父の声
その声は、思っていたより近く聞こえた。
スピーカー越しのはずなのに、管理区の静けさが余計な響きを全部削ってしまうせいで、すぐ後ろから囁かれたみたいに耳へ落ちてくる。
花音の肩がびくりと跳ねた。
六花は一歩だけ前へ出る。
湊もほとんど同時に動いて、心晴の斜め前に位置をずらした。
心晴だけが、その場で息を止めたまま動けなかった。
「……お父さん」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
呼びたくて呼んだわけじゃない。
体のどこかに残っていた反射が、勝手にその呼び方を選んでしまっただけだ。
スピーカーの向こうで、少しだけ間があく。
「そうだよ」
大地の声は変わらず静かだった。
怒っていない。
慌ててもいない。
再会に滲むはずの感情もない。
それが一番、心晴にはきつかった。
花音が、声を潜めたまま湊へ言う。
「ねえ、あの人の声、なんか……」
「分かる」
湊が短く答える。
「やだ」
「同感」
六花が言う。
大地の声は続く。
「そこまで来るとは思っていたけれど、想像より早かった」
「……」
「研究区も越えて、管理区の前まで。君は昔から、必要のないところで根性があるね」
必要のないところ。
その言い方が、花音の眉をぴくりと動かした。
「何、その言い方」
小さく吐き捨てるように言う。
「普通にやだ」
心晴はスピーカーを見上げたまま、ようやく少しだけ呼吸を戻した。
昔からそうだった。
父は滅多に怒鳴らない。
声を荒げない。
人を傷つける言葉を、直接の形では選ばない。
でもその代わり、言葉の端で静かに線を引く。
要るものと、要らないもの。
見るべきものと、見る必要のないもの。
その線の外へ、自分も何度か置かれてきた気がする。
「戻りなさい」
大地が言う。
その一言だけで、心晴の背中に冷たいものが走った。
戻りなさい。
形だけなら優しい。
むしろ穏やかですらある。
でもそれは、家へ帰れという声ではない。
決められた位置へ戻れ。
そこから出るな。
そういう声だった。
「これ以上進く必要はない」
大地は淡々と続ける。
「君が見るべきものは、もう十分見た」
「……」
「残りは大人が処理する」
「大人って」
花音が我慢できずに口を挟んだ。
「誰のことですか」
「白峰花音さん」
大地の声が、今度は花音の名前を正確に呼んだ。
花音の顔から一瞬だけ色が引く。
「え」
「君もそこにいるんだね」
「……勝手に名前呼ばないでください」
「君たちは関係のない場所に入り込んでいる」
大地は言う。
「ここから先は、判断を誤ると命を落とす」
「今までが違ったみたいに言わないでほしいんですけど」
花音が言い返す。
「もうとっくに何回も落としかけてるし」
その返しに、大地は少しだけ沈黙した。
だが困ったようには聞こえない。
単に、予定にないノイズが入った時の間みたいだった。
「だからこそだ」
大地は静かに言う。
「ここから先は、心晴を戻せばいい」
六花の目つきが、そこで完全に冷えた。
「無理」
短く言う。
「却下」
大地は六花の言葉を無視した。
あるいは、最初から対話の相手と見ていないのかもしれない。
「心晴」
また名前を呼ぶ。
「君は守られるべき側だ」
「……」
その言葉が、今度は心晴の中の何かをはっきり掻いた。
守られる。
幼い頃には、その言葉に近い空気を感じたことがあった。
見なくていい。
少しだけ。
大丈夫。
そう言われるたびに、父は自分を怖いものから遠ざけてくれているのだと、どこかで思おうとしていた。
でも違う。
今なら分かる。
あれは守るためじゃない。
考えさせないためだ。
見せないためだ。
自分で決めさせないためだ。
「守られるって何」
心晴は、ようやく声を出した。
喉がひりつく。
でも止まらない。
「ずっと、そうやって言ってた」
「……」
