今日の終わりは、明日も続く
朝の海は、いつ見てもきれいだった。
空をそのまま写したみたいな青の上を、白い航路灯が細く伸びている。
海上学園都市アカデミアへ続く連絡橋の脇で、風が制服の裾を揺らした。
如月湊は、片手をポケットに突っ込んだまま認証ゲートを抜ける。
『おはようございます。如月湊さん。本日の一限は現代社会です』
頭上のスピーカーから、やけに落ち着いた音声が流れた。
「知ってる」
誰に聞かせるでもなく返す。
もちろん返事が返ってくることはない。
ゲートの向こうには、朝のアカデミアがいつも通り広がっていた。
海の上に浮かぶ街。
白い外壁とガラス張りの高架通路。
寮区、一般学区、医療研究区、管理区をつなぐ連絡デッキ。
遠くには港湾設備、その奥には研究塔みたいに細く高い建物が立っている。
どこを見ても、きれいに整っていた。
整いすぎてる、と湊は思う。
ごみは落ちていない。
道の端はいつも同じ角度で掃かれている。
巡回ドローンは決まった高さを、決まった速度で飛ぶ。
便利ってのは、だいたい監視と仲がいい。
空を横切った白いドローンを見上げて、湊は少しだけ目を細めた。
今日、やけに多いな。
ひとつだけじゃない。
少し離れた上空にも、別の機体が同じように巡回している。
普段から飛んではいるが、朝からこの数は珍しい。
「湊ー!」
後ろから飛んできた声に、振り返る前から誰か分かった。
白峰花音が、制服のリボンを半分ほど風に持っていかれながら、小走りでこっちへ来る。
肩くらいまでの髪が跳ねていて、明らかに整え直す時間がなかった感じだった。
案の定、近づくなり花音は肩で息をした。
「はー…っ、セーフ…」
「全然セーフじゃないだろ」
「え、まだチャイム鳴ってないし」
「その理屈で毎回生きてるな」
「生きてるからいいの」
花音はそう言って胸を張ろうとして、息が上がっているせいでいまいち決まらなかった。
そのまま鞄の横ポケットから、小さい紙パックのミルクティーを取り出して湊に押しつける。
「はい」
「何」
「慈善活動」
「いらない」
「朝ごはんゼリーだったでしょ」
「食べたって言っただけで当ててくるな」
「当たるよ。湊だし」
「何だよそれ」
「生き方が雑」
湊は紙パックを見下ろした。
いらないと言った手前、すぐ飲むのも負けた感じがする。
でも結局受け取っている時点で、たぶんもう負けている。
花音がそんな湊の顔を見て、少しだけ笑った。
「やっぱ寝不足?」
「普通」
「その“普通”が普通じゃないんだって」
「朝から元気だな」
「元気じゃないよ。気力で動いてるだけ」
「それ元気より怖いな」
「ちょっと、今のは言い方がひどい」
花音が頬をふくらませて歩き出す。
湊も隣に並んだ。
高架通路の向こう、一般学区の白い校舎が朝日に反射している。
ガラスが多いせいで、遠くから見ると街全体が水の上に浮いた模型みたいに見えることがある。
「ねえ」
花音が少しだけ声を落とした。
「今日、なんか変じゃない?」
「何が」
「いや、全体…?」
そう言って花音は曖昧に手を動かす。
言いたいことがまとまっていない時の癖だ。
「朝から人ちょっと少ない気がするし、保安科の人も多くない?」
「ドローンも多い」
「ほらやっぱり」
「見れば分かる」
「そういうの先に言ってよ」
「言ったら減るわけじゃないし」
「心の準備はできるじゃん」
「今しとけ」
「その雑なやさしさ、たまに腹立つんだよね」
花音が言う。
でも本気で怒っているわけじゃない声だった。
湊は再び空を見た。
白い機体がひとつ、また無音に近い音で校舎の上を横切っていく。
巡回軌道にしては、少し低い。
やっぱり、変だ。
ただ、それが何なのかはまだ分からない。
分からないものを、朝からわざわざ言葉にするほどでもない気もした。
一般学区の昇降口が見えてくる。
周りには同じ制服の生徒たちがちらほらいるが、たしかにいつもより少ない。
欠席が多い日みたいな、妙な薄さ。
「あ」
花音がふいに前を見た。
「天城さん」
視線の先に、ひとりの女子生徒がいた。
天城心晴。
同じ二年。医療研究コース。
成績上位者の名前が張り出される時に必ず見るし、教師受けもいい。
近寄りがたいわけじゃないのに、なんとなく距離がある。そんな感じのやつだ。
今日の心晴は、昇降口脇の情報端末の前で立ち止まっていた。
細い指で画面を操作している。
横顔はいつも通り整っていて、制服の乱れもない。
けれど、通知の表示を見た瞬間だけ、ほんの少し表情が固まった。
