プロローグ 海の外側
第4章の始まりです。
海の上は、思っていたよりずっと静かだった。
白い艇が波を切る音。
機関の低い振動。
手すりを叩く潮風。
それだけが、この世界がまだ完全には止まっていないことを教えてくれる。
白峰花音は、冷えた手すりを握ったまま、しばらく指を離せなかった。
指先がかじかんでいる。
腕も足も痛い。
喉は乾いている。
眠いはずなのに、目だけが変に冴えていた。
たぶん、安心していないからだ。
学園都市を出た。
あの白い街から、ようやく外へ出た。
それは確かにそうなのに、胸の奥はぜんぜん軽くなってくれなかった。
花音はゆっくりと後ろを振り返る。
海の上に浮かぶ学園都市アカデミアは、もうかなり遠くに見えた。
夜の底で、赤い警告灯だけがまだ瞬いている。
ところどころで煙のような黒い影が上がっていて、白く整っていたはずの街は、もう遠目にも壊れているのが分かった。
壊れてる。
その一言で片づけるには、あそこにはいろいろありすぎた。
朝の教室も、昼の避難所も、白い研究区も、管理区の冷たさも、全部あの中に残っている。
心晴の父の声も。
《アーク》の形も。
あの中で死んだ人たちも。
「……」
花音は唇を噛みそうになって、やめた。
考え始めると、また息が苦しくなる。
今は前を見た方がいい。
そう思って顔を戻す。
前方には、まだ暗い沿岸地帯があった。
夜明け前の空の下で、港のクレーンが何本も黒い骨みたいに立っている。
大きな倉庫。
コンテナの列。
その向こうに見える街の灯りは、どこか不自然だった。
点いている場所と、完全に死んでいる場所がある。
ただ停電しているだけじゃない。
生きているところと、もう死んでいるところが、まだらに混ざっている感じだ。
花音は目を凝らした。
道路沿いに並ぶ街灯の列は、途中からぷつりと途切れている。
港の奥の方には、煙の筋が上がっていた。
火事のあとかもしれない。
でも、今もくすぶっているみたいにも見える。
「……ねえ」
自分の声が思ったより小さくて、花音は少しだけ喉を鳴らした。
「湊」
艇の後方にいた如月湊が、振り返る。
座っていたわけじゃない。
さっきからずっと、艇の縁に近いところで立ったまま、後ろと横と前を順番に見ている。
見張ってる、という言葉がいちばん近い。
「何」
短い返事。
「前、見て」
「見てる」
「いや、そうじゃなくて、ほら」
花音は手すりから片手を離して、沿岸の方を指さした。
「なんか……やじゃない?」
湊は少しだけ目を細める。
その横で、火澄六花も立ち上がった。
彼女は休んでいたというより、壁にもたれたまま体力の消耗を最低限にしていただけだった。
目は最初から眠っていない。
「煙」
六花が言う。
「あと停電」
「うん」
花音が頷く。
「なんか、普通に“助かった先の街”じゃないよね」
「最初からそんな気はしてない」
六花が返す。
「だよね……」
花音は小さく息を吐いた。
学園都市だけが壊れたんだと思いたかった。
あそこが異常だったんだって、そう思いたかった。
でもたぶん、違う。
違うから、こんな光景が前にある。
艇の内側では、天城心晴が携行端末を膝の上に置いたまま、前を見ていた。
顔色はまだ白い。
疲れも抜けていない。
けれど、目だけは眠っていなかった。
心晴は少しだけ首を上げる。
「港の方、船が少ない」
「え」
花音がそっちを見る。
「分かるの?」
「分かるっていうか……普通なら、もっと係留されてると思う」
「それは」
湊が前を見たまま言う。
「逃げたか、使われたか、沈んだか」
「最後のやつ、聞きたくなかった」
花音が言う。
「でも、たぶんそれだよね」
心晴は端末を見下ろした。
管理区から持ち出した最低限のデータはまだ生きている。
でも、港の詳細まで分かるわけじゃない。
ここから先は、見て、確かめるしかない。
「人がいるかもしれない」
心晴が小さく言う。
「うん」
「でも、まともとは限らない」
「……それ、今いちばん嫌な予想」
花音が肩をすくめた。
その会話を聞いていた六花が、艇の前方へ一歩寄る。
「上陸するなら、埠頭の端がいい」
「理由は」
湊が聞く。
