管理区の前
管理区へ近づくほど、街の音が死んでいった。
研究区は不気味だった。
白すぎる廊下と、医療器具の気配と、人がいたはずの痕跡が残っていたからだ。
でも管理区は違う。
最初から、余計な音だけを切り落として作られた場所みたいだった。
補助ラインの最後の防壁を抜けた先は、白とも灰ともつかない無機質な通路だった。
壁に継ぎ目が少ない。
床の反射も控えめで、照明の明るさも一定。
研究区みたいな生々しい痕跡はないのに、逆にそれが不自然だった。
誰かが逃げた跡もない。
慌てて捨てられた物もない。
血も、悲鳴も、生活の匂いもない。
ただ、きれいすぎる。
まるでこの区画だけ、最初から人間の感情が入ってくることを想定していなかったみたいに。
先頭を歩く六花が、曲がり角の手前で足を止めた。
手のひらを軽く上げる合図に合わせて、湊も歩幅を緩める。
花音と心晴も壁際へ寄った。
「監視、増えた」
六花が低く言う。
湊が視線を巡らせる。
天井の隅。
壁の継ぎ目の影。
ぱっと見では分からない位置に、小さなレンズがいくつも埋め込まれていた。
「趣味悪いな」
「趣味じゃなくて標準仕様」
六花が返す。
「もっと悪い」
花音が肩をすくめた。
「ここ、ほんとやだ……」
「今さらだな」
湊が言う。
「研究区もやだったけど、こっちは別方向でやだ」
「分かる」
心晴が小さく言う。
その返事に花音が少しだけ顔を向けた。
「心晴ちゃんが言うと説得力あるんだよね」
「うれしくない」
「だよね」
そんな短いやり取りすら、空気の中で妙に浮いた。
この区画には、人が会話する温度そのものが合っていない気がする。
さらに進くと、通路の先に扉が見えた。
研究区の防疫扉よりも大きく、余計な装飾もない、真っ白な両開き扉。
中央に細い光のライン。
横には認証パネルがひとつ。
ただそれだけだった。
説明もない。
警告文もない。
入る資格のない人間に、何も教える気がない扉だった。
六花がその前へ出る。
「やる」
誰に言うでもなくそう言って、保安端末を接続した。
細いケーブルを差し込み、操作パネルを開く。
慣れた指の動き。
短い認証音。
数秒後、画面が赤く染まる。
『権限不足』
「でしょうね……」
花音が顔をしかめる。
「知ってたけど、実際に出ると腹立つ」
「保安権限じゃ届かない」
六花が言う。
「研究区よりさらに上」
「そりゃそうだろうな」
湊が返す。
「この街の“ほんとの顔”がある場所なんだろ」
真琴が壁際の小型表示を見ていた。
「ここ、完全に見られてる」
「見れば分かる」
花音が反射で言って、すぐ自分で顔をしかめた。
「やだ、うつった」
「最悪」
湊と六花が同時に言う。
花音が思わずむっとする。
「そこまで揃う?」
「揃ったな」
湊が言う。
「そういうところ!」
「今さらだ」
六花が返す。
それで、ほんの少しだけ空気が戻る。
でも心晴だけは、もう扉から目をそらしていなかった。
そこを開ける意味を、たぶんこの場の誰よりも分かっている。
研究区に入る時とは違う。
あの時はまだ、知るかもしれない、だった。
今は違う。
父がいる。
自分を“対象”として扱っている側がいる。
その中心へ、自分の手で扉を開けて入るしかない。
それが分かっている顔だった。
「やる」
心晴が言う。
花音が息を止める。
湊は顔を動かさない。
六花だけが少しだけ視線を寄越した。
「いいのか」
湊が聞く。
「よくはない」
心晴は答えた。
「でも、ここまで来て止まる方がもっとよくない」
「それはそう」
六花が言う。
「最悪の中では正解寄り」
花音が小さく言う。
「その評価の仕方、ほんと夢がない」
「今この街で夢持つ?」
「持たないけどさ……」
心晴は一歩前に出た。
扉の横の認証パネルに向かって手を伸ばす。
その瞬間だった。
天井のスピーカーが、低い起動音を鳴らした。
全員の動きが止まる。
白い通路に、その音だけが妙に乾いて響いた。
続いて流れたのは、男の声だった。
「そこまで来たんだね、心晴」
花音の肩がびくりと揺れる。