その直後、手の中の個人端末が滑り落ちる。
硬い床に当たるより早く、湊が手を伸ばしていた。
「あ」
端末は湊の手の中に収まった。
心晴が一瞬だけ目を見開く。
「落とした」
「…ありがとう」
心晴が端末を受け取る。
指先が触れた。
冷たい。
朝の風のせいだけじゃない。
体温そのものが少し低いみたいな冷たさだった。
「天城さん、大丈夫?」
花音が気づいて言う。
「なんか顔色、ちょっと悪くない?」
「え」
心晴はすぐにいつもの表情へ戻ろうとした。
でもほんのわずかに遅れる。
「寝不足なだけ」
「ほんとに?」
「うん」
「それならいいけど…」
花音は首を傾げる。
湊は何も言わずに心晴の顔を見た。
肌の色は白い。
元々そういうやつではある。けど今日は、それとは別に少し血の気が薄い。
目の下にも、ごく浅い影がある。
「如月くん?」
心晴が視線だけで聞いてくる。
「いや」
「……そう」
心晴はそれ以上は聞かず、端末を胸の前で軽く握り直した。
そして一度だけ、校舎の奥にある別棟の方を見る。
医療研究区のある方角だった。
ほんの一瞬。
でも湊はそれを見逃さない。
「天城さん、今日も研究コースの朝課題?」
花音が気軽に聞く。
「うん。少しだけ」
「やっぱ大変そう」
「慣れたから」
「それ言えるのすごいよね」
「白峰さんは?」
「私は毎朝生きるだけで精一杯」
「……それは、ちょっと分かるかも」
「え、天城さんでもそういうことあるんだ」
「あるよ」
「ちょっと安心した」
「安心されるところかな」
「なるなる」
そこで心晴は、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
笑った、というほどでもない。
でも無表情じゃない。それだけで、花音は嬉しそうな顔をした。
始業まであと少し。
三人で並んで昇降口へ向かう。
その途中、反対側の連絡通路から、保安科の制服が見えた。
火澄六花だった。
保安科の人間は一般科より少し装備が重い。
制服の上に軽い防護ベスト、靴も走りやすい仕様。
今日の六花はそこに加えて、腰の装備ベルトまでつけていた。朝から。
「六花ちゃん、おはよ」
花音が片手を上げる。
六花は近づいてくるなり、小さくうなずいた。
「おはよ」
「朝から顔こわいね」
「いつも」
「それ自分で言うんだ」
「知ってるから」
「ちょっとは否定してくれてもいいのに」
「時間ないし」
それだけ言って六花は湊の方を見た。
「今日、見た?」
「ドローン多いな」
「低い位置も飛んでる」
「保安科も朝から動いてる」
「うん」
短い言葉が続く。
花音がそのやり取りを見て、半分あきれた顔になる。
「二人とも、会話が報告書みたいなんだよね」
「十分伝わる」
六花が言う。
「伝わるけどさあ」
花音が肩をすくめる。
「で、何かあったの?」
「分からない」
六花は答えた。
「でも、今日は変」
「それさっきも思った」
花音が言う。
「何が変なの?」
「人の動き。保安の配置。あと」
六花は少しだけ空を見た。
「上」
ちょうどその時、白い巡回ドローンが校舎の上を横切った。
やはり低い。
見張られている、という表現が自然に浮かぶくらいには。
心晴はそれを見て、ほんのわずかに唇を結んだ。
「……」
湊は横目でその表情を見る。
何かを言おうとして、やめた顔だった。
始業ベルが鳴る。
金属っぽい高い音が、ガラス張りの通路を抜けて校舎全体へ広がる。
それだけで、今まで空の上に散っていた会話が一斉に地上へ落ちたみたいに、生徒たちが教室へ流れ始めた。
「やば、急ご」
花音が言う。
「一限、真壁だし」
「それ別に急ぐ理由になる?」
心晴が聞く。
「なるよ。地味に小テストとか挟んでくるから」
「それは確かに嫌だね」
「でしょ?」
そんなことを言いながら、四人はそれぞれの教室へ向かった。
廊下はまだ、朝の光で明るい。
ガラス窓の向こうでは海が光っている。
いつも通りの一日が始まる、はずだった。
教室に入ると、そこにはちゃんと日常の匂いが残っていた。
椅子を引く音。
鞄を机に置く音。
誰かの笑い声。
プリントを回す声。
その全部が、まだ壊れていない。
「花音ー、おそ」
窓際の席から声が飛ぶ。
水城結衣だった。
ゆるく巻いた髪を肩に流して、半分笑っている。
花音が両手を上げた。
「ギリ間に合ってるからセーフ!」
「その理屈、この前も聞いた」
「使える理屈は何回でも使うの」
「先生が聞いたら泣くよ」
