認証される名前
扉を少しだけ開けたあとも、六花はすぐに相手を中へ入れなかった。
記録室の入口で半身をずらし、警棒を下ろさないまま廊下の女を見る。
白衣。長い黒髪を後ろでまとめている。年齢は二十代後半くらい。
顔立ちは整っているが、今はそのきれいさより、疲れ切っているのに崩れていない目の方が印象に残った。
袖口に薄く血がついている。
それでも立ち方は医療スタッフというより、修羅場を何とかくぐってきた大人のそれだった。
「霧島奏恵です」
女は静かに言った。
「この研究区の医療スタッフでした」
「“でした”」
六花が繰り返す。
「今は?」
「今は、生き残っているだけ」
「信用できる言葉じゃない」
「でしょうね」
奏恵はそれを否定しなかった。
変に弁明しないところが、逆に少しだけ信用を呼ぶ。
花音は心晴と奏恵の顔を見比べた。
「知り合いなの?」
「……小さい頃に、たぶん」
心晴が言う。
「何度か会ってる」
「“たぶん”多いね」
六花がぼそっと言う。
「今そこ言う?」
花音が小声で返す。
「言う」
「ほんとに一回だけでいいから優しくなれないかな」
「今は無理」
湊はそのやり取りの横で、奏恵の視線が心晴から離れないのを見ていた。
ただ再会に驚いているだけじゃない。
“来てしまった”と本気で思っている人の顔だ。
「ここで話すのは危ない」
奏恵が言う。
「中央記録端末室へ移動したい」
「案内できるの」
湊が聞く。
「できる」
「信用は」
「しなくていい」
奏恵は即答した。
「でも、あなたたちだけで動くよりは早い」
その返答に、六花がほんのわずかだけ眉を動かした。
“全部は信用しなくていい”という言い方は、さっきから妙に正直だった。
「先生」
心晴が小さく聞く。
「ここで、何が起きてるんですか」
奏恵はすぐには答えなかった。
白い廊下の先を見る。
人がいないのを確認してから、低く言う。
「全部を話している時間はない」
「またそれ」
花音がこぼす。
「今日ほんとそればっかだな…」
「でも本当」
奏恵が言う。
「知りたいなら、端末室まで来て」
それだけ残して、奏恵は身を翻した。
六花がすぐに動かないので、湊も一拍置いてから続く。
花音と心晴が後ろ、六花は一番最後について警戒する形になった。
研究区のさらに奥へ進むにつれ、空気がまた変わっていく。
白さは同じなのに、人の気配が完全に消えていく。
足音だけがやけに響く。
途中、ガラス越しに見える小さな処置室の中に、倒れたまま動かない白衣の影があった。
花音が視線をそらす。
「見なくていい」
湊が言う。
花音は少しだけ目を瞬いた。
「……ありがと」
「今は前」
「うん」
奏恵は振り返らないまま先導している。
その歩き方には迷いがない。
でも速度は速すぎず、こちらがついて来られるくらいに調整されていた。
「先生」
心晴がもう一度呼ぶ。
奏恵は今度は少しだけ振り返った。
「何」
「ここ、前から……こういう場所だったんですか」
「違う」
即答だった。
「少なくとも、最初は」
「最初は?」
花音が聞く。
奏恵はそれ以上は続けなかった。
言葉を飲み込むみたいに前を向く。
その横顔を見て、湊は思う。
この人も全部を知っているわけじゃない。
でも、十分知ってしまった顔はしている。
廊下の先に、大きな防疫扉が見えてきた。
一般学区や病棟区画のものよりさらに厚い。
扉の両脇に認証パネル。
上部には青い待機ランプ。
「ここ」
奏恵が足を止める。
「中央記録端末室の前」
「ご親切に」
六花が前へ出る。
「まず私でやる」
保安端末を接続する。
六花の指の動きは無駄がない。
数秒。
赤。
『権限不足』
無機質な表示。
花音が肩を落とす。
「でしょうねって感じだけど、実際出るとだいぶやだ」
「保安権限でも足りない」
六花が言う。
「ここ、想像以上に深い」
奏恵が口を開きかける。
でも、その前に湊の視線が心晴へ動いた。
花音も気づいて、ゆっくりそっちを見る。
霧島奏恵はもう最初から、そのつもりだったみたいに黙っていた。
心晴だけが少しだけ遅れて、自分へ向いた視線の意味を理解する。
「……私?」
「たぶん」
湊が言う。
「“たぶん”って言うなよ」
花音がすぐ返す。
「今それ一番心臓に悪い」
「悪いな」
「いやほんとに」
心晴は扉を見た。
次に自分の手を見る。
指先が少しだけ震えている。
「……開かなかったら」
「その時は別を探す」
湊が言う。
「開いたら」
「その時考える」
「考えるの遅くない?」
花音が言う。
「今はそれしかない」
六花が返す。
その短いやり取りを挟んで、心晴が前へ出る。
認証パネルに手を置く。
一秒。
二秒。
三秒。
誰も息をしないみたいな沈黙。
ぴ、と小さな電子音。
青い光が走った。