「中央は開けすぎ」
六花は短く答える。
「見られやすいし、撃たれやすい」
「やめてよ、その自然な選択肢みたいに言うの」
花音が言う。
「もう“撃たれる”が候補に入るの嫌なんだけど」
「今さら」
湊が返す。
「それ、便利な言葉みたいに使うのほんとやめて」
「便利だからな」
「認めるんだ」
「今さらだろ」
「もうその返しも含めて雑!」
やり取りのあと、少しだけ空気が緩む。
ほんの少しだけ。
それでも花音にはありがたかった。
完全に静かになると、さっきまでのことが一気に戻ってくる。
玲司のことも。
港湾区の崩落も。
《アーク》の腕が湊を潰しかけた瞬間も。
ぜんぶ。
「……湊」
「何」
「ほんとに怪我ない?」
「今さらか」
「今さらだよ」
花音は少しだけ睨む。
「さっきまでそんな確認してる余裕なかったし」
「ない」
「じゃあ今する」
「……ない」
「どっち」
「深いやつはない」
「その言い方、浅いやつはあるってことじゃん」
「ある」
「やっぱり!」
花音が声を上げると、心晴が少しだけ目元をゆるめた。
六花も呆れたように息を吐く。
「うるさい」
「だって今の流れ、びっくりするでしょ」
「びっくりはしてない」
六花が言う。
「如月だし」
「その“如月だし”で全部片づけるのひどくない?」
「事実」
心晴がぼそっと言う。
「心晴ちゃんまで入るの!?」
「今日はそっち」
心晴は静かに言った。
花音はむっとしながらも、少しだけ安堵した。
心晴が喋っている。
少なくとも、完全には沈んでいない。
艇はゆっくりと沿岸へ近づいていた。
波の音に混じって、今度は別の匂いが流れてくる。
潮だけじゃない。
油。
焦げたゴム。
湿った鉄。
それに、遠くで何かが長く放置された時の嫌なにおい。
花音は思わず鼻を押さえた。
「うわ……」
「港の匂いにしても、ちょっとひどい」
心晴が言う。
「やっぱり何かあったんだよね」
「なかったら逆に困る」
湊が言う。
「それも嫌なんだけど」
前方の埠頭が見えてくる。
コンクリートの岸壁。
係留ロープが切れたまま揺れている桟橋。
横倒しの小型車両。
コンテナがいくつか崩れて積み上がっている。
人影は、まだはっきりとは見えない。
見えないのに、気配だけはある気がした。
「……ねえ」
花音が小さく言う。
「誰か、いるかな」
「いるかも」
心晴が答える。
「いてほしい?」
「それは……」
花音は少しだけ言葉を詰まらせた。
「いてほしいけど、今はちょっと怖い」
それが本音だった。
人がいなければ困る。
でも、人がいたらいたで怖い。
学園都市を出たのに、次は人間を怖がるなんて思っていなかった。
六花が艇の前へ身を寄せ、低く言う。
「左端の埠頭に寄せて」
真琴が操縦補助を見ながら頷く。
「あそこなら遮蔽物が多い」
「上陸後は?」
湊が聞く。
「私が先」
六花が即答する。
「その後ろに如月。心晴と白峰は中。真琴さんと奏恵先生は最後」
「分かった」
湊が答える。
花音はそれを聞きながら、自分の手のひらを見た。
まだ少し震えている。
でも、前みたいに何もできない感じではなかった。
怖い。
それでも降りる。
その準備だけは、もうできている。
心晴が小さく言う。
「……来る」
「え」
花音が顔を上げる。
心晴は前方の埠頭を見ていた。
夜明け前の薄い明かりの中で、コンテナの影が並んでいる。
その奥。
ほんの一瞬だけ、何かが動いた。
人影かもしれない。
風に揺れたシートかもしれない。
でも、ただの風じゃない気がした。
湊の手が、無意識に武器の方へ動く。
六花の重心が下がる。
花音の喉がひく、と鳴った。
埠頭の左端。
崩れたコンテナの影の向こうに、誰かいる。
いるのに、まだ出てこない。
見ているのか。
待っているのか。
それとも、品定めでもしているのか。
花音は自分でもいやになるくらい、そんな嫌な想像をしてしまった。
白い艇は、壊れた岸壁へ静かに近づいていく。
学園都市の外。
本当の海の先。
その最初の地面は、やっぱり安心できる場所には見えなかった。
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