新しいはじまり 1
その日、屋敷は朝から大騒ぎだった。
「ね、この花瓶はあっちの窓辺の方がいいんじゃないかしら? ここだとうっかりぶつかっちゃいそうだわ」
「はい! あ、大奥様。先ほど殿下からまもなく到着するとお知らせがまいりましたわ」
「まぁっ、そう! あー、もうっ。どうしましょう! なんだか気ばかり急いて……」
おろおろと落ち着きなくうろつく母に、シオンがため息を吐き出した。
「もう少し気楽に構えたらどうだ。本人が今日は王子としてではなく、お忍びでくると言ってるんだし」
さらりと言ってのけた告げたシオンに、母が目をひんむいた。
「まぁ、シオンったら! 相手は仮にも未来の国王陛下と言われているフェリクス殿下なのよっ? いくら事件の折に、気安く接していただいたからといって……」
息子の無礼な物言いに、母が心の底からのため息をついた。
事件以来、シオンにとってフィーはもはや特別な存在ではなくなっていた。王族であることには変わりないし、助けてもらった恩も感じている。が、それ以上にフィーの人好きのする人となりを知ってしまうと、つい王子であることを忘れてしまう。
(あの人懐っこさがちょっとランソルに似てるんだよな。ついあいつと話してるような気になってしまう)
廃教会でクロイツとガイクスが捕らえられたあと、しばらくは落ち着かない日々が続いた。ふたりのこれまでの悪事の裏付けと本人たちの供述、隣国とのやり取りなど息をつく間もなかったのだ。シオンもまた王宮に聴取のため呼び出され、大忙しだった。
すべての聴取が終わりあとはふたりに下される裁きを待つだけとなった折、フィーが祝いの席をもうけてはどうかと提案した。
『そろそろ君たちともお別れだろうし、その前に皆でパーッとやらないか? 私もそろそろ城下で羽を伸ばしたいところだし。そうだ! 君の屋敷に皆を集めるのはどうかな?』
事件の片もついたとなれば、もはやアグリアがこのまま王都にい続ける必要もない。シオン自身も前線への辞令は取り消され、なぜか強制的に除隊することが決まっていたし。
『まぁそれはかまわないが……。だが王子が屋敷にくるなんて聞いたら家族がどんな反応をするか……』
歓喜と混乱にどよめく両親やルンルミアージュの姿が目に浮かぶようで、シオンはげんなりとした反応を見せた。それが余計にフィーの興味を誘ったらしい。
すぐさまイグバート家で、事件の終わりを祝う宴がもよおされることに決まったのだった。
ようやく花瓶を玄関の一番目を引く場所に置くと決めたらしい母が、強い目でこちらを向いた。
「とにかく! あなたはそろそろアグリアちゃんを迎えに行ってきなさいな。あぁ、それからくれぐれもおかみさんにもよろしく伝えてね。家のかわいい娘がお世話になりましたって」
家の娘、という言い方になんとなくくすぐったさを覚えながらも、こくりとうなずいた。
「あぁ、わかったよ。いってくる。あとは頼んだ」
忙しそうに、けれど楽しげに張り切る母親に苦笑し、シオンは屋敷を出た。
王都は相変わらずのにぎわいだった。生まれてこの方ずっと王都で暮らしてきて、この賑わいにも雑踏にも慣れ親しんでいるはずだった。なのに今となっては、少々うるさ過ぎて耳を覆いたくなる。
なぜか無性に、領地の緑に覆われたのどかな景色が見たくなった。
(すっかり田舎に馴染んだな。俺も。おかしなものだ)
人でごった返す通りをひとり歩きながら、シオンは小さく笑みをこぼした。
まだ昼には間のある時間だというのに、すでに店はそこそこ席が埋まりはじめていた。きょろきょろと店内を見渡し、アグリアの姿を探していると。
「いらっしゃい! 空いてる席に座っ……って、なんだ。あんたかい」
おかみがこちらに気づき、大きな声で厨房に声をかけた。
「アグリアちゃん! お待ちかねの迎えがきたよ。そろそろその辺でおしまいにおし」
おかみの大き過ぎる声に、幾人かの客も何事かと振り向いた。恥ずかしいことこの上ない。
「はーいっ! このお料理を出したら行きます」
厨房から聞こえたアグリアの声に、思わず口元が緩んだ。それをおかみに見られて、慌てて口元を引き結んだ。
少ししてまくり上げていた袖を直しながら姿を現したアグリアを、ぎこちない笑みで迎える。どうにも慣れず、照れ臭い。
「お待たせっ、シオン!」
パタパタと駆け寄ってきたアグリアが、にっこりと笑った。
「そろそろフィーが屋敷に到着するそうだ。もういいか?」
そう問いかければ、アグリアが寂しそうにこくりとうなずいた。
