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LAST EXIT ACADEMIA  作者: きなこもち
第2章 『選別される街』

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エピローグ もう逃げるだけでは終われない



 父の声は、思っていたよりずっと静かだった。


 管理区の扉が開いたあとも、その響きだけがまだ耳の奥に残っている。


 戻りなさい。


 たったそれだけの言葉なのに、心晴の胸の内側には、昔から置き去りにされていた何かを一気に掘り返す力があった。


 見なくていい。

 少しだけ。

 大丈夫だよ。


 幼い頃の記憶の中にある父の声も、形はよく似ていた。

 やわらかくて、静かで、強く言わない。

 だから逆らいにくい。

 だから、自分の中に浮かんだ違和感の方を間違いだと思ってしまう。


 でも今なら分かる。


 あれは、守るための声じゃなかった。


 わたしに何も見せないための声。

 見たものを考えさせないための声。

 目を閉じさせるための、きれいな声だった。


 管理区の前の空気は、研究区よりさらに冷たい。

 白い壁も、整いすぎた照明も、隙間のない床も、全部が同じ方向を向いている。

 人が生きるためじゃなく、何かを管理するためだけに作られた場所の顔をしていた。


 扉の向こうを見つめたまま、心晴はゆっくり息を吐く。


 指先はまだ少し震えていた。

 それでも、認証パネルから手を離したいとは思わなかった。


 怖くないわけじゃない。

 むしろ、たぶんずっと怖い。


 研究区に入った時より、

 父の名前を見た時より、

 回収対象と呼ばれた時より、

 今の方がずっとはっきり怖い。


 この先へ進いたら、もう本当に知らないふりができなくなる。

 父が何をしてきたのか。

 この街が何のために作られていたのか。

 自分がその中で何だったのか。


 全部を、自分の目で見ないといけなくなる。


 それが怖い。


 でも、それ以上に、今さら目をそらす方が怖かった。


「心晴ちゃん」


 花音の声が、すぐ隣から聞こえた。


 振り向くと、花音がこっちを見ていた。

 疲れている顔だった。

 腕にはまだ白い包帯が巻かれている。

 髪も少し乱れていて、制服の袖にも汚れがついたままだ。


 それでも、その目だけはまっすぐだった。


「……なに」

 心晴が答える。


 花音は少しだけ口元をゆるめた。


「今、無理して大丈夫な顔しなくていいよ」

「してるつもりない」

「してるよ」

「そう?」

「うん。だいぶ」


 心晴は自分の頬に触れそうになって、やめた。

 そんな余裕があるなら、きっとまだ少しは大丈夫だと、変なふうに思う。


 花音はそれ以上は踏み込まず、ただ隣に立ったまま言う。


「でも、怖いなら怖いでいいから」

「……」

「それで一人でどっか行かなければ、もうそれでいい」


 その言い方が、花音らしかった。


 大きなことを言うわけじゃない。

 立派な理屈でもない。

 でも、だからこそ胸の奥へそのまま入ってくる。


 反対側では、湊が管理区の先を見ていた。


 壁の配置。

 通路の幅。

 死角。

 きっとそういうものを見ている。

 でも同時に、ちゃんとこちらの呼吸の変化も見ている顔だった。


 気づいてないふりをしながら、気づいている。

 そういう人だ。


「行けるか」

 湊が聞く。


 短い言葉。

 余計なやさしさはついていない。

 でも、その言葉の中に“置いていく”という選択肢が最初から入っていないのが分かる。


 心晴は少しだけ目を伏せて、それから頷いた。


「……行く」

「よし」


 それだけだった。

 励ましもしないし、感動的なことも言わない。

 でも、その“よし”の軽さが、逆に今はありがたかった。


 大丈夫だと決めつけられるより、ずっと。


 六花は少し前の位置で、すでに次の動きに意識を向けていた。

 警棒を持つ手に無駄な力は入っていない。

 管理区の空気を嫌っているのは分かる。

 それでも、その嫌悪をそのまま行動に変えられる強さがある。


「三人とも」

 心晴が小さく呼ぶ。


 花音がこっちを見る。

 湊も少しだけ顔を向ける。

 六花は振り返らないまま、「何」とだけ返す。


 心晴は、その一瞬だけ言葉を探した。


 ありがとう、では足りない気がした。

 ごめん、では違う気がした。

 ここまで来て、その二つのどちらかを選ぶのは、もう少しだけ違うところへ進んでしまった気がした。


「……ちゃんと、行く」


 やっと出たのは、そんな言葉だった。


 花音が最初に笑う。


「うん」

「雑な決意表明」

 六花が言う。

「でも嫌いじゃない」

「六花ちゃん、それだいぶ褒めてるよね?」

 花音がすぐ言う。

「褒めてない」

「褒めてるって」

「今それ必要?」

「必要」


 その短いやり取りに、心晴は少しだけ息を吐いた。

 ちゃんと呼吸が入ってくる。

 父の声を聞いたあと、ずっと胸の奥に引っかかっていた冷たいものが、ほんの少しだけ動く。


 怖さが消えたわけじゃない。

 父への感情が整理できたわけでもない。

 研究区で見たものが軽くなったわけでもない。


 でも、自分の隣にいる三人が、今は確かに現実だった。


 研究区の人間でもない。

 管理区の人間でもない。

 父の側でもない。


 それでも、自分が何者なのかを知った上で、まだここに立っている側。


 なら、たぶん、もう逃げるだけでは終われない。


 逃げることしか考えていなかった時は、とにかくこの街から出たかった。

 生きて外へ出る、それだけでよかった。


 けれど今は違う。


 この街の一番奥に何があるのか。

 父が何を正しいと思っているのか。

 自分が何のためにそこへ繋がっているのか。


 それを見ないまま外へ出ても、たぶん終われない。

 わたしの中だけは、ずっとこの白い廊下の続きを引きずったままだ。


 管理区の向こうには、答えがある。

 たぶん、見たくない答えばかりだ。

 それでも、行くしかない。


 心晴は扉の向こうをまっすぐ見た。


 昔の自分なら、きっとまた目をそらしていた。

 見なくていいと言われたことを、そのまま信じて。

 怖いと思った自分の方を、黙らせていた。


 でも今は違う。


 怖いまま進けることを、もう知ってしまった。


 その声を聞いた瞬間、わたしはもう逃げるだけでは終われないと知った。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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