生存圏の灯り
中に入った瞬間、花音はほっとした。
そして、その安心は五歩で消えた。
鉄柵とコンテナで囲われた内側には、たしかに人がいた。
子どももいる。
老人もいる。
怪我人も、物資を運ぶ人も、火を囲んで何かを煮ている人もいる。
なのに、空気が重い。
人の数はあるのに、生活の音が少なすぎた。
誰も騒がない。
子どもでさえ、普通の避難所みたいにはしゃいだりしない。
大人たちは必要なことだけを小声で交わし、視線の半分はいつも外側へ向いている。
生きている場所というより、
**崩れながら、まだ止まっていない場所**。
そんな感じだった。
「……なんか」
花音が小さく言う。
「静かすぎる」
九条が前を歩いたまま返す。
「静かじゃないと、余計なもんが寄ってくる」
「余計なもん」
「感染者も、人間も」
「わあ、ひとまとめ」
「今は似たようなもんだ」
篠崎蓮司が後ろから言った。
その言い方に、花音は顔をしかめた。
でも反論もできない。
倉庫街で見た跡と、さっきの銃口と、全部がもうそれを教えている。
通路代わりの細い隙間を進いていく。
コンテナの間にロープが張られ、布が干され、地面には木箱やポリタンクが並んでいる。
即席の暮らしだ。
けれど、諦めた感じはしない。
ここで回そうとしている人の手がある。
その途中、花音の目に小さな子どもが映った。
七つか八つくらい。
痩せている。
毛布を抱えたまま、コンテナの影からこっちを見ていた。
でもすぐに隠れた。
花音の胸の奥が、少しだけざらつく。
「……ねえ」
「何」
心晴が横で小さく返す。
「子ども、すごい静か」
「うん」
「普通じゃないよね」
「普通だったら、たぶんここまで残ってない」
心晴は言った。
その返しに、花音は何も言えなくなる。
普通じゃない。
でも、その普通じゃなさが、この場所を持たせているのかもしれない。
九条が振り向いた。
「白峰」
「はい」
「怪我してるんだろ」
「え、あ、はい」
「先に診療所」
「診療所あるんだ」
「あるだけだ」
九条は言う。
「足りてるとは言ってない」
「だよね……」
花音は思わず肩を落とした。
この人、やっぱり変に優しく嘘をつかない。
だから逆に少し楽でもある。
心晴も少しふらついたのを、六花が見逃さなかった。
「心晴も」
「……平気」
「顔が平気じゃない」
「六花、それちょっと傷つく」
「事実」
六花が返す。
「じゃあ、もう少し言い方」
「後で」
湊がそこで短く言った。
「二人とも行け」
「如月は?」
花音が聞く。
「九条と話す」
「じゃあ私も」
「怪我見せてこい」
「はいはい」
素直に返したものの、花音は少しだけ湊の横顔を見た。
九条と話す時の湊は、さっきから少しだけいつもと違う。
雑な感じは同じなのに、言葉の後ろでずっと計算している顔をしている。
それだけ今、この場所は重要なのだろう。
花音と心晴は、九条に案内されてコンテナ二つ分ほど奥まった区画へ向かった。
そこだけ白い布で仕切られていて、簡易的に“中”が作られている。
入り口脇には、汚れた消毒用アルコールのボトルと、使い捨て手袋の箱。
診療所、と呼ぶしかない場所だった。
「澪」
九条が布の向こうへ声をかける。
「新入り。軽傷二名、疲労強め一名」
布の向こうから、少し間を置いて女の声が返ってきた。
「一名増えてません?」
「増えてる」
「どっちですか」
「見れば分かる」
「分かりたくない答え方ですね」
その会話に、花音は少しだけ眉を上げた。
ちゃんと、人がいる会話だ。
必要なことを言ってるだけなのに、どこか生活の匂いがある。
「入って」
中から声がした。
花音が布をくぐる。
中は狭い。
ベッドは二つ。
棚には薬瓶、包帯、ハサミ、消毒液。
壁代わりのコンテナは熱を持っていて、空気が少しだけ閉じている。
けれど、アルコールの匂いがここだけ妙に“ちゃんとしている場所”みたいに感じられた。
「座ってください」