「じゃあ、おかみさん。……本当にお世話になりました。こんなによくしていただいて、なんてお礼を言ったらいいか」
目に薄っすら涙を浮かべ礼を口にしたアグリアを、おかみがぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。
「そんな顔、するんじゃないよ。またすぐに会えるさ。生きてりゃいつだって会えるんだもの。だろ?」
明るい笑みを浮かべパチリと片目をつぶってみせたおかみに、アグリアが涙を拭い大きくうなずいた。
生きていれば会える。それがどんなに恵まれたことか、アグリアも自分もよく知っている。だからこそその言葉が染みた。
「そうね。じゃあ今度くる時は、メリューのパイを持ってくるわ。きっとその頃には王都でもメリューが売られているはずだもの」
希望に目を輝かせ告げたアグリアに、おかみが嬉しそうに笑みで答えた。
「あぁ。楽しみに待ってるよ。皆さんにもよろしく伝えておくれね。それからシオン、あんたしっかりおしよ!」
「は?」
突然鋭い視線を向けられ、何事かと戸惑う。おかみはずいと歩みより、耳元でささやいた。
「アグリアちゃんのこと、くれぐれも頼んだよ? この子はなんでもひとりで頑張って無理をしがちだからね。誰かちゃあんとそばについて、甘やかしてあげる存在が必要なんだ。それができるのは、あんたしかいないだろ? だからしっかりやんなよ」
バシン、と力強く背中を叩かれ、思わず「ぐっ!」と潰れた蛙のような声がもれた。
「あ……あぁ。わかってる……つもりだ」
「つもりじゃなくて、やるんだよ! 男だろ。覚悟を決めな」
「……あぁ」
そんなこと、言われなくてもわかっている。わかってはいるが、心の準備とかそれに応じた状況というのも必要なのだ。わかってほしい。きっとそれも含めて全部、おかみにはお見通しなんだろうが。
「……?」
一体何の話をしているのかと、アグリアがきょとんとこちらを見ていた。その顔が間抜けでなんともかわいらしい。
思わずくすりと笑みがこぼれた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。アグリア」
「はい!」
アグリアがにっこりと笑った。
店を出て、ふたり並んで歩き出した。いまだ王都のにぎわいが物珍しいのか、アグリアはあちらこちらの店先を楽しそうにのぞき込んでは笑みを浮かべている。
ふとアグリアが宝飾品などを扱う店の前で足を止めたのを見て、声をかけた。
「もしも気に入ったものがあるなら、なんでも言ってくれ。それなりに金はある。君には色々と苦労をかけたし。怖い思いも」
アグリアがきょとんと目を瞬き、首を横に振った。
「ううん、いいの。見ているだけで楽しいし、それに私にはこれがあるから」
そう言って、嬉しそうに微笑んで自分の左手の薬指を見やった。
そこに光る自分とお揃いの指輪に、なんとも複雑な気持ちにかられる。
ただ単に、夜会で自分たちの結婚が形ばかりの者であると疑われないようにと買ったものだ。確かにものは悪くないし、売ればそれなりに値がつく。けれどこれはあくまで対外的な理由で買ったもので、アグリアを喜ばせるために買い求めたわけじゃない。
それなのにそんなに嬉しそうな顔をされると、なんとも言えない気持ちになる。
(もっと高価なものを買い求めればよかったか? ……いや、そういうことじゃないな。だったら何か他のものを買い直せば……。しかし結婚指輪を買い直すというのも、おかしいか)
だったら他のものを贈ればいい。ネックレスとかブローチとか、そういうのを。けれど一体何を贈ればアグリアが喜ぶのかなんて、皆目見当もつかなかった。
ぐるぐるとそんなことを考え込んでいたら、アグリアが「ふふふっ」と笑った。
「シオンったら、表情がコロコロ変わっておかしい。何を考えてるの? ふふっ」
どうやら思いが顔に出てしまっていたらしい。もごもごとなんでもない、と答えごまかした。
自分を助けるためにアグリアが王都を飛び出して、もうひと月近くが過ぎていた。
例の事件の後始末に色々と時間がかかったというのもあるし、『エクラン』の店主リールとの打ち合わせやらなんやらに時間がかかったせいもある。それに加え、アグリアが今しばらくおかみの手伝いをしたいと願い出たのだ。あんなにお世話になったのだから、恩返しがしたいと言って。
いかにもアグリアらしいと思った。そして今日がその最後の日だった。




