EVA因子
画面の光が、心晴の指先を白く照らしていた。
中央端末室は静かだった。
静かすぎて、逆に誰かの呼吸が浅くなる音まで聞こえそうだった。
心晴はメインパネルの前に立ったまま、開いたままのタブを見つめる。
因子適応記録。
段階移行ログ。
投与履歴。
どれも単語だけなら読める。
けれど、読めることと理解したくないことは別だった。
「開けるよ」
自分で言ったつもりだった。
でも声は思ったより小さく、少し掠れていた。
「……うん」
花音が答える。
「私たち、もう見ちゃってるし」
その言い方は、慰めでも励ましでもない。
ただ、一緒に立ってるよという感じがした。
心晴は一度だけ息を吸って、最上段のタブを開いた。
画面いっぱいに文字列が流れる。
英字と日本語が混ざっていて、慣れていない人なら読む気をなくす配置だった。
でも心晴は、嫌でも視界に入ってくる単語だけで十分だった。
**EVA因子**
**適応率**
**組織侵食**
**発症段階**
**移行率**
**完成体候補**
花音が眉を寄せる。
「なんか、ひとつもいい言葉ないんだけど」
「知ってた」
六花が言う。
「でもここまで揃うと逆に感心するね」
「してる場合じゃないよ」
「してない」
真琴が横から別の端末を操作しながら言う。
「EVA因子自体は、もともと医療用の適応試験じゃなかったはず」
「はず?」
湊が聞く。
「断片しか見えないから」
真琴は少し苛立った顔で言う。
「でも少なくとも、普通の感染症研究とは扱いが違う」
「感染症じゃないの?」
花音が聞く。
それに答えたのは奏恵だった。
「感染だけでは説明できないの」
声は低く、短い。
「組織変化、神経反応、筋出力の異常増幅……これは発病というより、別のものに近い」
「別のものって」
花音が言って、すぐ顔をしかめる。
「いや、聞きたくないかも」
心晴の指が次のログへ触れる。
そこに表示されたのは、発症段階の一覧だった。
**Stage 0 / 保持**
**Stage 1 / 侵食初期**
**Stage 2 / 行動異常**
**Stage 3 / 自我消失**
**Stage 4 / 変異移行**
**Stage 5 / 完成体化候補**
見た瞬間、胃の奥が冷える。
「……っ」
思わず、呼吸が止まった。
頭の中で、朝から見てきた光景が勝手につながる。
教師。
生徒。
白衣のスタッフ。
止まらない動き。
人の顔のまま、人じゃないものへ変わっていく感じ。
「心晴ちゃん?」
花音が顔を覗き込む。
「だいじょ……」
言いかけたところで、心晴は首を振った。
「大丈夫じゃない」
「うん、それは見れば分かる」
花音はそう言いながらも、無理に明るくしようとはしなかった。
ただ、すぐ近くに立つ。
湊は画面ではなく、心晴の顔を見ていた。
「分かるか」
「……少し」
「どのくらい」
「最悪だってことは、かなり」
その返しに、六花が短く息を吐く。
「十分」
真琴はもう一つのサブ画面を開いていた。
そこには、被験体番号ごとの観察記録が並んでいる。
「見て」
真琴が言う。
「投与後の反応だけじゃない。適応率の高い個体は、段階飛ばしてる」
「飛ばす?」
湊が聞く。
「普通は0から順に崩れるんじゃなくて?」
「普通ならね。でもここでは“普通”が前提じゃない」
真琴は画面を拡大する。
そこには一つのログが表示されていた。
**07-A / Stage 1からStage 3へ短時間移行**
**備考: 因子適応により神経興奮値上昇**
**投与群: B-4**
花音がたまらず言う。
「人のこと、商品みたいに書かないでほしいんだけど」
「書いてるのは向こう」
六花が言う。
「こっちも同感」
そのやり取りの横で、奏恵は一歩も画面に近づいていなかった。
ただ、少し離れた位置から見ている。
その距離が、逆にこの人の後悔を濃くしていた。
「先生」
心晴が呼ぶ。
奏恵はゆっくり視線を上げる。
「これ、どこまで本当なんですか」
答えはすぐには返ってこなかった。
奏恵は画面を見た。
そこに並ぶ文字を、自分の知っているものとして、でも全部を認めたくないものとして見ている顔だった。
「本当よ」
やがて静かに言う。
「少なくとも、今あなたたちが見てるものは」
「じゃあ、ここで起きてることは」
「見た通り」
花音が息を呑む。
「じゃあ、この街……最初から?」
「最初から全部がこうだったわけじゃない」
奏恵が言う。
「でも、こうなる可能性を知ったまま進めていた人たちはいる」
その言葉で、空気がまた一段冷えた。
