戻らない
管理区の補助室は、休むための場所には見えなかった。
壁は白く、机は薄い灰色で、椅子は床に固定されている。
窓はない。
あるのは壁際の端末と、最低限の照明、それから空調の低い音だけだった。
四人と、真琴、奏恵が中へ入ると、扉は自動で静かに閉じた。
その音だけが、ここが一応は“区切られた空間”だと教えてくれる。
でも安心はない。
追手が来ていないだけだ。
父の声が一度、遠くなっただけだ。
花音は壁にもたれたまま、包帯の巻かれた腕を軽く押さえた。
「……だめだ、心臓がまだ落ち着かない」
「落ち着く方が変」
六花が言う。
「それもそうだけど」
花音は苦く笑う。
「でも、さっきのあれは別方向にやだ」
“別方向”という言い方が、湊には少し分かる気がした。
感染者は怖い。
回収部隊も怖い。
でも大地の声は、それとは違う。
直接噛みついてくるわけでも、銃を向けてくるわけでもないのに、人の奥の方だけを静かに冷やしてくる。
六花は扉の横へ立ち、耳を寄せて外の音を拾っていた。
今のところ近い足音はない。
でも長く止まれる感じでもない。
真琴が端末の表示を確認している。
奏恵は壁際で浅く息をつきながら、少しだけ目を閉じていた。
疲れているはずなのに、完全には気を抜けない顔だった。
その中で、心晴だけがしばらく動かなかった。
補助室の中央、固定された机の脇に立ったまま、どこも見ていないような目で自分の手を見下ろしている。
指先はまだ少し震えていた。
でも、その震えを隠すような仕草はもうしなかった。
「心晴ちゃん」
花音が、さっきより少しだけやわらかい声で呼ぶ。
心晴は少し遅れて顔を上げた。
「……なに」
「座る?」
「ううん」
「ほんとに?」
「今は立ってたい」
その言い方に、花音は無理には勧めなかった。
代わりに、少しだけ距離を詰めて同じ壁際へ寄る。
「じゃあ私も立っとく」
「何で」
「一人で立ってるとしんどそうだから」
「理由が雑」
「湊の影響です」
「やめて」
湊が言う。
「もうそれテンプレみたいに使うな」
「使いやすいんだもん」
「ひどいな」
そのやり取りで、補助室の空気がほんの少しだけ戻る。
だが心晴の目は、まだ完全には今ここにいなかった。
湊はそれを見て、壁から背を離した。
「思い出したのか」
短く聞く。
心晴は一瞬だけ黙る。
その沈黙の長さで、全部ではなくても、何かは掴んだのだと分かる。
「……白い廊下」
やがて言った。
「小さい頃に、たぶん来たことある」
「たぶん」
六花が扉の方を見たまま言う。
「便利な言葉」
「今それ突っ込まなくていいでしょ」
花音が返す。
「必要」
「必要でも今じゃない」
「今だよ」
「もう……」
花音が肩を落とす。
でも、その言い合いがあるおかげで、心晴は少しだけ話しやすそうに見えた。
心晴はゆっくりと続ける。
「はっきり全部思い出したわけじゃない」
「うん」
花音が頷く。
「でも、匂いとか、床の光り方とか、音の返り方とか……そういうのが同じで」
「管理区じゃなくて研究区?」
真琴が聞く。
「たぶん研究区」
心晴は答える。
「白い廊下を、お父さんと歩いた」
「……」
「ガラスの向こうに、人がいた」
その言葉で、部屋の中の空気が少しだけ沈む。
奏恵が静かに目を開ける。
真琴は何も言わない。
花音は心晴だけを見る。
六花は表情を変えない。
湊はそのまま先を待つ。
「見なくていいって、言われた」
心晴が言う。
「それで、ずっと……そういうものなんだと思おうとしてた」
「そういうもの?」
花音が小さく聞く。
「守られてる、みたいな」
言いながら、自分でその言葉が嫌になっていくのが分かった。
守る。
戻りなさい。
見なくていい。
必要のないところで根性がある。
全部がつながる。
全部、同じ方向を向いている。
「違った」
心晴が言う。
「守ってたんじゃなくて、見せなかっただけだ」
「……」
「私はたぶん、最初から“知らなくていい側”に置かれてた」
湊はその言葉を聞きながら、心晴の顔を見る。
痛そうだった。
父に拒絶を返したことより、父の言葉の意味がやっと正しい形で分かってしまったことの方が、たぶん今はきつい。
