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LAST EXIT ACADEMIA  作者: きなこもち
第3章 『その先の世界』

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父の声



 その声は、思っていたより近く聞こえた。


 スピーカー越しのはずなのに、管理区の静けさが余計な響きを全部削ってしまうせいで、すぐ後ろから囁かれたみたいに耳へ落ちてくる。


 花音の肩がびくりと跳ねた。


 六花は一歩だけ前へ出る。

 湊もほとんど同時に動いて、心晴の斜め前に位置をずらした。


 心晴だけが、その場で息を止めたまま動けなかった。


「……お父さん」


 口から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。

 呼びたくて呼んだわけじゃない。

 体のどこかに残っていた反射が、勝手にその呼び方を選んでしまっただけだ。


 スピーカーの向こうで、少しだけ間があく。


「そうだよ」


 大地の声は変わらず静かだった。

 怒っていない。

 慌ててもいない。

 再会に滲むはずの感情もない。


 それが一番、心晴にはきつかった。


 花音が、声を潜めたまま湊へ言う。


「ねえ、あの人の声、なんか……」

「分かる」

 湊が短く答える。

「やだ」

「同感」

 六花が言う。


 大地の声は続く。


「そこまで来るとは思っていたけれど、想像より早かった」

「……」

「研究区も越えて、管理区の前まで。君は昔から、必要のないところで根性があるね」


 必要のないところ。

 その言い方が、花音の眉をぴくりと動かした。


「何、その言い方」

 小さく吐き捨てるように言う。

「普通にやだ」


 心晴はスピーカーを見上げたまま、ようやく少しだけ呼吸を戻した。


 昔からそうだった。


 父は滅多に怒鳴らない。

 声を荒げない。

 人を傷つける言葉を、直接の形では選ばない。


 でもその代わり、言葉の端で静かに線を引く。

 要るものと、要らないもの。

 見るべきものと、見る必要のないもの。

 その線の外へ、自分も何度か置かれてきた気がする。


「戻りなさい」


 大地が言う。


 その一言だけで、心晴の背中に冷たいものが走った。


 戻りなさい。


 形だけなら優しい。

 むしろ穏やかですらある。

 でもそれは、家へ帰れという声ではない。


 決められた位置へ戻れ。

 そこから出るな。

 そういう声だった。


「これ以上進く必要はない」

 大地は淡々と続ける。

「君が見るべきものは、もう十分見た」

「……」

「残りは大人が処理する」

「大人って」

 花音が我慢できずに口を挟んだ。

「誰のことですか」

「白峰花音さん」

 大地の声が、今度は花音の名前を正確に呼んだ。


 花音の顔から一瞬だけ色が引く。


「え」

「君もそこにいるんだね」

「……勝手に名前呼ばないでください」

「君たちは関係のない場所に入り込んでいる」

 大地は言う。

「ここから先は、判断を誤ると命を落とす」

「今までが違ったみたいに言わないでほしいんですけど」

 花音が言い返す。

「もうとっくに何回も落としかけてるし」


 その返しに、大地は少しだけ沈黙した。

 だが困ったようには聞こえない。

 単に、予定にないノイズが入った時の間みたいだった。


「だからこそだ」

 大地は静かに言う。

「ここから先は、心晴を戻せばいい」


 六花の目つきが、そこで完全に冷えた。


「無理」

 短く言う。

「却下」


 大地は六花の言葉を無視した。

 あるいは、最初から対話の相手と見ていないのかもしれない。


「心晴」

 また名前を呼ぶ。

「君は守られるべき側だ」

「……」


 その言葉が、今度は心晴の中の何かをはっきり掻いた。


 守られる。


 幼い頃には、その言葉に近い空気を感じたことがあった。

 見なくていい。

 少しだけ。

 大丈夫。

 そう言われるたびに、父は自分を怖いものから遠ざけてくれているのだと、どこかで思おうとしていた。


 でも違う。


 今なら分かる。


 あれは守るためじゃない。

 考えさせないためだ。

 見せないためだ。

 自分で決めさせないためだ。


「守られるって何」

 心晴は、ようやく声を出した。