「真壁先生は心の中で泣くタイプだから大丈夫」
花音がそう言うと、結衣はくすっと笑った。
「天城さんもおはよ」
「おはよう」
「朝からちゃんとしてるなあ…」
「白峰さんがちゃんとしてなさすぎるだけかも」
「待って、天城さんまでひどい」
「半分だけ」
「半分でも刺さる」
その横で、七瀬陸が自分の席に鞄を置きながら湊へ声を投げてくる。
「如月、おまえ今日もギリギリじゃないのに元気ないな」
「元気だよ」
「その返しで元気なやつ見たことない」
「おまえも朝からうるさい」
「ほらそれだよ、その感じだよ」
「何だよ」
「いつも通りすぎて逆に安心するって話」
陸はそう言って、椅子を後ろ向きにしてまたがる。
教師に見つかったら怒られるやつだ。
でもまだ真壁進は来ていない。
「今日なんか静かじゃね?」
陸が言う。
「静か?」
「いや、クラス。いつもより人いなくない?」
「欠席多いな」
湊が適当に答える。
「だろ。俺もさっき保健室前通ったけど、人多かったし」
「風邪でも回ってるんじゃない?」
花音が言う。
「この時期に?」
「分かんないけど」
「それか抜き打ちテスト避けてる」
結衣が言う。
「それなら私も休みたい」
「言うと思った」
花音が笑った。
その時、前の扉が開く。
真壁進が入ってきた。
少し疲れた顔。
ジャケットの袖を軽くまくったまま、教卓に端末を置く。
普段と大きく変わらない。
けれど今日は、入ってすぐに一度だけ廊下の方を振り返った。
「席つけ」
低い声が教室に落ちる。
それだけで、散っていた空気がすっと集まった。
真壁は出席端末を開き、眉を寄せる。
「……欠席、多いな」
誰に言うでもなくこぼしたあと、すぐ普段の調子に戻す。
「まあいい。始めるぞ」
点呼が始まる。
返事の数はやっぱり少し足りない。
真壁は二度ほど端末を見直したが、それ以上は言わなかった。
「今日の一限は現代社会だが、その前に小テストを」
「えぇー」
花音がわざとらしく言う。
「うるさい、白峰」
「はい」
「今の返事だけはいいな」
「そういうとこだけは自信あります」
「いらん自信だ」
少しだけ教室に笑いが落ちる。
そのくらいの、よくある朝だった。
湊は受け取った小テスト用紙を机に置き、何となく窓の外を見る。
海はまだきれいだ。
空も青い。
でも、白いドローンがまた低い位置を飛んでいる。
何だ。
そう思った時だった。
遠くで、重たい音がした。
どん、と鈍い衝撃。
工事現場の音にしては近い。
でも校舎の中の音とも少し違う。
教室の空気が止まる。
「……今の何」
結衣が小さく言った。
「机でも倒したんじゃない?」
誰かが返す。
「にしてはでかくない?」
陸が眉をひそめる。
真壁も一瞬だけ窓の外へ目をやる。
だが何も見えなかったのか、すぐに教室へ視線を戻した。
「静かにしろ。始めるぞ」
その時、二度目の音が鳴った。
今度はもっと近い。
どこか硬いものに、重いものがぶつかったような音だった。
続いて、短い悲鳴。
教室の後ろの方で誰かが息を呑む。
花音の顔から笑いが消えた。
「今の、悲鳴じゃない?」
「……」
真壁進は今度こそ教卓から離れた。
「席を立つな」
それだけ言って、扉へ向かう。
教室中の視線が、その背中を追った。
扉が開く。
廊下の光が差し込む。
「先生…?」
誰かが呼ぶ。
次の瞬間、真壁が一歩だけ後ずさった。
教室の中からは廊下の全部は見えない。
でも見えた部分だけで十分だった。
床に、誰かが倒れている。
白いシャツが赤く濡れていた。
その上にまた別の生徒が覆いかぶさっていて、肩が異様な勢いで上下している。
「おい!」
真壁が声を荒げる。
覆いかぶさっていた生徒が、ゆっくり顔を上げた。
口の周りが真っ赤だった。
「……っ」
教室のどこかで、誰かが椅子を鳴らした。
倒れていた教師らしき人物が、遅れてびくりと体を跳ねさせる。
まだ生きている。
そう思ったのも束の間、その体が不自然な角度で起き上がりかけた。
喉からおかしな音が鳴る。
目が合っていない。
でも、立とうとしている。
「下がれ!」
真壁が叫ぶ。
その声と同時に、血まみれの生徒が真壁へ飛びかかった。
花音が小さく息を呑んだ。
「湊…これ…なに…」
分からない。
分からないけど、待っていたらだめなことだけは分かる。
湊は立ち上がり、花音の手首をつかんだ。
「走れ」
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