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LAST EXIT ACADEMIA  作者: きなこもち
第2章 『選別される街』

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プロローグ 白い廊下の記憶


 白い廊下は、音を飲み込まない。


 小さな靴で床を踏むたび、こつ、こつ、と軽い音が前へ転がっていく。

 それが自分の足音だと分かっているのに、心晴は何度も後ろを振り向きたくなった。


 廊下はまっすぐだった。

 壁も白い。床も白い。天井の灯りまで白い。

 たぶん明るいはずなのに、ぜんぶ同じ色だから少しも安心できない。


「怖いの?」


 隣から、落ち着いた声がした。


 心晴は父の手を見た。

 細くて長い指。大人の手。

 ぎゅっと握り返しているつもりなのに、向こうは少しも力が入っていないみたいだった。


「……ちょっとだけ」


 幼い声でそう答えると、父は足を止めずに言った。


「大丈夫だよ。少し見るだけだから」


 少しだけ。


 その言葉が、ここへ来てから何度か繰り返されている気がした。

 でも何を、どこまで、少しだけなのかは教えてくれない。


 白い廊下の途中には、何枚も扉が並んでいた。

 小さな窓がついた扉。

 窓のない扉。

 横に光るパネルがある扉。

 どれも似ているのに、同じじゃない。


 心晴には字の意味が全部は分からなかった。

 でも、どの扉にも自分が知っている学校の教室の名前は書かれていなかった。


 保健室でもない。

 理科室でもない。

 職員室でもない。


 病院、に少しだけ近い気がする。

 でも病院の匂いとも違った。


 つんとする消毒液の匂いの奥に、もっと冷たい、何かを洗い流したあとのような匂いが混ざっている。


 少し先で、白衣の大人たちが立ち話をしていた。

 父の姿が見えた瞬間、二人ともすぐに背筋を伸ばす。


「主任」

「おはようございます」


 そのあと、二人の視線が心晴に落ちる。

 やさしい顔をしようとしてるのは分かる。

 でも、うまくできていない。


 ここに子どもがいるのは変。

 そう思っている顔だった。


 そのうちの一人。

 髪をきっちり結んだ若い女性が、少しだけしゃがんで目線を合わせてくる。


「心晴さん、おはようございます」

「……おはよう」

「えらいですね。ちゃんと挨拶できて」

「うん」


 女性はやわらかく笑った。

 でもその笑顔は、どこか急いで作ったみたいに薄かった。


「長くは歩きませんからね」

「少しだけだから」

 父がそう言った。


 心晴は女性を見た。

 女性は一瞬だけ何か言いたそうな顔をして、でも何も言わずに立ち上がる。


 父はまた歩き出した。

 心晴もついていく。


 曲がり角をひとつ抜けると、廊下の先の空気が少し変わった。

 音が減る。

 さっきまで遠くで鳴っていた機械音が、ここではずいぶん小さい。


 左の壁一面が、厚いガラスになっていた。


 心晴は最初、それに気づかなかった。

 白い壁の続きみたいに見えたからだ。


 でも近づくにつれて、向こう側があると分かる。


 広い部屋。

 白いベッド。

 天井から下がるコード。

 銀色の器具。

 画面。

 数字。


 その真ん中に、人がいた。


 心晴は思わず足を止めた。


 父の手が少しだけ前へ引く。

 でも、止まった足はすぐには動かなかった。


 ベッドの上にいたのは、大人だった。

 男の人。

 たぶん。


 でも、何かがおかしい。


 腕が、変な方向に曲がっている。

 体が小さく震えている。

 顔は横を向いていて見えない。

 なのに、その震え方が、人が寒い時みたいじゃない。


「……おとうさん」


 声が少しだけ小さくなる。


 父は立ち止まらない。

 でも、振り返りもしないで答えた。


「見なくていい」


 その声は静かだった。

 怒ってもいない。

 やさしいと言えば、やさしい。


 でも心晴は、そこで初めて少しだけ変だと思った。


 見なくていい、なら、どうしてここを通るんだろう。


 心晴の視線がまたガラスの向こうへ戻る。


 その時、ベッドの上の人がぴくりと動いた。


 肩が跳ねる。

 腕が引きつる。

 次の瞬間、体がゆっくり起き上がった。


 普通の起き方じゃなかった。


 頭が先じゃない。

 背中でもない。

 何かに引っ張られるみたいに、胴が先に浮いて、それから首が遅れてついてくる。


 心晴の喉がひゅ、と鳴る。


 顔が見えた。


 目が開いている。

 でも、見ていない目だった。

 どこか遠くを向いているみたいなのに、次の瞬間、急にこちらへ合った。


 ガラス越しに。


 心晴の体が固まる。


 あっちも止まった。

 ほんの一瞬だけ。


 それから、向こうのそれはゆっくりと口を開いた。


 声は聞こえない。

 でも、歯だけが見えた。


「……っ」


 心晴は父の手を強く握った。

 今度はちゃんと、自分でも分かるくらい力を入れて。


 父はそこでようやく立ち止まり、視線だけを少し横へ流した。


「見なくていい」


 もう一度、同じ言葉。


 今度はさっきより近かった。

 でもやっぱり、心晴を抱き寄せるわけでも、隠すわけでもない。

 ただ、“そこを見せる必要はない”と処理しているみたいな言い方だった。


 心晴はやっと目をそらす。

 胸の奥がいやに速く鳴っている。


「帰りたい」

 小さな声で言った。


 父は少しだけ沈黙してから、静かに答えた。


「もう少しだけ」


 また、その言葉だった。


 少しだけ。

 少しだけ。

 そう言われるたび、ここから遠くなる気がする。


 白い廊下の先で、どこかの扉が開く音がした。

 さっきの若い女性研究員が何かを言っている。

 聞き取れない。

 でも声が少し急いでいる。


 心晴はもう一度だけ、振り返ってしまった。


 ガラスの向こうのそれは、まだこっちを見ていた。


 その目だけが、やけに鮮明に焼きつく。


 そこから先の記憶は、少し曖昧だ。


 父がまた歩き出したこと。

 白衣の大人たちが道を開けたこと。

 自分の足がちゃんとついていかなかったこと。


 でも、あの目だけは残った。


 見てはいけないものを見た、という怖さより、

 あそこにいたのが、もともとは人だったのかもしれない、という分からない気持ち悪さの方が強かった。


 そして今。


 同じ白い匂いの中で、心晴は立ち止まっていた。


 足元は昔よりずっと大きくなっている。

 握る父の手は、もうない。


 代わりに隣にいるのは、湊たちだ。


 冷えた空気が肺の奥まで入ってきて、そこで初めて、心晴ははっきり理解した。


 ここ、来たことある。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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