「見なくていいって。知らなくていいって。大丈夫だって」
「それは事実だよ」
大地の声は少しも揺れない。
「君が背負う必要のないものだからだ」
「背負わせたくないんじゃなくて」
心晴は言う。
「見せたくなかっただけでしょ」
スピーカーの向こうで、初めてほんの小さな沈黙が生まれた。
花音が心晴を見る。
六花は何も言わない。
湊だけが少しだけ位置をずらし、完全に心晴の前へ出るのではなく、横に立つ形を取った。
前に立ちすぎると、心晴が自分で言う余地がなくなる。
それが分かっている動きだった。
「君はまだ、感情で見ている」
やがて大地が言う。
「それでは判断を誤る」
「じゃあお父さんは何で見てるの」
「必要性だ」
「……」
その答えを聞いた瞬間、花音が顔をしかめた。
「ほんと無理」
吐き捨てるみたいに言う。
「心晴ちゃんのお父さんだから我慢しようとしてたけど、普通に無理」
大地はそれにも構わず、心晴へ言葉を続ける。
「君は中心に近い」
「知ってる」
「なら理解できるはずだ。ここで止まる方が、結果的に損失は少ない」
「損失」
心晴は繰り返した。
「人のこと、そうやって数えるんだ」
「数えなければ守れない」
「違う」
心晴の声が少しだけ強くなる。
「お父さんは守ってない」
「……」
「選んでるだけだよ」
その言葉が出た瞬間、自分の胸の奥で何かが少しだけ軋んだ。
ずっと言えなかった言葉。
たぶん、言ってしまったら本当に戻れなくなる言葉。
でも、もう遅い。
研究区の白い廊下も、父の名前も、回収対象って言葉も、全部見てしまった。
大地の声が低くなる。
「心晴」
「いや」
今度は、大地が言い終えるより先に言えた。
花音が息を呑む。
六花はかすかに目を細める。
湊は何も言わない。
大地がもう一度言う。
「戻りなさい」
「いや」
同じ言葉を、今度ははっきり返す。
心晴は自分の手を見た。
少し震えている。
怖い。
それでも、昔みたいにその震えをごまかしたくはなかった。
「戻らない」
言い切った瞬間、管理区の空気が一段冷えた気がした。
照明がわずかに明るさを変える。
モニターの一部が切り替わる。
監視システムが、こちらの返答を受け取って次の段階に入ったような、そんな反応。
花音が小さく言う。
「心晴ちゃん」
「……なに」
「今の、だいぶかっこよかった」
「今それ言う?」
「言うよ」
「空気の戻し方が雑」
「湊の影響」
「やめて」
湊が言う。
「俺のせいにするな」
「でもちょっとそう」
花音が返す。
「否定できない」
六花がぼそっと言う。
そのやり取りに、心晴はほんの少しだけ息を吐いた。
父の声が残した冷たさが、少しだけずれる。
スピーカーの向こうで、大地が最後に言った。
「そう」
それだけだった。
怒りも失望もない。
ただ、次の手順へ移るのを確認したみたいな声。
だからこそ、余計にぞっとする。
この人は最後まで、こういう声で喋るのだ。
娘に対しても、実験に対しても、同じ温度で。
ノイズが走り、通信が切れる。
静けさが戻る。
でも、さっきまでの静けさとは違った。
もう後戻りできない静けさだ。
心晴はゆっくりと息を吸った。
胸の奥は痛いくらいざわついている。
けれど、今だけはそのざわつきが、ちゃんと自分のものだと思えた。
見なくていいと言われた時に閉じてしまった目を、今は自分で開けている。
花音がそっと聞く。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
心晴は答えた。
「でも、行く」
「それなら十分」
六花が言う。
湊も短く頷いた。
「次だな」
その言葉で、心晴は前を向く。
父に拒絶を返した。
たったそれだけ。
でも、たぶんそれが最初だった。
ここから先は、もう与えられた答えの中には戻らない。
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