漂着
艇が岸壁へ触れた時、その音は思ったより小さかった。
ごつん、という軽い衝撃。
それだけで、白い艇は波に揺れながら埠頭の端へ寄る。
でも、その小さな音ひとつで、花音の心臓はまた変な跳ね方をした。
上陸する。
ほんとうに外へ出る。
学園都市の中でも、外へ出たいとは何度も思っていた。
出られたら全部少しは楽になるんじゃないかって、どこかで勝手に期待していた。
でも今、目の前にあるのは“外”というより、知らない地獄の入口だった。
「行く」
六花が言う。
短い一言と同時に、彼女はもう動いていた。
艇の縁を蹴って岸壁へ飛び移る。
着地音は小さい。
膝を軽く曲げて衝撃を殺し、そのまま低い姿勢で周囲を確認する。
湊が続いた。
六花の半歩後ろ。
武器を構えきるより先に、まず見る。
人がいるか。
感染者がいるか。
死角はどこか。
「クリア?」
真琴が艇の中から小さく聞く。
「今のとこ」
六花が返す。
「早く」
花音は喉の奥を詰まらせながらも、艇の縁へ手をかけた。
その横で心晴も立ち上がる。
顔色はまだ悪い。
でも、もうその白さにも少し慣れてしまったのが嫌だった。
「先、行く」
心晴が言う。
「待って、一緒」
花音が反射で言ってしまう。
心晴が一瞬だけ目を瞬く。
それから、小さく頷いた。
二人でほぼ同時に岸壁へ降りる。
コンクリートは冷たかった。
海の上より、地面の方が逆に不安定に感じる。
最後に真琴と奏恵が降りる。
艇はそのまま岸壁の影へ寄せた。
逃げるにしても隠すにしても、目立たない方がいい。
上陸した途端、匂いが一気に強くなる。
潮。
油。
焦げたゴム。
錆。
それに、閉じた倉庫の中で何かが腐っていくような、湿った重い空気。
「うわ……」
花音が思わず顔をしかめる。
「海の匂いって、もっとこう……」
「爽やか?」
真琴が言う。
「そう、それ」
「期待しすぎ」
「知ってるけど!」
六花はすでに埠頭の奥を見ていた。
左側には積み上がったコンテナ群。
右にはクレーンの骨組みと、小型トラックの残骸。
少し先には倉庫が並んでいる。
どれも使われなくなってから時間が経っているように見えるのに、完全に放棄された感じでもない。
人の手が入った痕跡がある。
それも最近。
「足跡」
六花が低く言う。
湊も視線を落とす。
濡れたコンクリートに、泥のついた靴跡が残っていた。
いくつもある。
ひとつふたつじゃない。
しかも、ばらばらに逃げた感じではなく、何度も往復した跡だ。
「人、いるね」
花音が小さく言う。
「いる」
心晴が答える。
「でも、まだ会いたくないかも」
「それも分かる」
湊が言った。
埠頭の奥へ進く。
足音は極力殺す。
でも全員が疲れているせいで、完全には消えない。
自分たちがどれだけ消耗しているか、こういう時にいやでも分かる。
倉庫の一つの前で、六花が止まった。
シャッターが半分壊れている。
正確には、内側からではなく外側からこじ開けられた痕だ。
金属の縁が無理やり曲げられ、鍵部分が破壊されている。
「これ」
花音が呟く。
「感染者、じゃないよね」
「違う」
六花が即答する。
「工具使ってる」
「工具」
花音はその言葉を繰り返す。
「人の方か」
「そう」
湊がシャッターの隙間から中を覗く。
薄暗い。
棚が並んでいる。
その多くが空になっていた。
真琴がそっと隣へ寄る。
「食料倉庫かも」
「だろうな」
湊が言う。
「中、入る?」
花音が聞く。
「見るだけ」
六花が返した。
倉庫の中は、見た瞬間に“怪物が荒らした場所ではない”と分かった。
棚の缶詰や保存食は、無秩序に散らばっていない。
綺麗に持ち出されている。
箱だけが破れ、中身だけが抜かれている。
床には足跡。
引きずられた跡。
それに、乾いた血が少し。
花音は入り口で止まったまま、中を見て息を呑む。
「……なんか、やだ」
「うん」
心晴が言う。
「すごく」
「怪物の跡じゃないって分かるの、逆に怖い」
「それも分かる」
湊が返す。
倉庫の奥の壁には、数発の弾痕が残っていた。
血の量は多くない。
死体もない。
だから余計に想像がつく。
襲われた。
抵抗した。
食料を奪われた。
生きていたなら連れていかれた可能性もある。
六花がしゃがみ、床を指で軽くなぞる。
「新しくはない」
「何日くらい?」
湊が聞く。
「二日、三日……もっとかも」
「曖昧」
花音が言う。
「分かる範囲で言ってる」
「そこはそうだね」
奏恵が倉庫の棚を見て、小さく言う。
「計画的に持っていってる」
「飢えた避難民の略奪なら、もっと散らかる」
真琴が言った。
「……組織立ってる」
「聞きたくない単語が増えた」
花音が小さく肩を落とす。
心晴は倉庫の奥を見ていた。
血は少ない。