花音は難しい顔をしながら、それでもすぐに言う。
「それ、だいぶ最悪」
「うん」
「語彙なくてごめん」
「いい」
心晴が少しだけ目を伏せる。
「今は、そのくらいの方がいい」
真琴が端末の電源を一段階落としながら言った。
「知らなくていい側、じゃない」
心晴が顔を上げる。
「何」
「知られると困る側」
真琴は淡々と返す。
「それだけで、だいぶ意味が違う」
「……」
「天城が“守られてた”んじゃなくて、“見せると都合が悪い場所から遠ざけられてた”って考えた方が、今見えてるものとは辻褄が合う」
その言い方は少し冷たい。
でも、変に慰められるより今はましだった。
奏恵が低く言う。
「真琴さんの言う通りよ」
「先生」
心晴が見る。
「あなたが何も知らなかったのは、あなたが子どもだったからだけじゃない」
「……」
「知ってしまったら、管理できなくなるから」
管理。
その単語が、父の顔の代わりに胸へ落ちる。
心晴はそこでようやく、幼い日の記憶の中の違和感が何だったのか、少しだけ言葉にできそうな気がした。
「お父さん、私のこと……娘として見てなかったのかな」
小さい声だった。
誰かに答えを強制するためじゃなく、ただ自分でも確かめるみたいな声。
花音がすぐに答えようとして、少しだけ止まる。
簡単に“そんなことないよ”とは言えなかったからだ。
今まで見てきたものが、もうそんな慰めを許してくれない。
代わりに六花が、扉から目を離さずに言った。
「少なくとも、普通ではない」
短い。
でも十分だった。
「戻る選択はない」
続ける。
「あるなら、最初からここまで来てない」
「六花ちゃん、それ励まし?」
花音が聞く。
「現実確認」
「じゃあ半分励まし」
「好きにして」
六花が言う。
そのやり取りに、心晴は少しだけ息を吐いた。
六花の言葉は温かくはない。
でも、変に情で包まれるより、今はその方が足場になる。
湊がそこで初めて、少しだけ心晴に近づいた。
「決めるのはおまえだ」
静かな声だった。
心晴が顔を上げる。
「……」
「父親がどう見るかじゃない」
湊は続ける。
「研究区がどう扱うかでもない」
「でも私は」
「知ってる」
湊が言う。
「中心に近いんだろ」
「……」
「ならなおさら、決めるのはおまえだ」
花音が小さくうなずく。
「うん」
「人に戻れって言われて戻るかどうかも、自分で決めていい」
「白峰、その言い方ちょっと雑」
真琴が言う。
「分かりやすい方がいいかなって」
「まあ、今はそれでいいか」
補助室の空気はまだ重い。
でもその重さの中で、心晴だけがほんの少しずつ、足元を取り戻していく感じがした。
決める。
その言葉は、ずっと避けられてきたものだった。
見なくていい。
知らなくていい。
戻りなさい。
そう言われているうちは、自分で決めなくて済んだ。
でも今は違う。
見てしまった。
知ってしまった。
そして、戻らないと言ってしまった。
なら、もう次も自分で決めるしかない。
心晴はゆっくりと息を吸った。
怖い。
でも、その怖さの形はさっきまでとは少し違っていた。
押しつぶされる怖さじゃない。
進いた先に何があるか分からない怖さだ。
それなら、まだ自分で歩ける。
「行く」
言葉にした瞬間、自分の声が思ったよりちゃんと出ていたことに少し驚いた。
花音がすぐに顔を上げる。
「うん」
「中央制御?」
湊が聞く。
「うん」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあいい」
湊はそれだけ言った。
六花は扉から離れた。
「話まとまった?」
「たぶん」
花音が答える。
「その“たぶん”軽いな」
六花が言う。
「今のは軽くていいの」
花音が返す。
「重いの続きすぎたから」
「それはそう」
真琴が認める。
奏恵が壁から背を離す。
「中央制御へ行くなら、今のうち」
「行こう」
心晴が言う。
その声はまだ強くない。
でも、誰かに押されて出た声じゃなかった。
自分の意志で前に進くと決めた声だった。
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