穏やかな声だった。
怒鳴りもしない。
慌ててもいない。
だから逆に気味が悪い。
感情の乱れがない。
娘へ語りかける父親の声の形をしているのに、その中に“娘の顔を見た人間の温度”がない。
心晴だけが、その声を聞いた瞬間に息を止めた。
「……お父さん」
ほとんど無意識に漏れた声だった。
花音が心晴を見る。
六花はすでに警棒を握り直している。
湊は半歩だけ前へ出て、心晴の斜め前に立った。
小さな動きだった。
でも“前に出る”という意思だけははっきりしている。
スピーカーの向こうで、大地の声が続く。
「戻りなさい」
淡々とした声だった。
「これ以上進む必要はない」
花音はぞっとする。
言葉だけなら優しい。
少なくとも形の上では、心配している親の言い方に聞こえなくもない。
でも違う。
その声は、どこかの実験ラインから外れたものを、元の場所へ戻そうとしているみたいだった。
間違った位置にいるものを、静かに修正する時の声だ。
六花が低く吐き捨てる。
「やっぱ嫌い」
「同感」
湊が返す。
大地は、少しだけ間を置いた。
「湊くん」
今度は名指しだった。
「君が前に出る必要はない」
「あるだろ」
湊が即座に返す。
「勝手に決めるな」
「決めてはいない。事実を言っているだけだ」
「その言い方がもう気に入らない」
「そう」
声が少しも揺れない。
花音はそのやり取りを聞きながら、心晴の顔を見る。
蒼白だった。
でも、ただ怯えている顔ではない。
怯えた上で、何かを振り切ろうとしている顔だった。
心晴の中で、昔の声と今の声が重なっていた。
見なくていい。
少しだけ。
大丈夫だよ。
戻りなさい。
全部、同じだ。
自分を守るためじゃない。
自分に“見なくていい”と思わせるための言葉。
目を閉じさせるための、静かな声。
「もうやだ」
小さいけれど、はっきりした声だった。
花音が息を呑む。
六花はほんの少しだけ目を細める。
湊は振り返らない。
「心晴」
スピーカーの向こうの声が少しだけ低くなる。
「戻りなさい」
心晴は、そこで一度だけ目を閉じた。
幼い頃の白い廊下がよぎる。
ガラスの向こうの目。
父の手の温度。
見なくていい、という静かな声。
でも今、隣には違う人たちがいる。
花音がいる。
湊がいる。
六花がいる。
怖い。
でも、昔みたいに一人で目をそらすわけじゃない。
「いや」
今度は、前より少し強く言えた。
「戻らない」
短い沈黙が落ちる。
通路の照明が、わずかに明るさを変えた。
監視システムの警戒が一段上がったような気配。
それでも心晴は、認証パネルから手を引かなかった。
花音が、小さく、それでもちゃんと言う。
「心晴ちゃん」
「……なに」
「今の、ちょっとかっこよかった」
「今それ言う?」
「言うよ」
「雑な空気の戻し方」
「湊の影響」
「やめて」
湊が言う。
「俺のせいにするな」
「でもちょっとそう」
花音が返す。
「否定できない」
六花がぼそっと言う。
そのやり取りで、心晴の張りつめた呼吸がほんの少しだけ戻る。
そして、今度こそ認証パネルへ手を置いた。
一秒。
二秒。
青い光が走る。
『認証を確認しました』
機械音声が、父の声の余韻を切るように響く。
ロック解除音。
重い金属がずれていく振動。
スピーカーの向こうで、大地の声が最後に言った。
「そう」
それだけだった。
怒りも、苛立ちも、嘆きもない。
ただ、次の手順へ移ることを確認したみたいな声。
だからこそ、花音は背筋が冷えた。
この人はきっと、最後までこういう声で喋る。
娘に対しても、敵に対しても、同じ温度で。
扉がゆっくりと開き始める。
その向こうにある空気は、研究区よりさらに冷たく見えた。
白いのに暗い。
明るいのに、人が立ち入るための場所に見えない。
湊はその先を見据えたまま、短く言う。
「行くぞ」
六花が頷く。
花音は小さく息を吸う。
心晴は扉の向こうを見たまま、もう目をそらさない。
ここから先は、たぶん、街の一番奥だ。
逃げるためじゃなく、終わらせるために進く場所。
そんな感じがした。




