それぞれの決意 2
人がひとりいなくなっただけで、こんなにも屋敷の空気というものは変わるものだろうか。いや、この感じはよく知っている。母が亡くなった時と同じだ。
(まるで屋敷から光が消えてしまったみたい。静かではじめかな何もなかったような)
アグリアはたまらず両手で顔を覆った。
がらんとした部屋は、すっかり人の熱を失っていた。つい少し前までここにシオンがいたはずなのに。それがなんともやるせなかった。
「……大丈夫かい。アグリア」
父の声に、肩がぴくりと反応した。シオンの部屋を片付けてくると行ったきり戻らないのを心配して、様子を見にきてくれたのだろう。
「……ひと月なんて、過ぎてしまえばあっという間だな」
寂しさのにじむ父の言葉にこくり、とうなずいた。
シオンはもう帰ってこない。父もそれをわかっている。それが命を落とすという意味なのか、生きていても足を向けないという意味なのかは別として。
あのあと、シオンは先々のことを色々と言い残していった。離縁が成立次第まとまった額のお金を渡せるよう手配しておくことや、養子縁組を斡旋してくれる紹介先を探してくれること。離縁届は契約期間が満了したらいつでも出してくれればいいことなどを。
けれど自分の未来のことは何も言わなかった。それはきっと、もうシオンが生きることをあきらめたからだ。
シオンの耳には自分の言葉など何も届かない。そう気づいた時、アグリアはあることを決意した。
すう、と息を吐き、口を開いた。
「お父様、大事な話があるの」
静かな声で父に告げた。
「……私、王都に行く。シオンを追いかけるつもりよ」
「……」
シオンは前線に送られる前に、王都にある軍本部に呼び出されていると言っていた。前線に送られるのは、またしばらく先であるらしい。
「きっと迷惑がるだろうけど、このままシオンを死なせるわけにはいかないの。こんな別れ方、絶対に嫌。だからシオンに会いに行く。会って、もう一度話をしたいの」
「……シオンの気持ちは変わらないかもしれないよ。それでも行くのかい」
父の問いかけに、アグリアはこくりとうなずいた。
「シオンは何かを抱えてる。それはきっとクロイツという人に関わりがあるはずなの。それとランソルという人も。そのふたりとシオンの間で何かがあったんだと思う。それを調べてみるつもり」
シオンは迷惑がるだろう。勝手に過去を掘り返すような真似をして、怒るかもしれない。それでもこのまま離れ離れになるよりはいい。嫌われても生きていてほしい。少なくとも自ら死に向かうような生き方だけはしてほしくない。
「……そうか。わかった。お前ならそう言うと思っていたよ。アグリア」
「お父様……」
父のあたたかな手が頭をぽんぽんとなでた。まるで小さな子をなだめるようなその手つきに、アグリアの顔が歪んだ。
「ごめんなさい……。心配ばかり、勝手なことばかりして……」
声が震えた。
契約結婚のことだって父にろくに相談もなく決めた。領地のためと言えば、父が反対しないことはわかっていたから。でも不安を感じなかったはずはない。心配しなかったはずはないのだ。それをあえて無視した。その上父をひとり領地に残し王都に行くなんて――。
けれど、父の反応は思っていたのとは少し違っていた。
「……アグリア、いつかお前にあやまらなければと思っていた。お前が結婚に後ろ向きになったのは、俺のせいだな。俺がお前の悲しみや寂しさをちゃんと受け止めてやれなかったから、お前は幸せになることにすっかり臆病になってしまった。結婚を恐れるくらいにね」
「……?」
はっと顔を上げれば、父が悲しげに自分を見下ろしていた。
「あいつが……マーガレットが死んだあと、俺は自分のことで必死だった。もうあいつがいなくなったんだって事実を受け入れることがなかなかできなくて、領地の仕事に打ち込むことで目の前の寂しさや孤独から目を背けた。その間、お前はたったひとりで悲しみの中にいたのに……」
