医療研究区
白い廊下の空気は、肌に薄く貼りつく感じがした。
冷房が強いわけじゃない。
でも、一般学区や寮区の空気とはどこか違う。
人が暮らしている場所の温度じゃない。
如月湊は、先を歩く六花の背中を見ながら足音を殺した。
右手に警棒を持った六花は、歩幅も視線もぶれない。
こういう場所に来ても、怖がるより先に“どう動くか”を考える人間なんだろうと分かる。
その少し後ろで、花音が小さく息をひそめた。
「……ねえ」
「何」
湊が返す。
「さっきからずっと思ってるんだけど」
「うん」
「ここ、ほんとに学校の中?」
声が震えていた。
茶化してるんじゃなくて、本気でそう思ってる声だった。
六花が前を向いたまま言う。
「もうその質問、答え出てるでしょ」
「出てるけど」
花音は自分の腕を軽くさする。
「口にしないと無理なんだって。やばい場所って口に出すと、ちょっとだけ整理できるから」
「便利な脳してるな」
「便利じゃないよ。今ぜんぜん追いついてないし」
「知ってる」
「知ってるって言わないで」
そのやり取りに、心晴が少しだけ視線を落とした。
まだ顔色は悪い。
でも、逆に妙な落ち着きがあった。
覚悟を決めた人間の静かさに少し似ている。
もっとも、覚悟を決めたくて決めたわけじゃないのは見れば分かった。
廊下の左右には、等間隔で扉が並んでいた。
観察室。
検査準備室。
試料保管。
無菌処置室。
プレートに書かれた文字は読める。
でも、そのどれも学校生活の中で見る単語じゃない。
白い壁に黒い文字が並んでいるだけなのに、それだけで場所が変わったと分かる。
花音が、いちばん手前の曇りガラス付きの扉を見た。
「保健室とかじゃないんだね」
「保健室で“試料保管”はやだろ」
湊が言う。
「それはそうだけど」
通路の奥から、また小さな音がした。
ぎ、……ずる。
何か重いものを床で引くような音。
全員の動きが止まる。
六花が左手を上げた。
その合図に従って、湊もすぐ壁際へ寄る。
花音は息を止め、心晴は扉の影へ半歩下がった。
音は少し近づいて、それから止まった。
沈黙。
廊下の向こう、薄暗い分岐の先に、白い影が見える。
人だ。
白衣を着たまま、壁にもたれるように立っている。
いや、立っているというより、やっと倒れていないだけに見える。
「スタッフ……?」
花音がほとんど息だけで言う。
六花は返事をしない。
ただ、じり、と重心を前にずらす。
白衣の人影が、そこでゆっくり顔を上げた。
左の頬から顎にかけて、赤黒い筋が伸びている。
眼鏡が半分ずれ、片腕の袖口まで血で固まっていた。
それでも最初の一瞬は、“怪我した人”に見えた。
でも次の瞬間、その人影の足が不自然な角度で一歩前に出る。
普通の歩き方じゃない。
体の重さを知らないみたいな、変な踏み出し方だった。
「下がって」
六花が低く言う。
白衣の女は、もう一歩近づく。
焦点の合わない目が、こちらを通り越して遠くを見ているようで、でも何かだけは捉えている。
口元がゆっくり開く。
中が赤い。
「……っ」
花音が喉の奥で息を詰まらせる。
次の瞬間、女は急に速くなった。
「伏せて!」
六花が踏み込む。
警棒が横薙ぎに入る。
女の側頭部を打つ、鈍い音。
普通ならそこで倒れるはずなのに、白衣の女は勢いだけでそのままこちらへよろめき込んでくる。
湊が反射で前へ出た。
六花の二撃目が入る前に、肩口を蹴って軸を崩す。
体が傾く。
六花の二撃目が後頭部へ落ちる。
ようやく、白衣の女は床へ落ちた。
音が嫌に大きく響いた。
花音が一歩も動けないまま言う。
「白衣の人相手にそれやるの、ほんと心が追いつかないんだけど」
「追いつかなくていい」
六花が言う。
「止まらない方がまずい」
「分かるけど……!」
心晴は倒れた白衣の女を見ていた。
見覚えのある顔ではない。
でも、“ここで働いていた人”だというだけで、他の感染者とは違う重さがあるらしい。
湊はその横顔を一瞬だけ見てから、床に散ったものへ視線を落とした。
白衣のポケットから落ちたスタッフ証。
小型端末。
透明なカードキー。
端末の画面はまだ割れておらず、薄く点いている。
湊がしゃがみ込んで拾う。
画面には、数字のグラフと、読めるようで読みにくい単語が並んでいた。
**観察対象 07-A**
**投与後反応**
**段階移行**
**拘束負荷**
「観察って」
花音が顔をしかめる。
「患者じゃなくて?」
「患者って呼んでない時点で、まあそういうことだろ」
湊が言う。
端末の下部に、見覚えのない略称があった。
**EVA因子**
その文字だけが妙に目に残る。
「心晴」
湊が呼ぶ。
「これ」
「……見せて」
心晴が端末を受け取る。
画面を見た瞬間、わずかに息が止まる。
「知ってるの?」
花音が聞く。
「……知らない」
心晴はすぐに答えた。
「でも、嫌な感じがする」
「それは全員してる」
六花が言う。
「今さら共有しなくていい」
花音が眉を寄せる。
「六花ちゃん、ほんとにちょっとは言い方やさしくできない?」
「今?」
「今」
