プロローグ 記録の始まり
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赤い警告灯が、白い廊下をゆっくりと染めていた。
規則正しく明滅するその光は、本来なら異常を知らせるためのものだ。
けれど今この地下封鎖実験区画では、警告としての役目をとっくに失っていた。
異常は、もう始まっている。
「拘束率、三十七パーセントまで低下!」
「再投与、反応なし!」
「だめです、抑え切れません!」
白衣の研究員たちが走る。
端末を抱えたまま壁際へ退く者。保管庫を開いて薬剤ケースを引きずり出す者。モニターへ怒鳴るように数値を読み上げる者。
床に落ちた透明ファイルが誰かの足に蹴られ、つるりと滑って壁へ当たった。
モニターには、いくつもの数値が赤く染まって並んでいる。
心拍。筋出力。神経興奮率。拘束負荷。投与残量。
どれももう、まともな顔をしていなかった。
「焼却ラインの準備を急げ!」
「隔離壁、第三層まで閉鎖します!」
「警備班、応答してください! 警備班!」
応答は返らない。
その代わり、スピーカーの向こうから何かがぶつかる音だけが響いた。
重いものが壁へ叩きつけられるような音。
続いて、短い悲鳴。
そして、途切れる。
それで十分だった。
その場にいる誰もが、向こうで何が起きたのかを正確には見ていなくても、理解してしまうには十分すぎた。
「……っ」
若い研究員が唇を噛む。
まだ二十代の半ばにも見える男だった。額には汗がにじみ、手にした端末はわずかに震えている。
「天城主任」
その声は、聞こえるように出したというより、喉の奥から無理に押し出したものに近かった。
部屋の奥。
壁一面のモニターの前に立つ男は、ゆっくりと振り返る。
天城大地。
白衣ではなく、濃い色のシャツにジャケットという軽い仕事着。
この場にいる誰よりも整ったままの姿だった。
髪も乱れていない。
呼吸も乱れていない。
赤い警告灯だけが、その横顔に薄い陰を作っている。
「収容個体の変異が想定を超えています。これ以上は危険です。焼却処理に移行しないと…」
「ログは」
大地はそれだけを聞いた。
若い研究員が一瞬、言葉を失う。
「……は?」
「記録はどこまで取れている」
「そんな場合じゃ…!」
「質問に答えて」
声は静かだった。
怒鳴りもしない。
苛立ちも見せない。
だからこそ、その場の空気がひどく冷えた。
若い研究員は息を詰めながら端末を見下ろす。
「生体反応の推移は取れています。投与後の筋繊維増幅、神経過敏、痛覚鈍化、拘束破断まで…でも、もう十分でしょう! これ以上は地上に影響が出ます!」
「封鎖率は」
隣のモニターを見ていた年配の研究員が、顔をこわばらせたまま答えた。
「地下区画のみなら七十八パーセント維持。ですが、このままでは第三搬送路から上層へ抜ける可能性があります。主任、ここで止めるべきです」
「止める?」
大地はその言葉を、まるで意味を確かめるように小さく繰り返した。
「はい」
年配の研究員はうなずく。
汗で額に張りついた前髪を乱暴に払って、さらに言葉を重ねた。
「この段階ならまだ焼却で終わらせられます。ここで切れば、少なくとも地上の居住区へは…」
「地上には学生がいます」
若い研究員が食い気味に言った。
「朝になれば登校も始まります。ここで封鎖だけ選んだら、上は…」
「もう始まってるかもしれません!」
別のオペレーターが叫ぶように割って入る。
「第二換気ラインからの圧力異常を確認! 第三搬送路だけじゃありません、区画外への流出経路が…」
その瞬間、部屋の照明が一度だけ大きく明滅した。
続いて、低い機械音が鳴る。
『警告。封鎖実験区画B3において隔離維持率が基準値を下回りました』
『都市防疫プロトコルへの移行を提案します』
無機質な女の声だった。
抑揚も温度もないその音声が、かえって人の心拍だけを浮かび上がらせる。
「都市防疫って…」
若い研究員の声が裏返る。
「だめです、それは広すぎる! この一画だけじゃ済まなくなる!」
「主任、承認しないでください!」
「学生たちが…!」
声が重なる。
