選ばれる側
設備区画の隅にある保守室は、狭いわりに音が外へ漏れにくかった。
壁は灰色。
床には工具箱と巻かれたケーブル。
奥に折りたたみ椅子が二脚、非常用の棚がひとつ。
研究区の白さとも、寮区の生活感とも違う、完全に“人が長居する前提じゃない場所”だった。
花音は入ってすぐ壁にもたれた。
息が上がっている。
右腕の袖口には、さっきの逃走でできた浅い裂傷が残っていた。
出血は多くない。
でも、赤いものが見えるだけで心臓に悪い。
「見せて」
心晴が言う。
花音は一瞬だけ腕を引っ込めかけた。
たぶん、心晴に見せたら余計に気にさせると分かっているからだ。
「ほんとに軽いやつだから」
「知ってる」
心晴が言う。
「だから今のうちにやる」
その声は静かだったが、ほとんど命令に近かった。
花音はそれ以上は拒めず、しぶしぶ腕を出す。
「痛かったら言って」
「もう痛いよ」
「じゃあ今さら一回増えても一緒」
「それ励まし?」
「違う」
「だよね」
心晴は救急セットの中身を広げ、消毒と簡易止血を始めた。
手つきは慣れている。
その慣れが今は逆に嫌だった。
花音が小さく顔をしかめる。
「しみる」
「我慢して」
「はい」
「えらい」
「その褒め方、小学生みたい」
「今はそれで十分」
「ひどい」
そのやり取りを、湊は少し離れた位置から見ていた。
心晴の手は震えていない。
でも顔色はまだ白い。
たぶん、動いている方がましなんだろう。
止まると余計なことを考えるから。
六花は出入口の脇で外の音を拾っている。
真琴は保守室の簡易端末で周辺ラインを確認し、奏恵は壁際で息を整えながらも意識だけは外に向けていた。
しばらくして、花音の手当てが終わる。
「はい」
心晴が包帯の上から軽く押さえる。
「これで大丈夫」
「ありがと」
「……ごめん」
「そこ違う」
花音がすぐ言った。
心晴の指が止まる。
「え」
「ありがと、でいいじゃん」
「でも」
「でもじゃなくて」
花音は包帯の巻かれた腕を見て、それから心晴を見る。
「私が勝手にこけたのもあるし、逃げてる時の傷だし、ぜんぶ心晴ちゃんのせいみたいな顔される方がやだ」
「……」
「いや、やだっていうか、困る」
「白峰、それたぶん同じ意味」
六花が言う。
「今そこつっこまなくていいでしょ!」
花音が振り返って言い返す。
その勢いが、少しだけ空気を戻す。
だが次の瞬間、保守室の外で物音がした。
全員が止まる。
六花が壁際に寄り、湊も体勢を変える。
足音は一つ。
いや、近づいてから止まる感じが少し知っている。
「……開けるなよ」
六花が低く言う。
湊は小窓のない扉に近づき、耳だけを寄せる。
数秒。
それから、外から小さく声がした。
「……如月」
神代奏多だった。
花音が目を見開く。
「神代先輩…?」
六花はすぐには動かなかった。
でも、相手が一人で、声も切羽詰まりすぎていないと判断したのか、小さく顎を引く。
湊が扉を少しだけ開ける。
神代奏多が、壁にもたれかかるようにして立っていた。
顔色は悪い。
制服の袖が破けている。
でも、自分の足で立っている。
「……生きてたか」
湊が言う。
「そっちも」
奏多が息を吐く。
「中、入っていいか」
「一人?」
「今は」
六花が内側から見た。
武器なし。
感染した様子も今のところなし。
扉が開き、奏多が中へ入る。
花音が思わず聞いた。
「先生は」
「……見失った」
奏多は短く答えた。
「助けようとはした。でも、だめだった」
その答えだけで十分だった。
花音が口を閉じる。
真壁進の最期を、はっきり見たわけじゃない。
でも、それで生きていた未来を想像できるほど甘くはなれない。
奏多は部屋の中を見回し、心晴で一度だけ視線を止める。
その顔は責めてはいない。
でも、迷っている顔だった。
「傷、大丈夫か」
花音に向けて聞く。
「軽いです」
「そうか」
少し間があく。
その沈黙の意味を、湊はたぶん一番早く察した。
「何だ」
「……」
「言えよ」
「今じゃなくてもいいだろ」
「今だからだろ」
奏多が小さく息を吐く。
六花は壁にもたれたまま、もう何が来るか分かっている顔だった。
花音はまだ分かっていない。
心晴は、分かってしまっている顔だ。
「回収部隊の無線、俺も聞いた」
奏多が言う。
「対象優先、接触者処理」
「それで」
湊が促す。
奏多はほんの一瞬だけ目を閉じて、それから続けた。
「……天城を渡せば、他は助かる可能性がある」
保守室の空気が、そこで完全に変わった。
花音の顔から色が消える。
真琴は何も言わない。
奏恵は視線を落とした。
六花は動かない。
湊だけが、奏多をまっすぐ見ていた。
心晴は、あまり驚かなかった。
その言葉は、どこかで来ると思っていた。
来てほしくなかったけど、来ると思っていた。
「……だよね」
心晴が、小さく言う。
