未来への一歩
翌日アグリアは、シオンの実家である屋敷の前に佇んでいた。
(気が……重い。でもモンバルト先生たちの言うことはもっともだし、もしもシオンの家族に危害が加えられるようなことになったら取り返しがつかない。ここは腹をくくるしか……)
アグリアは、昨日のモンバルトたちとのやり取りを思い返していた。
『お前はクロイツに顔を知られているし、自分に疑いがかかっていると知ればクロイツはきっとお前を盾にしてシオンを揺さぶるはずだ。お前さんだけじゃない。下手をしたらシオンの家族だって危険なんだ』
『……!』
『だからこそその前に何もかもぶちまけて、協力してもらえ。その方が皆安全だ』
モンバルトはそう提案した。
フィーも、その方が護衛しやすいと同調した。焦ったクロイツはきっととんでもない手に出てくるはずだから、と。
『大丈夫だ。お前さんもシオンの家族も、皆シオンを大切に思ってる。気持ちは一緒だろ。わかってくれるさ。だから行ってこい!』
自分だけの問題ではないとなれば、反論の余地などなかった。
シオンの拘束が発端となり自分の悪事が明らかになっては、せっかくの出世もふいになる。しかも相手が第一王子とあっては、さすがにガイクスも敵わない。
焦ったクロイツが、これまで以上に非道な手を使ってシオンを揺さぶる可能性はある。
もしも幼いルンルミアージュや身重のリリアンヌに万が一のことがあっては、取り返しがつかない。
アグリアは屋敷の前で足を止め、覚悟を決めた。
屋敷には、義母とリリアンヌがいた。ルンルミアージュは友人の家にお呼ばれしていていなかっとは、幸いだった。
「アグリアちゃん! どうしたの? さぁ、お入りなさいな」
アグリアはふたりにすべてを話した。
結婚のことも、今シオンが置かれている状況についても何もかもすべて。
ふたりとも黙って最後まで聞いてくれた。
長い沈黙が続いた。
「そう。まさかそんなことが……」
「申し訳……ありません。皆さんをだました上、シオンのことも黙っていて……」
いたたまれず、アグリアはぎゅっと膝の上の両手を固く握りしめた。
義母がゆるゆると頭を振る。
「いいの。アグリアちゃんのせいじゃないわ。いかにもあの子か考えそうなことだもの」
けれど、顔を上げることができない。
シオンとふたりで、皆をだましていたのだ。あんなによくしてくれた人たちを裏切るような真似をしたのは、自分だ。本当のことを話すことだって本当はできたのに。
うつむいたまま身を強張らせていると、義母が優しい声で続けた。
「あなただって、守りたいもののために自分の幸せを後回しにしようとしたのでしょう? もしも自分のことだけ考えていたなら、契約結婚なんてしなかったはずだもの。それだけあなたが領地の未来を大切に思っていたってことよ。それを責めるつもりなんてこれっぽっちもないわ」
リリアンヌもこくりとうなずいた。
「ルンルミアージュったら、今でもよく領地の話をするのよ。あんなに素敵な場所は他にないって。領地の人たちも皆あたたかくて、とびきり素敵なお友だちもできて、また行きたいって。とても嬉しそうに話すの。おかげで私もあなたの領地に行ってみたくてうずうずしてるくらいだわ」
「ルンルミアージュが、そんなことを……?」
領地で見たルンルミアージュの笑顔がよみがえり、胸がふわりとやわらいだ。
「あなただって大切なものを必死で守ろうとしただけだわ。誰もそんなあなたの思いを責めたりしない。だからもうあやまらないで」
ふたりの優しさが心に染みた。
だからこそ真っすぐに今の気持ちを伝えなければ、と思った。
「……でも、本当はそれだけじゃないんです。私がシオンの話に乗った理由」
「……?」
「本当は、私……」
契約結婚の話を聞いた時、ちょうどいいと思った。これなら愛も幸せも必要ない。傷つかずに済むって。
本当は結婚なんてしなくてもよかった。誰かを愛して幸せになったところでいつか必ず別れがやってくる。いつか訪れるその悲しみを思うと、結婚するのが怖かった。幸せになるのも。
だからシオンの話に乗ったのだ。愛のない契約で結ばれた結婚なら、余計な苦しみを抱えずに領地の未来を守ることができるし、父だって表面的には納得してくれるだろうと思ったから。
周囲の人の思いなんて、考えてもいなかった。浅はかだった。
「でも……今は」
くっと顔を上げ、義母とリリアンヌの顔を真っすぐに見た。