でも、“ここで誰かが襲われた”空気だけが残っている。
研究区の白い廊下とは別の意味で嫌だった。
あちらは隠された冷たさ。
こっちはむき出しの奪い合い。
「外って、こうなんだ」
心晴が小さく言う。
「まだ全部じゃない」
六花が返す。
「たぶん、もっと悪い」
「そこは否定してほしかった」
花音が言う。
その時だった。
遠くで、乾いた音が鳴った。
ぱん、と。
一発。
短い間を置いて、また二発。
発砲音。
全員の体が止まる。
六花の目が鋭くなる。
湊も反射で顔を上げる。
花音は一瞬だけ息を忘れた。
「……銃」
心晴が言う。
「聞けば分かる」
六花が返す。
「いやそうなんだけど、確認したかったの!」
真琴が音の方向へ顔を向ける。
「東。倉庫街の向こう」
「近い?」
湊が聞く。
「遠くはない」
六花が答えた。
続いて、人の怒鳴り声が風に混じって届いた。
内容までは聞き取れない。
でも怪物相手の叫び方ではない。
誰かに指示を飛ばす声。
人間同士の声だ。
花音の背中に冷たいものが走る。
「やだ」
思わず口に出た。
「外に出たのに、最初に聞くのそれ?」
「運が悪い」
六花が言う。
「ほんとに?」
「だいぶ」
湊は倉庫の外へ出て、コンテナの隙間から東側を見た。
煙までは見えない。
だが、確かに何かが起きている。
生存者同士の争いか、防衛か、それとも略奪か。
「戻る?」
花音が聞く。
「艇に?」
「うん」
「戻って海に出ても、どこに行く」
湊が言った。
花音は口を閉じる。
行き先なんてない。
燃料も無限じゃない。
真水も食料も足りない。
上陸した以上、どこか人のいる場所を見つけるしかない。
「人がいるなら、情報もある」
真琴が言う。
「でも危険もある」
「知ってる」
湊が返す。
六花は東の方角を見たまま言う。
「行くなら、今」
「理由は」
「発砲してるってことは、まだ終わってない」
「終わったあとより、今の方がいい?」
花音が半信半疑で言う。
「終わったあとだと、残るのは死体か、勝った側」
六花が答えた。
「今なら第三者の余地がある」
その理屈は嫌になるほど分かりやすかった。
心晴が小さく聞く。
「……行くの?」
その声は不安だった。
でも、“嫌だ”ではなかった。
湊は少しだけ考える。
考えるというより、持っている選択肢を並べる。
艇に戻る。
海へ出る。
別の場所を探す。
でも、どこも同じかもしれない。
燃料の問題もある。
今の自分たちに必要なのは、安全そのものより、**拠点と情報**だ。
「行く」
湊が言った。
花音が顔を上げる。
六花はもう頷いている。
心晴も、少しだけ息を吸ってうなずいた。
「隊列」
六花がすぐに言う。
「私が先。湊、右後ろ。心晴と白峰は中。真琴さんと先生は最後」
「了解」
湊が答える。
「はい」
花音も返す。
「分かった」
心晴が続く。
倉庫を出る。
埠頭から一段高い通路へ上がると、景色が少し開けた。
倉庫街の奥、コンテナの列の向こうに、街の骨組みが見える。
クレーン。
連絡橋。
途中で止まったトラックの列。
そのさらに先、かすかに人の影が走るのが見えた気がした。
また発砲音。
今度は少し近い。
花音が肩を跳ねさせる。
「っ……」
「止まるな」
六花が言う。
「う、うん」
その時、風に乗って何か別の音が混じった。
低いうなり声。
引きずるような足音。
すぐ近くではない。
でも、ゼロでもない。
感染者もいる。
人間だけじゃない。
怪物もちゃんと外にいる。
「最悪の盛り合わせやめてほしい」
花音がぼそっと言う。
「今さらだな」
湊が返す。
「便利すぎる、その言葉」
「本当に便利だから」
「認めるんだ」
「今さら」
「ほんとにもう!」
会話のあと、少しだけ呼吸が整う。
それでも足は止めない。
進いた先のコンテナの影で、六花が急に片手を上げた。
全員が止まる。
六花はしゃがみ、地面を見る。
そこには新しい足跡があった。
泥と血が混じっている。
複数。
誰かが走った跡だ。
追う側と、追われる側がいたような乱れ方をしている。
「新しい」
六花が言う。
「かなり」
「追う?」
湊が聞く。
「追うっていうか、方向が一緒」
「じゃあ結局行くんだ」
花音が言う。
「最初からそう」
六花が返す。
コンテナの角を一つ曲がる。
その先で、ようやく人の声がはっきり聞こえた。
「止まれ!」
男の怒鳴り声。
それに続いて、別の声。
「撃つな!」
「引け!」
「走れ!」
人間の声だ。
複数。
混乱している。
誰かが誰かを追っている。
そして次の瞬間、コンテナの隙間の先に、即席バリケードと銃口が見えた。
黒い銃口が、まっすぐこちらを向いていた。
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