「待って」
花音がすぐに声を上げた。
「それ、今言う?」
「今しかないだろ」
奏多が返す。
「俺だって言いたくて言ってるわけじゃない。でも、このままだと全員追われる」
「だからって」
「現実見ろ、白峰」
奏多の声も少しだけ強くなる。
「対象は天城なんだろ。なら、切り分けられるならした方が助かる人数は増える」
「それ、人数の話にしていいことじゃないでしょ!」
花音が言い返す。
「人の話じゃん!」
奏多の顔が歪む。
でも引かない。
「じゃあ全員で死ぬ方がいいのか」
「そういうこと言ってない!」
「同じだろ!」
心晴はそのやり取りを聞きながら、自分の中にあった冷たい考えが、誰かの口から出たことで逆にはっきり形になっていくのを感じていた。
そうだ。
自分がいなければ、少なくとも狙われる理由は減る。
花音が怪我をしたのも。
六花が危ない位置に立っているのも。
湊が何度も引き返せなくなっているのも。
全部、自分が中心にいるからだ。
「……私を置いていけばいい」
言ったのは、自分だった。
花音が振り返る。
「心晴ちゃん」
「だって本当でしょ」
心晴は続ける。
「私は最初からおかしかった。認証も通るし、回収対象にもされるし、父の名前もそこにあった」
「でも」
「私を渡せば、少なくともみんなは」
「そこも違う」
花音が強く言った。
心晴が止まる。
花音は泣きそうな顔だった。
でも泣いていない。
ちゃんとこっちを見てる。
「それ、今さらすぎる」
「……」
「ここまで来たのに、今だけ急に一人で降りるみたいな言い方しないで」
「でも私は」
「でもじゃなくて」
花音は一歩近づいた。
「謝るんじゃなくて、一緒にいてよ」
その言葉で、心晴の中の何かが止まる。
簡単な言葉だった。
難しい理屈じゃない。
でも、一番刺さるところにまっすぐ来た。
「……ずるい」
心晴がかすれた声で言う。
「知ってる」
花音が返す。
「今はそれでいく」
六花が短く言った。
「却下」
奏多が見る。
「火澄」
「合理で見ても切るのは悪手」
六花は淡々としていた。
「天城切ったら、情報もルートも死ぬ。今ここで分断する方が全滅率高い」
「でも」
「“でも”はいらない」
六花が切る。
「人数の話するなら、なおさら」
奏多が言葉を失う。
それはそうだ。
心晴を渡して本当に助かる保証なんてどこにもない。
ただ、切り離す理由が欲しかっただけだ。
自分の中の怖さに、現実的な名前をつけたかっただけ。
湊がそこで初めて口を開いた。
「おまえさ」
視線は心晴へ向いていた。
「誰に聞いた」
「え」
「置いていけばいいって。誰が決めた」
「……私」
「勝手に決めるな」
「でも」
「でもじゃない」
湊の声は低かった。
「置いていく気はない」
心晴が息を止める。
花音も。
六花も。
奏多も。
みんな一瞬だけ黙った。
湊は言い直さなかった。
「何者でも関係ない」
続ける。
「おまえがこの街の何に近くても、今さら関係ない」
「……どうして」
心晴の声はほとんど息だった。
湊は少しだけ黙った。
考えているというより、言葉を選ぶ時間だった。
「今度は」
そこで一度切る。
「手を離したくないからだ」
保守室の中がしんとする。
花音の目が少しだけ潤む。
六花は何も言わない。
でも、その沈黙は否定じゃない。
奏多は完全に言葉をなくしていた。
心晴だけが、その言葉の意味をうまく処理できずに立ち尽くす。
「……どうして、そこまで」
「知らない」
湊が言う。
「たぶん最初から気になってた」
「たぶん、なんだ」
「今それ突っ込む?」
花音が言う。
「ちょっと、空気ってものをさ」
「いや、今のは大事」
心晴が、少しだけまともな顔で言い返した。
それで花音が小さく笑う。
六花もほんの少しだけ視線を外す。
重かった空気の中で、その小さなやり取りだけが人間っぽかった。
そして、その人間っぽさがあるうちは、まだ終わっていないと思えた。
奏多がやがて、低い声で言う。
「……悪い」
誰に向けた謝罪かは曖昧だった。
でも十分だった。
「俺、ちょっと……切り分ければ楽になると思った」
「なるわけないでしょ」
花音が即答する。
「そうだな」
奏多が苦く笑う。
「知ってたけど」
六花が出入口の方へ視線を戻す。
「話終わった?」
「たぶん」
花音が言う。
「今度はその“たぶん”が軽い」
「ならよかった」
真琴が端末を閉じながら言う。
「そろそろ移動した方がいい。さっきの巡回ライン、この辺もまた拾い始めてる」
湊がうなずく。
「管理区へ行く」
心晴を見る。
「一緒に来い」
「……うん」
その返事は、小さかった。
でも、もう“置いていけばいい”と言った時の声ではなかった。
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