「無理」
「即答なんだよなあ…」
それでもそのやり取りで、少しだけ息が戻る。
廊下の先はまだ静かだった。
さっきの“引きずる音”はこの白衣の女だったのかもしれない。
けれど、それで研究区の全部が片づいたとは思えない。
「進むぞ」
六花が言う。
四人は再び歩き出す。
次の区画は、観察室が並ぶ細い廊下だった。
曇りガラス越しにベッドの影だけが見える。
ひとつは空。
ひとつはモニターだけが点滅している。
ひとつはカーテンが半分閉まっていて、中は見えない。
花音がさすがに小声で言う。
「ちょっと待って、カーテン閉まってるやつ一番いやなんだけど」
「見なきゃいい」
湊が答える。
「見なくてもあるって分かるのがいやなんだって」
「面倒だな」
「私もそう思う!」
その返しに、心晴の口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったというほどでもない。
でも、完全に沈んでいる顔ではなくなる。
観察室のひとつの扉が、少しだけ開いていた。
六花が視線で確認し、湊に小さく合図する。
二人で左右に分かれて近づく。
扉の向こうは小さな記録室だった。
壁際に机。
上には記録端末が一台。
紙のファイルも数冊散らばっている。
奥の観察窓から、向こうのベッドが見えた。
湊が先に中へ入り、すぐ周囲を確認する。
人の気配はない。
「来い」
花音と心晴が入る。
六花は扉の近くを見張ったまま。
湊が机の上の端末を起こす。
非常電源だけで生きているらしく、画面の明るさは落ちていたがまだ読める。
表示されたのは観察ログだった。
番号。
反応記録。
投与経過。
備考欄。
淡々とした文字の並び。
でも、それが逆に気味悪い。
「……なにこれ」
花音が言う。
「人のこと、こんな風に書く?」
湊も同じことを思っていた。
熱が何度、脈拍がいくつ、筋出力がどれだけ増した。
そういう数字の横に、“被験体”という文字が当たり前みたいに並んでいる。
心晴がゆっくり画面へ手を伸ばす。
「このフォーマット……」
「知ってる?」
湊が聞く。
心晴は首を振る。
でも、見覚えのない人の反応でもなかった。
「見たことは、ないと思う」
「思う」
六花が繰り返す。
「便利な言い方」
少し棘のある声音。
花音がすぐに振り返る。
「ちょっと」
「今、必要」
六花は動じない。
「さっきから天城だけ反応が違う」
心晴の指先がわずかに止まる。
花音はその顔を見てから、言い返しかけた言葉を飲み込んだ。
たぶん、六花が言っていることも間違ってはいないからだ。
湊は画面の端に表示されている案内を見つけた。
**中央記録端末室はこちら →**
「奥に本体があるな」
「そこ行けば、もっと見られる?」
花音が聞く。
「たぶん」
湊が言う。
「いい意味で?」
「知らない」
「もう“たぶん”と“知らない”しかないじゃん」
「今さら気づいた?」
六花が言う。
花音が小さく肩を落とした、その時だった。
部屋の外で、かすかな物音がした。
かたん。
誰かの靴音みたいな、でも人より少し軽い音。
六花が即座に振り向く。
湊も端末から手を離し、扉の方へ体を向けた。
沈黙。
そのあと、今度ははっきりと、別の方向から人の足音が聞こえた。
感染者の引きずる音じゃない。
ちゃんとした歩幅。
慎重だけど、人間のものだと分かる音。
花音が息をひそめる。
「……誰かいる」
「知ってる」
六花が言う。
足音は廊下の向こうで止まった。
少しの間。
それから、低い声がした。
「その部屋にいるのは、誰」
女の声だった。
年齢は分からない。
でも若すぎはしない。
落ち着いていて、今の状況なのに声がぶれていない。
四人が顔を見合わせる。
六花が一歩前へ出た。
「そっちこそ」
「……その返しをする元気があるなら、少なくとも感染はしてなさそうね」
女の声が言う。
「扉を少しだけ開けて」
「断る」
六花は即答した。
短い沈黙。
それから、女は少しだけ息を吐く。
「賢い子ね」
「褒められても開けない」
「でしょうね」
そのやり取りを聞きながら、心晴の目が少しだけ揺れた。
何かに引っかかったみたいに。
「……先生?」
小さな声だった。
でも、その一言で廊下の向こうの空気が変わる。
「……心晴さん?」
今度こそ、向こうの声にも驚きが混ざった。
花音が目を見開く。
湊は心晴を見た。
六花はまだ扉の前に立ったまま、少しだけ眉を寄せる。
女が続ける。
「本当に……あなたなの?」
その問いに、心晴はすぐには答えられなかった。
でも否定もしない。
代わりに、数秒の沈黙のあと、かすれた声で言う。
「霧島、先生」
廊下の向こうで、衣擦れの音がした。
たぶん相手も一歩近づいた。
「来てしまったのね」
その言葉は責めるでもなく、歓迎するでもなく、ただ静かだった。
でも花音には、それがかえって重く聞こえた。
“来てはいけない場所”に来た人へ向ける声だと思ったからだ。
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