完成体
最初に来たのは、音だった。
重い。
とにかく重い。
研究区で聞いた引きずる音とも、回収部隊の足音とも違う。
それはもっと単純で、もっと生き物らしくなくて、でも確実にこちらへ向かってくる重量の音だった。
ず、……ん。
間を置いて、また。
ず、……ん。
管理区の床が、わずかに震える。
壁に埋め込まれた照明が、揺れに合わせてかすかに明滅した。
花音が息を止める。
「……これ、冗談じゃないよね」
「ここまで来て冗談だったことある?」
六花が言う。
「ないけど、ないけどさ……!」
中央制御区画の奥、分厚い隔壁で閉ざされていた保管ライン側の扉が、ゆっくりと歪み始めていた。
内側から押されている。
それも、人の腕とか機械のアームとか、そういうものじゃない。
もっと面で、もっと質量ごと。
真琴が小さく呟く。
「《アーク》……」
心晴が携行端末を強く握る。
研究区のログで見た文字列。
完成体候補。
最終管理ライン。
それが、今この壁の向こうで現実になっている。
「どういうものなの」
花音が聞く。
「簡単に言うと最悪」
真琴が答える。
「その説明雑すぎるって!」
「今は十分でしょ!」
真琴も少しだけ声を荒げた。
その時、保管ライン隔壁の中央に、細いひびが入る。
ぴき、という乾いた音。
白い塗装の上に黒い線が走る。
続いて、内側から何かが押しつけられるように、隔壁全体が膨らんだ。
花音の喉から、声にならない息が漏れる。
人の形じゃない。
その時点で、もう分かった。
「撤退ルート」
六花が言う。
「今のうちに」
「港湾区ラインは抜いた」
心晴が答える。
「緊急艇起動条件も持ってる」
「よし」
湊が短く言う。
「じゃあもうここに用はない」
その言葉の直後、隔壁のひびが一気に広がった。
ばき、と鈍い破砕音。
内側から、何かの腕のようなものが突き出る。
腕、と呼ぶしかないからそう呼ぶだけで、それは人の腕とはかけ離れていた。
太い。
表面は皮膚というより、無理やり増殖した筋肉の束を薄い膜が覆っているような質感。
関節の位置もおかしい。
それなのに先端には五本の指に近いものがあり、その一本一本が壁へ食い込んでいた。
「……っ」
花音が一歩下がる。
「むり、むりむり、見たくない」
心晴は目をそらせなかった。
研究区のログの文字が、頭の中で勝手に並び直される。
適応率。
段階移行。
完成体候補。
あれは仮説や数字じゃなくて、これへ続いていたのだと、今ようやく現実として飲み込まされる。
父は、ここまで来た。
「これが……」
声がかすれる。
「そう」
真琴が言う。
「たぶん“成功例”」
その言い方に、吐き気がした。
隔壁が内側から引き裂かれる。
白い金属板がねじれ、固定ボルトごと飛ぶ。
中の暗がりから、ゆっくりと巨体が現れた。
最初に見えたのは肩だった。
左右非対称に膨張し、片側だけが異様に大きい。
次に首。
その上の頭部は、人に近い輪郭をかろうじて残していた。
だが顔の半分は、骨格ごと歪んでいる。
片目だけが、濁った白のままこちらを向いた。
口元は裂けていた。
けれど歯の並びだけが妙に整っている。
人をもとに作られたことを、残酷なくらいはっきり見せつける整い方だった。
花音が完全に言葉を失う。
恐怖って、もっと叫ぶものだと思っていた。
でも今は違う。
喉の奥が冷えて、声の出し方そのものが分からない。
巨体が保管ラインから這い出る。
一歩というより、重さごと前へ落ちてくる感じだった。
床が震える。
制御卓のガラスが細かく鳴る。
《アーク》。
名前だけは知っていた。
でも、その名に対応する実物が、こんな形をしているなんて思いたくなかった。
東雲の声が、どこかの回線から割って入る。
「主任、管理区内部への解放は想定範囲を超えます!」
「想定の範囲内だよ」
大地が静かに返す。
「観測を続けて」
「でも」
「東雲」
その一声で、東雲は黙る。
そのやり取りを聞いた瞬間、心晴の中で何かが決定的に切れた。
人が何人死んだかとか、街がどう壊れるかとか、そういう単位じゃない。
父は最後まで、これを観るつもりでいる。
自分たちの前に、この“完成体”を出して、それを観るつもりでいる。
「……最低」
小さく漏れた声は、花音のものだった。
六花がすでに前へ出ている。
警棒はこの相手には小さすぎる。
それでも構えるのをやめない。
「湊」
「分かってる」
湊も答える。
二人とも、もう《アーク》を倒す発想では見ていなかった。
生き延びる。
港湾区へ抜ける。
そのために何秒稼げるか、それだけを考えている顔だった。
だが《アーク》は、そんな判断の速ささえ押し潰すみたいに、もう次の動きをしていた。
巨大な腕が、制御卓の外縁を横殴りに払う。
ごう、と空気が鳴る。
ガラスパネルが砕ける。
中央制御区画の一角が、紙細工みたいに吹き飛ぶ。
「伏せて!」
六花の声。
全員が反射で身を低くする。
砕けたガラス片が雨みたいに降る。
湊が花音の肩を抱き寄せ、心晴が携行端末を胸にかばう。
次の瞬間、管理区の照明の一部が落ちた。
赤い非常灯が点く。
静かすぎた空間が、ようやく崩壊の音を持ち始める。
「撤退!」
六花が叫ぶ。
「ここにいたら死ぬ!」
その判断に、誰も異論はなかった。
だが、出口へ向かおうとした瞬間、管理区反対側の出入口から黒い影が流れ込んでくる。
回収部隊。
霧原沙耶が先頭だった。
フルフェイスではない、防護マスク越しの目が、まず《アーク》を見て、次に心晴たちを見る。
たぶん、彼女にとってもこの状況は想定外だ。
でも表情にはほとんど出ない。
「対象優先」
短い声で言う。
「えっ、そこ!?」
花音が思わず叫ぶ。
「今それやる!?」
沙耶は答えない。
その間にも、《アーク》はもう一撃、壁際のコンソールを潰していた。
火花。
金属の悲鳴。
制御区画の床がまた揺れる。
六花が吐き捨てる。
「ほんと嫌い」
「同感!」
花音が即答した。
湊は一瞬で全体を見る。
前に《アーク》。
横に回収部隊。
制御卓は半壊。
それでも港湾区へのルートデータは心晴が持っている。
残る答えは一つしかない。
「港湾区まで走る!」
湊が叫ぶ。
「ここは捨てる!」
六花が即座に動いた。
横の補助通路へ蹴り込む。
真琴が奏恵の腕を引き、心晴がその後ろにつく。
花音が一瞬、《アーク》から目をそらせないまま固まりかける。
その手首を、湊がつかんだ。
「前見ろ!」
「……っ!」
引かれて、やっと体が動く。
後ろで、《アーク》が管理区の壁をさらに叩き壊す音がした。
人の作った理屈も、管理も、全部を力で踏み潰して進く音だった。
管理区はもう、中枢ではない。
壊れる側に回った。
その現実が、全員の背中を一気に押した。
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