もっと上も」
言葉が途切れがちになる。
「仕事って言われる」
「何の」
花音が聞きそうになって、でも澪が先に目で止めた。
澪はもっと穏やかに言う。
「役割をつけられるのね」
「……うん」
「男たちの?」
乙葉は黙ったまま、こくりと頷いた。
花音の拳が膝の上でこわばる。
もう十分だった。
それ以上具体的に聞かなくても、伝わってしまう。
「逃げたら」
乙葉が続ける。
「戻ってきた人、見せられる」
「……」
「言うこと聞かないと、順番が来る」
その声は不思議なくらい静かだった。
「だから、みんな黙る」
花音はもう、自分の顔がどうなっているか分からなかった。
怖い。
気持ち悪い。
悔しい。
怒りたいのに、うまく言葉にならない。
心晴がその横で、小さく聞く。
「まだいるの」
「……うん」
「何人」
「分かんない」
乙葉は首を振る。
「でも、まだいる」
その一言で、空気が決まった。
まだいる。
今この瞬間も。
あそこに。
鬼塚の先にいる“もっと上”の連中のところに。
花音は息を吸って、でもうまく吐けなかった。
「最低」
ようやく出た言葉がそれだった。
乙葉の目が少しだけ動く。
「……」
「最低だよ、ほんとに」
花音は言う。
「意味わかんない」
「うん」
乙葉が小さく答えた。
「わかんない方が、たぶん普通」
その言葉に、心晴が少しだけ顔を上げる。
「あなた、名前呼ばれてた」
心晴が静かに言う。
「乙葉」
「……うん」
「逃げてきたの、すごい」
「すごくない」
「すごいよ」
花音がすぐ言う。
「ここまで来たんでしょ」
「でも、途中で何人も……」
「それでも来たじゃん」
花音ははっきり言った。
「来たなら、それはすごい」
乙葉は少しだけ目を見開いて、それから視線を落とした。
泣かない。
でも、何かが少しだけ揺れたのは分かった。
六花が壁際から低く言う。
「鬼塚は末端」
誰に向けた声でもない。
でも部屋の全員に聞かせる声だった。
「ってことは、次はそっち」
「うん」
花音が答える。
「だよね」
そこへ、布の向こうから足音がした。
男の足音。
乙葉の肩が強張る。
でも、次に聞こえた声で少しだけ空気が変わる。
「……入る」
湊だった。
澪が短く返す。
「大丈夫」
その許可を聞いてから、湊が中へ入る。
いつもより一歩分、動きがゆっくりしている。
乙葉は一瞬だけそっちを見て、それからまた視線を下げた。
完全には無理でも、“さっきみたいな目”ではなくなっている。
「聞いた」
湊が言う。
短い一言。
花音はその声を聞いただけで分かった。
もう決めかけている。
まだ全部言葉になっていなくても、湊の中では次が始まっている。
「……まだ、あそこに何人もいる」
乙葉が小さく、でもはっきりと言った。
部屋の中がまた静かになる。
でもその静けさは、さっきまでの沈んだ静けさじゃなかった。
次に向かう前の、張った静けさだった。
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