エピローグ もう逃げるだけでは終われない
父の声は、思っていたよりずっと静かだった。
管理区の扉が開いたあとも、その響きだけがまだ耳の奥に残っている。
戻りなさい。
たったそれだけの言葉なのに、心晴の胸の内側には、昔から置き去りにされていた何かを一気に掘り返す力があった。
見なくていい。
少しだけ。
大丈夫だよ。
幼い頃の記憶の中にある父の声も、形はよく似ていた。
やわらかくて、静かで、強く言わない。
だから逆らいにくい。
だから、自分の中に浮かんだ違和感の方を間違いだと思ってしまう。
でも今なら分かる。
あれは、守るための声じゃなかった。
わたしに何も見せないための声。
見たものを考えさせないための声。
目を閉じさせるための、きれいな声だった。
管理区の前の空気は、研究区よりさらに冷たい。
白い壁も、整いすぎた照明も、隙間のない床も、全部が同じ方向を向いている。
人が生きるためじゃなく、何かを管理するためだけに作られた場所の顔をしていた。
扉の向こうを見つめたまま、心晴はゆっくり息を吐く。
指先はまだ少し震えていた。
それでも、認証パネルから手を離したいとは思わなかった。
怖くないわけじゃない。
むしろ、たぶんずっと怖い。
研究区に入った時より、
父の名前を見た時より、
回収対象と呼ばれた時より、
今の方がずっとはっきり怖い。
この先へ進いたら、もう本当に知らないふりができなくなる。
父が何をしてきたのか。
この街が何のために作られていたのか。
自分がその中で何だったのか。
全部を、自分の目で見ないといけなくなる。
それが怖い。
でも、それ以上に、今さら目をそらす方が怖かった。
「心晴ちゃん」
花音の声が、すぐ隣から聞こえた。
振り向くと、花音がこっちを見ていた。
疲れている顔だった。
腕にはまだ白い包帯が巻かれている。
髪も少し乱れていて、制服の袖にも汚れがついたままだ。
それでも、その目だけはまっすぐだった。
「……なに」
心晴が答える。
花音は少しだけ口元をゆるめた。
「今、無理して大丈夫な顔しなくていいよ」
「してるつもりない」
「してるよ」
「そう?」
「うん。だいぶ」
心晴は自分の頬に触れそうになって、やめた。
そんな余裕があるなら、きっとまだ少しは大丈夫だと、変なふうに思う。
花音はそれ以上は踏み込まず、ただ隣に立ったまま言う。
「でも、怖いなら怖いでいいから」
「……」
「それで一人でどっか行かなければ、もうそれでいい」
その言い方が、花音らしかった。
大きなことを言うわけじゃない。
立派な理屈でもない。
でも、だからこそ胸の奥へそのまま入ってくる。
反対側では、湊が管理区の先を見ていた。
壁の配置。
通路の幅。
死角。
きっとそういうものを見ている。
でも同時に、ちゃんとこちらの呼吸の変化も見ている顔だった。
気づいてないふりをしながら、気づいている。
そういう人だ。
「行けるか」
湊が聞く。
短い言葉。
余計なやさしさはついていない。
でも、その言葉の中に“置いていく”という選択肢が最初から入っていないのが分かる。
心晴は少しだけ目を伏せて、それから頷いた。
「……行く」
「よし」
それだけだった。
励ましもしないし、感動的なことも言わない。
でも、その“よし”の軽さが、逆に今はありがたかった。
大丈夫だと決めつけられるより、ずっと。
六花は少し前の位置で、すでに次の動きに意識を向けていた。
警棒を持つ手に無駄な力は入っていない。
管理区の空気を嫌っているのは分かる。
それでも、その嫌悪をそのまま行動に変えられる強さがある。
「三人とも」
心晴が小さく呼ぶ。
花音がこっちを見る。
湊も少しだけ顔を向ける。
六花は振り返らないまま、「何」とだけ返す。
心晴は、その一瞬だけ言葉を探した。
ありがとう、では足りない気がした。
ごめん、では違う気がした。
ここまで来て、その二つのどちらかを選ぶのは、もう少しだけ違うところへ進んでしまった気がした。
「……ちゃんと、行く」
やっと出たのは、そんな言葉だった。
花音が最初に笑う。
「うん」
「雑な決意表明」
六花が言う。
「でも嫌いじゃない」
「六花ちゃん、それだいぶ褒めてるよね?」
花音がすぐ言う。
「褒めてない」
「褒めてるって」
「今それ必要?」
「必要」
その短いやり取りに、心晴は少しだけ息を吐いた。
ちゃんと呼吸が入ってくる。
父の声を聞いたあと、ずっと胸の奥に引っかかっていた冷たいものが、ほんの少しだけ動く。
怖さが消えたわけじゃない。
父への感情が整理できたわけでもない。
研究区で見たものが軽くなったわけでもない。
でも、自分の隣にいる三人が、今は確かに現実だった。
研究区の人間でもない。
管理区の人間でもない。
父の側でもない。
それでも、自分が何者なのかを知った上で、まだここに立っている側。
なら、たぶん、もう逃げるだけでは終われない。
逃げることしか考えていなかった時は、とにかくこの街から出たかった。
生きて外へ出る、それだけでよかった。
けれど今は違う。
この街の一番奥に何があるのか。
父が何を正しいと思っているのか。
自分が何のためにそこへ繋がっているのか。
それを見ないまま外へ出ても、たぶん終われない。
わたしの中だけは、ずっとこの白い廊下の続きを引きずったままだ。
管理区の向こうには、答えがある。
たぶん、見たくない答えばかりだ。
それでも、行くしかない。
心晴は扉の向こうをまっすぐ見た。
昔の自分なら、きっとまた目をそらしていた。
見なくていいと言われたことを、そのまま信じて。
怖いと思った自分の方を、黙らせていた。
でも今は違う。
怖いまま進けることを、もう知ってしまった。
その声を聞いた瞬間、わたしはもう逃げるだけでは終われないと知った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