 喉がひりつく。

 でも止まらない。


「ずっと、そうやって言ってた」

「……」

「見なくていいって。知らなくていいって。大丈夫だって」

「それは事実だよ」

 大地の声は少しも揺れない。

「君が背負う必要のないものだからだ」

「背負わせたくないんじゃなくて」

 心晴は言う。

「見せたくなかっただけでしょ」


 スピーカーの向こうで、初めてほんの小さな沈黙が生まれた。


 花音が心晴を見る。

 六花は何も言わない。

 湊だけが少しだけ位置をずらし、完全に心晴の前へ出るのではなく、横に立つ形を取った。


 前に立ちすぎると、心晴が自分で言う余地がなくなる。

 それが分かっている動きだった。


「君はまだ、感情で見ている」

 やがて大地が言う。

「それでは判断を誤る」

「じゃあお父さんは何で見てるの」

「必要性だ」

「……」


 その答えを聞いた瞬間、花音が顔をしかめた。


「ほんと無理」

 吐き捨てるみたいに言う。

「心晴ちゃんのお父さんだから我慢しようとしてたけど、普通に無理」


 大地はそれにも構わず、心晴へ言葉を続ける。


「君は中心に近い」

「知ってる」

「なら理解できるはずだ。ここで止まる方が、結果的に損失は少ない」

「損失」

 心晴は繰り返した。

「人のこと、そうやって数えるんだ」

「数えなければ守れない」

「違う」

 心晴の声が少しだけ強くなる。

「お父さんは守ってない」

「……」

「選んでるだけだよ」


 その言葉が出た瞬間、自分の胸の奥で何かが少しだけ軋んだ。

 ずっと言えなかった言葉。

 たぶん、言ってしまったら本当に戻れなくなる言葉。


 でも、もう遅い。

 研究区の白い廊下も、父の名前も、回収対象って言葉も、全部見てしまった。


 大地の声が低くなる。


「心晴」

「いや」


 今度は、大地が言い終えるより先に言えた。


 花音が息を呑む。

 六花はかすかに目を細める。

 湊は何も言わない。


 大地がもう一度言う。


「戻りなさい」

「いや」


 同じ言葉を、今度ははっきり返す。


 心晴は自分の手を見た。

 少し震えている。

 怖い。

 それでも、昔みたいにその震えをごまかしたくはなかった。


「戻らない」


 言い切った瞬間、管理区の空気が一段冷えた気がした。


 照明がわずかに明るさを変える。

 モニターの一部が切り替わる。

 監視システムが、こちらの返答を受け取って次の段階に入ったような、そんな反応。


 花音が小さく言う。


「心晴ちゃん」

「……なに」

「今の、だいぶかっこよかった」

「今それ言う?」

「言うよ」

「空気の戻し方が雑」

「湊の影響」

「やめて」

 湊が言う。

「俺のせいにするな」

「でもちょっとそう」

 花音が返す。

「否定できない」

 六花がぼそっと言う。


 そのやり取りに、心晴はほんの少しだけ息を吐いた。

 父の声が残した冷たさが、少しだけずれる。


 スピーカーの向こうで、大地が最後に言った。


「そう」


 それだけだった。

 怒りも失望もない。

 ただ、次の手順へ移るのを確認したみたいな声。


 だからこそ、余計にぞっとする。


 この人は最後まで、こういう声で喋るのだ。

 娘に対しても、実験に対しても、同じ温度で。


 ノイズが走り、通信が切れる。


 静けさが戻る。

 でも、さっきまでの静けさとは違った。


 もう後戻りできない静けさだ。


 心晴はゆっくりと息を吸った。

 胸の奥は痛いくらいざわついている。

 けれど、今だけはそのざわつきが、ちゃんと自分のものだと思えた。


 見なくていいと言われた時に閉じてしまった目を、今は自分で開けている。


 花音がそっと聞く。


「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

 心晴は答えた。

「でも、行く」

「それなら十分」

 六花が言う。


 湊も短く頷いた。


「次だな」


 その言葉で、心晴は前を向く。


 父に拒絶を返した。

 たったそれだけ。

 でも、たぶんそれが最初だった。


 ここから先は、もう与えられた答えの中には戻らない。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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