「……はじめは、契約が終わるまで滞りなくやり過ごせばいいと思ってました。でもシオンに会って一緒に過ごすうちに、私は……。シオンのことが好きになったんです。このままずっと、シオンと穏やかに時を重ねていけたらって」
離縁前提の結婚だった。でも今は、シオンとの未来を思い描いている自分がいる。
あの領地で、シオンとともに人生を重ねていきたい。たとえその先に、永遠の別れと耐え難い大きな悲しみが待ち受けているとしても。
「幸せになることも……誰かを心から愛することも怖かった。もうあんな心が千切れるような悲しい思いはしたくないって、そう思ってたんです。父の震える背中を思い出すと、今も胸が痛くてたまらないんです。でも……」
シオンが教えてくれた。あの穏やかな眼差しと微笑みを見ていると、心が深く満たされるのがわかる。ずっとこんなあたたかなものを欲していたんだと思い知らされるくらいに。
「アグリアちゃん……」
「だから私、どうしてもシオンを死なせたくないんです。シオンに、いつまでも悲しい過去に縛られて苦しんでほしくない。そのために王都にきたんです! シオンを守るために、……シオンともう一度はじめからやり直すために」
義母がじっとこちらを見つめていた。その目が薄っすらとにじみはじめる。
「……ありがとう。アグリアちゃん」
義母の震える声が部屋に落ちた。
「あの子は幸せね。はじまりがどんなであろうと、あの子にとってあなたとの出会いは必然だったと思うわ」
義母の言葉に、リリアンヌも微笑みを浮かべうなずいた。
「そうとなったら、善は急げね!」
義母はにっこり微笑むと、凛とした声で使用人を呼びつけた。
「はい、大奥様。ご用でしょうか?」
歩み出た使用人に、義母は凛とした態度で言いつけた。
「すぐにアグリアちゃんがお世話になっている店へ行って、荷物を受け取ってきてちょうだい! アグリアちゃんのお部屋も急いで整えてね。今日からアグリアちゃんもここで暮らすから」
「えっ? あ、あの……でも私がここにいたら皆さんにも危険が……!」
モンバルトとフィーはああ言ったけど、やっぱり自分がここに滞在するのは危険だ。シオンに言うことを聞かせるための格好の囮になるのは、間違いなく妻である自分だ。クロイツは契約上の妻だなんて知らないわけだし。
だからアグリアは、どこか別の宿でも取るつもりだった。皆にはフィーが護衛をつけてくれるだろうし。
けれど義母は頑として受け入れなかった。
「何を言ってるの! あなたが危険にさらされるかもしれないのを、放っておくはずがないでしょう」
義母の強い眼差しに、ぐっと言葉をのみ込んだ。
「契約だろうと何だろうと、シオンをそこまで大切に思ってくれているあなたは私の娘なの。娘ひとりを矢面に立たせるような真似、させるもんですか!」
リリアンヌも笑みを浮かべ、こくりとうなずいた。
体中をあたたかなものが巡っていく。何か大きくやわらかなもので包まれているような、そんな気分だった。
「……お義母様」
義母がにっこりと優しく微笑む。
「もう何も心配いらないわ。皆あなたと気持ちは一緒よ。皆でシオンを助け出しましょう! ……まぁいざとなったら、リリアンヌとルンルミアージュだけは安全な場所に移してもらうけれど」
義母が優しい眼差しで、リリアンヌの大きくなったお腹を見下ろした。
リリアンヌがそれに答える。
「大丈夫よ。アグリアちゃん。お腹の子とルンルミアージュのことは私とジグルドに任せて、あなてはシオンのために動いて。母は……女は強いのよ!」
ふたりの言葉に、頬を熱いものが伝い落ちていく。
「ありがとう……ござい……ます。お義母様……、リリアンヌさん」
張り詰めていた糸が緩み、憂いから解放されて、心がやわらかく解けていく。
「ありがとう……ございます。本当に……私……」
義母とリリアンヌの手が、そっと自分のそれに重なった。
とめどなくこぼれ落ちる熱い雫が、ぽとりぽとりとふたりの手も濡らしていく。
「頑張りましょうね、アグリアちゃん。シオンのためにも、そのランソルさんって人のためにも。そしてあなたとシオンの新しい未来のためにも、ね」
「はい……。はい……!」
きっとうまくいく。シオンを助け出し、過去の悪事を明らかにしてきっと悲しい呪縛からも自由になれる。その時はきっともうそこまできている。
すとん、とそう思えた。