女が言う。
その人は、花音が顔を覚える前に怪我を見た。
「右腕ですね」
「え、あ、はい」
「心晴さんは顔色」
女の視線が静かに心晴へ向く。
「相当悪い」
「そんな言い切るんだ」
花音が思わず言う。
「言い切らないと、本人が誤魔化すので」
女は淡々と返した。
「ほら」
花音が心晴を見る。
「だよね」
「そこは味方しないで」
心晴が言う。
女は花音の前へしゃがんだ。
年上。
三十前後くらい。
髪は後ろで一つにまとめられていて、少し乱れているのに不思議と不潔に見えない。
顔立ちはやわらかい。
でも、眠っていない大人の疲れが目の下に薄くある。
きれいな人だと花音は思った。
派手じゃない。
でも、見た瞬間にちょっとだけ安心したくなる顔だった。
「私は雨宮澪です」
女は包帯を外しながら言う。
「ここで医療を見ています」
「白峰花音です」
「知っています」
「ですよね」
花音は少しだけ苦笑する。
「今日、名前が勝手に広がる日だ……」
「ここは人の出入りが少ないので」
澪は小さく言う。
「新顔はすぐ共有されます」
「なんかすごい、田舎の回覧板みたい」
「内容はあまり平和じゃありませんけど」
「ですよね」
澪が傷口を見て、消毒液を準備する。
「しみます」
「先に言うんだ」
「言わないと恨まれるので」
「それで今まで何人に恨まれました?」
「かなり」
「ですよね」
花音が言った次の瞬間、消毒が来た。
「いっ……!」
「はい」
「そこ“はい”で済ませるやつなんだ」
「済んでないですよ。今ちゃんと痛がってます」
「静かなのに強いなあ……」
そのやり取りの横で、心晴は椅子に座らされていた。
澪はちらちら花音を見ながらも、心晴の唇の色と呼吸も同時に見ている。
その目つきが、花音には少しだけ印象的だった。
優しい。
でも優しいだけじゃない。
見て、判断して、止めるべき時は止める目だ。
「心晴さん」
澪が呼ぶ。
「寝ていませんね」
「……分かりますか」
「顔色と、呼吸と、目の乾きで」
「うわ」
花音が横から言う。
「すご」
「すごくはありません」
澪は淡々と包帯を巻く。
「見てきただけです」
その言い方に、花音は少し黙った。
この人はたぶん、何人も見てきた。
怪我も、飢えも、疲労も、たぶんもっとひどいものも。
その上で、今もここに座っている。
澪は花音の腕に新しい包帯を巻き終えると、やっと少しだけ息を抜いた。
「痛みは?」
「あります」
「でしょうね」
「そこ否定してほしかった」
「大丈夫じゃない時に大丈夫と言うの、私はあまり好きじゃないので」
澪がやわらかく言う。
「……」
「でも、今すぐ駄目になる傷ではありません」
「それは、かなり助かります」
「それならよかった」
その返しで、花音の胸の中の警戒が少しだけほどけた。
この人は、“大丈夫じゃないものを大丈夫と言わない”。
それだけで、今はかなり信用できる。
花音はちらっと周囲を見る。
診療所の奥には、簡易ベッドで眠っている子どもが一人。
別の椅子には、腕を三角巾で吊った女の人。
みんな静かだ。
「……ここ、ずっとこんな感じですか」
花音が小さく聞く。
澪の手が一瞬だけ止まる。
「最近は特に」
「最近」
「ええ」
澪は包帯の端を止めながら言った。
「感染者だけじゃなく、人間側の問題も増えています」
「人間側」
「食料、燃料、薬、武器」
澪は指を折るように、ひとつずつ並べる。
「それから、人」
最後の単語だけ、花音には少し重く聞こえた。
「……人?」
「労働力」
澪は言う。
「交渉材料。見せしめ。所有物」
「所有物?」
心晴が顔を上げた。
澪は二人を見た。
その視線はまっすぐだった。
濁さない代わりに、煽りもしない。
「女や子どもが消えることがあります」
静かな声で言う。
「この周辺では、特に」
花音は一瞬、言葉の意味が遅れて入ってきた。
消える。
女や子どもが。
怪物に喰われるのではなく、人間側の問題として。
