管理区中枢
管理区の空気は、冷たいというより、均一だった。
研究区も白くて温度の低い場所だった。
けれどあちらには、まだ人がいた痕跡が残っていた。
倒れた器具。急いで閉められた扉。放置された端末。
そこにいた誰かの焦りや失敗が、空間のあちこちに滲んでいた。
でも、ここは違う。
白い壁。
薄く光る床。
一定の間隔で埋め込まれた照明。
まるで最初から、誰かが慌てて走ることも、何かを落とすことも、泣き叫ぶことも想定していなかったみたいに整っている。
如月湊は、扉をくぐった瞬間にその違和感をはっきり感じた。
後ろで管理区の扉が閉まる。
重くはない。
むしろ静かすぎるくらい静かに閉まって、逆に逃げ道が消えた実感だけが強く残る。
先頭に立つ六花が、右手を軽く上げた。
「止まって」
短い声。
湊たちはすぐに足を止める。
六花は通路の先と天井の角、壁の継ぎ目、床の細いラインまで順に見ていった。
保安科の癖なのか、こういう時の視線に無駄がない。
「監視、多い」
「見れば分かる」
花音が反射で言ってから、自分で小さく顔をしかめた。
「やだ、またうつった」
「最悪」
湊が言う。
「そこで被せる?」
「事実だろ」
「その事実がやなんだって」
花音は自分の腕をさする。
怪我をした方じゃない方の腕だ。
単純に寒いのか、それともこの場所の気味悪さがそうさせるのか、たぶんどっちもだった。
「ここほんと無理」
花音が小さく言う。
「研究区も意味分かんなかったけど、こっちはもっとやだ」
「分かる」
心晴が、少し遅れて言った。
その返事に花音が顔を向ける。
「心晴ちゃんが言うと、だいぶ説得力あるんだけど」
「うれしくない」
「そりゃそうか」
心晴の顔色は、管理区に入ってからまた少し白く見えた。
でも足は止まっていない。
怖がっているのに、後ろへ下がろうとしない。
その感じが、湊には少しだけ気になった。
大丈夫じゃないやつほど、こういう時に変なところで立つことがある。
通路の先はまっすぐではなかった。
途中で緩やかに曲がり、その先にガラス張りの小さな制御卓が見えている。
人影はない。
でも無人にも見えない。
“見られている無人”という感じがした。
六花が先に進く。
湊はその半歩後ろ。
花音と心晴が続く。
靴音は小さいはずなのに、白い床がそれを薄く返してくる。
音が死ぬほど静かではない。
でも、生きてもいない。
その中途半端さが余計に気持ち悪かった。
曲がり角を抜けたところで、壁一面のモニターが目に入った。
管理区内の巡回状況か、各区画の封鎖状態か。
いくつもの小さな画面が並んでいる。
そのうちの何枚かが、今まさにこっちの通路を映していた。
「……あ」
花音が声を漏らす。
モニターの中に、自分たちがいた。
先頭の六花。
その少し後ろの湊。
花音と心晴。
四人が管理区の白い通路を進いている姿が、わずかに遅れて映っている。
湊は立ち止まり、画面を見る。
数秒のラグ。
でも、その遅れが逆に嫌だった。
今歩いている自分たちが、少し前の時点で既に誰かに捉えられていたということだからだ。
「やだ……」
花音が呟く。
「これ、見られてるのを改めて見せられるやつじゃん」
「その通り」
六花が言う。
「趣味悪い」
「趣味なのかな、これ」
「趣味じゃなくて仕様」
湊が返す。
「もっとやだよ」
心晴はモニターの中の自分を見ていた。
自分だけじゃない。
四人全員。
でも、その中でも自分だけが少し輪郭を強く持って映っているように錯覚する。
対象。
回収。
保全。
父の名前。
全部がまだ頭の中に残ったままだ。
「心晴」
湊が小さく呼ぶ。
心晴は少し遅れて顔を上げる。
「……なに」
「まだ立てるか」
「それ、さっきも聞いた」
「答えは」
「……立てる」
その返事を聞いて、湊はそれ以上は言わなかった。
花音が横から小さく言う。
「無理だったらすぐ言ってね」
「言う」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「じゃあ努力する」
「そこは断言して」
花音が言って、それから小さく息を吐いた。
その時だった。
通路の天井に埋め込まれたスピーカーから、小さなノイズが走った。
じ、と短く。
それだけで、全員の体が反応する。
六花がすぐに前へ出た。
湊も心晴の少し前に位置を変える。
花音が息を止める。
管理区は、研究区よりも静かだった。
だからこそ、その短いノイズは、人が咳をしたよりずっと大きく感じられた。
モニターの一つが暗転し、別の表示へ切り替わる。
管理区中央。
補助ルート。
封鎖維持。
そして画面下部に、見覚えのない文字列。
**MAIN OBSERVATION ACTIVE**
「観察」
花音が小さく読む。
「いや、その単語もうやめてほしいんだけど」
六花は画面ではなく、スピーカーを見ていた。
「来る」
その言葉の直後、ノイズがもう一度だけ走る。
今度は少し長い。
心晴の肩が、わずかに震えた。
湊はそれに気づきながら、何も言わずに前を見た。
ここから先は、たぶんもう考える時間じゃない。
父の声が届く。
まだ聞こえていないのに、心晴の顔がそれを知っているように見えた。
そして次の瞬間、静かな管理区の空気を裂くように、男の声が流れた。
「そこまで来たんだね、心晴」
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