心晴は次のタブを開いた。
**統括管理**
そこにアクセスしようとした瞬間、画面に一瞬だけロック警告が走る。
でも認証は弾かれない。
真琴がわずかに顔をしかめた。
「ほんとに深い権限持ってるんだ」
「言い方」
花音が小さく言う。
「今の心晴ちゃんにそれ追い打ちじゃない?」
「分かってる」
真琴は視線を外さない。
「でも今、誤魔化しても意味ない」
心晴の指先は冷えていた。
それでも次の画面を開く。
一覧。
複数のプロジェクト名。
試験群。
緊急対応プロトコル。
そして最下部の責任者欄。
そこにあった名前を見た瞬間、心晴は指を止めた。
止めた、というより、止まってしまった。
**統括責任者 天城大地**
文字はただそこにあるだけだ。
黒い画面に白い文字で。
なのに、それだけで視界の中の音が全部遠くなったみたいに感じる。
「……ちがう」
口から、勝手に声が漏れた。
湊が少しだけ前へ出る。
花音は画面と心晴の顔を交互に見る。
六花は何も言わない。
真琴も。
奏恵だけが、ゆっくりと目を閉じかけてやめた。
「違う……こんなの」
心晴は画面を見たまま、うまく息ができなくなる。
頭の中で、幼い頃の白い廊下が戻ってくる。
見なくていい。
少しだけ。
大丈夫だよ。
全部、何ひとつ大丈夫じゃなかったのに。
「父が……」
続きが出ない。
湊の声が、横から入る。
「見えてる」
「……」
「今は、それでいい」
「よくない」
心晴はやっとのことで言い返す。
「よくない、全然……」
「知ってる」
湊は言う。
「でも今ここで止まる方が困る」
「……っ」
「あとで崩れろ」
「言い方」
その返しができたことで、自分でも少しだけ息が戻ったのが分かった。
ちゃんと雑だ。
でも、その雑さに引き戻される。
花音が小さく言う。
「心晴ちゃん」
「……なに」
「今は、まだ立ってて」
「……」
「倒れるなら、あとで一緒に倒れてあげるから」
「それ、全然励ましになってない」
「でも一人じゃないって意味」
「……知ってる」
その会話の端で、六花が別の画面を見ていた。
「抑制剤ログがある」
「え」
花音が振り返る。
「そんな都合のいいのある?」
「都合はよくない」
六花が言う。
「“試作”。“未完成”。“適応者限定”」
「ぜんぜんよくないじゃん」
「だからそう言ってる」
真琴がすぐ横へ寄る。
「出せる?」
「一部だけ」
六花が言う。
「心晴」
「……うん」
心晴は指示されたファイルを開く。
抑制剤試作番号。
投与条件。
副作用。
成功率不明。
ろくでもない文字列ばかりだ。
でも持ち出さない理由はなかった。
「これ、外部端末にコピーできる」
真琴が言う。
「その代わり、アクセスログが残る」
「今さらだろ」
湊が言う。
「それもそう」
心晴が研究区のサブ端末へデータ転送を始める。
細い進行バーがゆっくり伸びていく。
その時間が妙に長い。
奏恵が初めて中央卓へ近づいた。
「その下の緊急プロトコルも見て」
「何で」
湊が聞く。
奏恵はほんの一瞬だけ迷ってから言う。
「知った人間をどう扱うか、書いてあるから」
心晴が画面をスクロールする。
緊急時対応。
区画封鎖。
因子流出時。
対象回収優先。
不要接触者処理。
花音の肩がびくりと揺れる。
「不要って……」
「私たちのこと」
六花が先に答えた。
「知ると、そうなる」
「そんなの」
花音は言葉を失う。
「そんなの、もう街じゃないじゃん」
その瞬間、端末室の上部スピーカーが鳴った。
全員の動きが止まる。
低い起動音。
無機質な女の声。
『当区画はこれより回収対象に指定されました』
花音がはっきりと息を呑む。
六花が即座に出入口を見る。
湊も体を半歩ずらした。
『対象識別を優先してください』
『不要接触者は排除対象に切り替えます』
真琴が小さく舌打ちする。
「早い」
「ログで捕まれた」
六花が言う。
「想定通り最悪」
心晴は画面から目を離せなかった。
“対象”という言葉が、今さらみたいに重く腹に落ちる。
父の名前。
認証権限。
回収対象。
全部が一本の線になる。
自分が、中心に近すぎる。
「心晴」
湊が呼ぶ。
顔を上げると、湊はもう出口の方を見ていた。
花音は心晴を見ている。
六花は戦う準備に入っている。
奏恵も真琴も、もう説明を続ける顔ではない。
そして、端末室の外の廊下で、複数の足音がぴたりと止まった。
感染者の足音じゃない。
揃っている。
無駄がない。
人間の足音だ。
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