「……それって」
喉が少し引っかかる。
「どういう」
澪は少しだけ目を伏せて、それから言った。
「言葉の意味そのままです」
「……」
「攫う人たちがいる」
その声は静かだった。
「若い女の子や、逆らえない子どもを」
花音の指が、膝の上でこわばった。
さっき倉庫で見た跡。
人が人を襲った跡。
鬼塚みたいな男がいるのだと、まだ知らない段階でも、頭の奥で何か嫌なものが繋がり始める。
「九条さんたちが守ってるのに?」
花音が聞く。
「守っているから、今ここにいる人がまだ残っています」
澪は言う。
「でも、全部は守れない」
「……」
「外に出れば、もっとあからさまです」
心晴は静かに澪を見ていた。
表情は大きく変わらない。
でも、目だけが少し冷えている。
「嫌な世界ですね」
心晴が言う。
「ええ」
澪は答える。
「ほんとうに」
花音は唇を噛みそうになって、やめた。
学園都市の中では、怪物が怖かった。
白い研究区が怖かった。
管理区が怖かった。
でも今、外の世界で初めて、人間そのものが別の意味で怖いと分かってしまった。
「花音さん」
澪が呼ぶ。
「はい」
「今の顔、無理に飲み込まなくていいですよ」
「え」
「怒ってますよね」
静かな言い方だった。
「……」
「そういう感情は、たぶんここでは必要です」
その言葉に、花音は少しだけ目を瞬いた。
怒っている。
たしかにそうだ。
怖いより先に、少しだけ、腹が立っている。
どうしてそんなことになるのか。
どうして“外”まで来てそんな目に遭う人がいるのか。
どうして女だから、子どもだから、狙われなきゃいけないのか。
言葉にならないけど、胸の真ん中に熱いものが残る。
その時、布の向こうから低い声がした。
「澪」
九条だ。
「終わったか」
「今、包帯を巻き終えたところです」
「なら少し借りる」
「怪我人優先です」
「分かってる」
九条の声が一瞬だけ疲れた。
「でも状況が変わった」
澪の目が少しだけ細くなる。
「外?」
「物資回収班を増やす」
九条が言う。
「この子たちにも同行してもらう可能性がある」
花音が「え」と顔を上げた。
心晴も澪を見る。
澪は一瞬だけ考えて、それから小さく息を吐いた。
「安静と言える段階ではありませんしね」
「すみません」
九条が布の向こうで言う。
「謝るなら寝る時間をください」
「努力する」
そのやり取りに、花音は少しだけ驚いた。
九条にもこういう会話をする相手がいる。
責任者というより、人間に見える瞬間だった。
澪は立ち上がる。
「白峰さん、腕はしばらく無理に使わないで」
「たぶん無理です」
「でしょうね」
「ですよね」
「でも、切れたらすぐ言ってください」
「はい」
「心晴さんも」
澪は静かに見る。
「大丈夫じゃないなら、大丈夫じゃないって言っていいんですよ」
「……」
心晴は少しだけ目を伏せた。
「言えるように、努力します」
「十分です」
澪が言った。
花音はそのやり取りを見ながら、少しだけ思う。
この人はきっと、こうやって何人も“努力します”を聞いてきたのだろう。
それでも、笑わずに受け取る。
布をくぐって外へ出ると、さっきより空が少しだけ明るくなっていた。
灰色の海と、コンテナの列と、武装した大人たち。
世界は相変わらず終わっているのに、その上で朝になろうとしている。
九条が待っていた。
その横には湊と六花、少し離れて蓮司。
全員、もう“休める顔”をしていない。
「何かあった?」
花音が聞く。
九条は短く答えた。
「物資回収班を出す」
「今?」
「今だからだ」
「それ、やな予感しかしないんだけど」
「当たりだと思う」
心晴が静かに言った。
花音は包帯を巻いた腕を見下ろして、それから前を向く。
外の世界は、やっぱり少しもやさしくなかった。
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