『認証を確認しました』
花音の肩が跳ねる。
「うそ」
小さい声だった。
心晴自身も、目を見開いている。
奏恵は目を閉じるみたいに一度だけまぶたを下ろした。
六花は何も言わない。
でも視線が一段深くなる。
『LEVEL-B ACCESS / AMAGI_KOHARU』
画面にその文字が表示される。
花音が思わず心晴を見る。
「……心晴ちゃん」
「見えてる」
心晴が言う。
「ちゃんと見えてるから、今それ以上は言わないで」
「うん」
花音はすぐに黙った。
重い音を立てて、防疫扉が開いていく。
中は広かった。
一般的な端末室というより、中央オペレーションルームに近い。
壁一面のモニター。
中央に大きな操作卓。
非常電源で最低限の光だけが生きているせいで、部屋全体が薄暗く、画面の光だけがやけに浮いて見えた。
そして、その中央卓の前に人影が一つあった。
黒髪のボブ。
細身。
白衣ではないが研究区側の制服。
こちらの音に気づいて振り返った顔を見て、心晴が小さく息を呑む。
「……真琴」
一ノ瀬真琴は、その顔を見た瞬間に、驚くより先に苦いものを噛んだような表情をした。
「やっぱり」
その一言が、扉の解錠音よりずっと重く響いた。
花音が心晴を見て、今度は真琴を見る。
「知り合い?」
「同じコース」
真琴が先に答えた。
「というか、たぶんここで会うのは時間の問題だった」
「……どういう意味」
花音が聞く。
真琴は肩をすくめる。
「前から変だと思ってたから」
「真琴」
心晴が低く言う。
真琴は一瞬だけ心晴を見つめた。
責めたい気持ちがないわけじゃない。
でも、それを今出しても意味がないと分かってる顔だった。
「安心して。今は責める気ない」
「安心できる言い方じゃないな」
湊が言う。
真琴が湊を見た。
「如月だっけ」
「知ってるんだ」
「天城の周りにいる人くらいは」
「それ、ちょっと怖い」
花音がぼそっと言う。
真琴は無視して中央卓の画面を軽く叩いた。
「端末はまだ生きてる。非常電源だけだけど」
「使える?」
六花が聞く。
「使えるところまで」
「その言い方、こっちもよく知ってる」
「今この街で断言できる人いないでしょ」
真琴が返す。
「それはそう」
六花が短く認めた。
心晴は中央卓へ近づく。
足取りは軽くない。
でも逃げない。
画面に触れると、認証名が再び表示された。
**AMAGI_KOHARU**
その文字を見て、真琴が小さく息を吐く。
「ほんとに、そういうことだったんだ」
「……」
心晴は何も言わない。
「前から変だと思ってた。研究棟に近い時だけ端末反応が違ったし、教員側のアクセスも何かおかしかったし」
「それ、言ってくれてもよかったんじゃない?」
花音が言う。
「本人が知らない顔してるのに?」
真琴が返す。
「こっちだって踏み込みにくいよ」
花音は言い返しかけて、少し止まった。
その理屈が、嫌だけど分からなくはなかったからだ。
奏恵が静かに言う。
「真琴さん」
「分かってます。今は言い合ってる場合じゃない」
「なら助かる」
「助かってくださいよ、ちゃんと」
その返し方に、真琴の根本がただの嫌な子じゃないと分かる。
六花が壁際の端末を確認しながら言う。
「情報拾ったらすぐ出る」
「そうしたいけど」
真琴が中央卓の操作画面を見て眉を寄せる。
「ここ、上位ログにロックがかかってる」
「解除できる?」
「私じゃ無理」
真琴の視線が、自然と心晴に向く。
「でも、天城ならたぶん」
花音が小さく息を吸う。
“天城ならたぶん”。
その言い方だけで、心晴がどこに立たされているのかがまた少し濃くなる。
心晴は何も言わず、中央卓のメインパネルへ手を伸ばした。
暗かった画面が一段階明るくなる。
複数のタブが開く。
被験体管理。
段階移行ログ。
観察履歴。
投与計画。
緊急時プロトコル。
花音がそれを見て、思わず小さく言う。
「……やだ」
六花はその言葉に何も返さなかった。
湊も同じだった。
たぶん、同じ気持ちだったからだ。
心晴の指が一つのタブの上で止まる。
そこに表示されていた文字は、まだ一部だけ。
でも十分に不穏だった。
**因子適応記録**
その下に並ぶ、小さな英字。
**EVA**
心晴の呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。
湊はそれに気づきながら、何も言わずに画面を見た。
この部屋の空気は、ここへ入る前よりさらに冷たい。
知ってはいけないものの前に立っている、という感覚だけが、少しずつはっきりしていく。
そして今、そこから目をそらしてくれる人は誰もいない。
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