誰もが一斉に大地を見る。
部屋の中で、たぶん唯一、答えを持っている人間を見るみたいに。
だが大地は、少しも急いでいなかった。
モニターへ視線を移す。
赤く染まった数値。
崩れていく拘束ライン。
警備要員の生体反応が次々にロストへ切り替わる表示。
その一つひとつを、まるで予定表でも確認するみたいに眺める。
「人は弱い」
誰に向けたともつかない声で、大地は言った。
若い研究員が眉を寄せる。
「……何ですか」
「少し環境が崩れただけで、群れはすぐ壊れる。理性も秩序も驚くほど脆い」
「そんな話してる場合じゃ…!」
「今だからしている」
大地はゆっくりと歩き、中央操作卓の前に立った。
ガラスの天板の下で、承認待機の赤い表示が点滅している。
『都市防疫プロトコル 起動承認待ち』
「主任!」
若い研究員が一歩前に出た。
「やめてください!」
その声にはもう敬語の形しか残っていなかった。
必死さだけがむき出しになっている。
「地上には関係ない生徒がいるんです! 研究区の中だけで止められるかもしれないのに…!」
「関係ない?」
大地はそこでようやく、少しだけその研究員を見た。
怒ってはいない。
笑ってもいない。
ただ、不思議そうに。
「彼らは、その中にいる」
「……っ」
「外から見ているだけの人間なんて、最初からいない」
若い研究員の顔から血の気が引く。
「あなた…」
その時だった。
分厚い強化ガラスの向こうで、何かが大きくぶつかった。
ばき、と嫌な音がする。
部屋の空気が止まる。
全員が反射でそちらを見る。
隔離通路の先。
白い壁も、床も、もうきれいなままではなかった。
血が飛んでいる。引きずったような赤黒い跡が続いている。倒れた警備要員の腕が、ガラスの向こうで不自然な向きに折れていた。
そして、その奥。
人の形をしているようで、していない何かが、ゆっくりと顔を上げた。
肌の一部は裂け、露出した筋肉が濡れた赤で脈打っている。
片腕だけが異様に膨張し、拘束具の残骸をまだ引きずっていた。
目は開いている。だが、もう人の目ではない。
「っ……!」
誰かが息を呑む。
異形は、ガラス越しにこちらを見た。
次の瞬間、跳んだ。
轟音。
強化ガラスにひびが走る。
一枚ではない。何重にも重なった隔離層が、悲鳴みたいな音を立てて白く曇る。
「第二層破断!」
「下がってください!」
「焼却ライン、早く!」
『焼却処理ライン、起動不能』
『送電系統に異常があります』
「ふざけるなよ…!」
年配研究員が吐き捨てるように言った。
若い研究員は完全に顔色を失っている。
「もうだめだ…」
その声は小さかった。
でも、部屋の全員に聞こえた。
大地だけが、中央操作卓へ手を置く。
認証音。
『権限確認。天城大地』
『都市防疫プロトコル、起動しますか』
「起動」
『承認しました』
その瞬間、地下区画全体の照明が赤へ切り替わった。
遠くの方で重たい隔壁が動き出す音。
換気ラインが閉じる音。
警報。
自動音声。
都市全域へ流れていく起動シーケンス。
『防疫プロトコルを起動しました』
『各区画の封鎖を開始します』
若い研究員が一歩後ずさる。
「……何を、したんですか」
大地は答えない。
ガラスの向こうでは、二撃目が入っていた。
ひびが蜘蛛の巣みたいに広がる。
あと一回、もつかどうか。
『第三封鎖壁、維持不能』
『地下区画の隔離が限界に達しました』
「主任、避難を…!」
オペレーターが叫びかけた瞬間、ガラスが砕けた。
飛び散る破片。
誰かの悲鳴。
血。
床を滑る靴音。
引き倒される体。
白い部屋が一瞬で赤に塗り替わる。
だが大地は、その惨状さえ一歩引いた位置から見ていた。
壁一面のモニターへ目を向ける。
地下の崩壊。
上層へ広がっていく警告表示。
まだ平穏なままの地上区画。
朝を迎える前の海上学園都市。
整いすぎた理想都市。
閉ざされた箱庭。
選別には、ちょうどいい。
「記録を続けろ」
その声は、悲鳴の中でも妙にはっきり聞こえた。
「ここから先が本番だ」
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