「……そんなこと」
ない、とは言えなかった。記憶の中の父は、いつも背を向けていた。もちろん一通りの世話は慣れない手つきながら懸命にしてくれていた。けれどいつもその目は遠くを見ていた。目の前に娘がいるのに、心は遠くにあった。
「まだ幼いお前がどんなに寂しい思いをしているか、わかっていたはずなのに俺は……。気が付けばお前は何もかもひとりでこなせるようになってた。家事も、料理も……洗濯だって、小さな手でマーガレットがしていたように懸命にこなしてくれていた」
あの頃、入れ替わり立ち替わり領地の人たちが屋敷に出入りして、あれこれと日常のことを助けてくれていた。けれど皆には皆の暮らしがある。いつまでも甘えているわけにはいかなかった。
だから必死に覚えた。元気だった頃に母がしていたのを思い出しながら、ひとつひとつ覚えたのだ。
「あの頃は……そうするしかなかったの。私もお父様も。必死だったんだもの……。仕方ないわ」
父を恨んでなんていない。あんなに愛し合っていた伴侶を亡くしたら、悲しみに打ちひしがれるのは当然だ。いくら娘を愛していても、いつも通り接するなんて無理に決まっている。それでも父はきちんと面倒を見てくれたし、自分ができるようになるまでは料理だって髪を結ぶのだってしてくれていた。
「だが、無理をしていただろう。本当は泣きわめいて甘えたいのを我慢していたはずだ」
「それは……」
言葉に詰まった。そんな自分を見て、父が自嘲した。
「わかっていた。どうにかお前を支えて癒してやらないとと思いながらも、どうすればいいのかわからなくてな……。あいつのいないこの屋敷で息をするのさえ苦しくて、お前を守ってやれなかった。本当にすまない……」
「……」
すべてわかっていた。父にそんな余裕がないことくらい、それほどまでに母を愛していたからこそ目を自分に向ける余力がなかったのだ。だから誰かを愛することが怖くなった。幸せになることが怖かった。
シオンとの契約結婚の話を聞いた時、それならこの先苦しまずに済むと思った。愛で結ばれた結婚でないのなら、たった五年だけの関係ならきっと別れも辛くないだろうと思ったから。でも現実は――。
「私が弱かっただけ……。ただ勝手に自分の気持ちを抑え込んで、臆病になっていただけ。お父様にぶつかればよかったのよ。泣いてわめいてしがみついて、寂しい、助けてって言えばよかった。きっとそうしていたら、お父様はちゃんと私を見てくれた。それはわかっているの……。でもできなかった」
父を助けたいと思ったのも本当だ。苦しむ父を助けたい、支えたいと思ったから必死に頑張ったのだ。家のことも、領主の仕事だって懸命に覚えた。いつか父と母が愛したこの領地を守れるように。
父の手がそっと頬をなでた。知らず頬が濡れていた。泣くつもりなんてなかったのに、勝手に涙が次から次へとこぼれ落ちる。
これは一体何の涙だろう。子どもの時に流せなかった悲しみの涙だろうか。それともシオンがいなくなった喪失感からだろうか。
「もう何も我慢しなくていいんだ、アグリア。自分の幸せだけ考えて、好きに生きなさい。領地のためだとか、あとを継がないととかそんなことは一切考えなくていい。それは俺がどうにかする。だからお前はただ自分の心だけを見つめて動いていいんだよ」
父のやわらかな声が心に染みた。
「……うん」
心の奥底にしまい込んだまま溶けずにいた悲しみが、今ようやくふわりと溶けだした気がした。まるで春の雪解け水のように。
翌朝大きな旅行鞄を手に玄関を出れば、モンバルトが待ち構えていた。
「アグリア、俺も王都に行く」
「モンバルト先生……!」
いつになく真剣な顔で、モンバルトが背後に立つログを見やった。
「アグリアのことなら心配するな。俺の昔の知り合いが軍本部近くで料理屋をやっていてな。そこでアグリアを下宿させてくれると言ってる。そこなら何の心配もいらん。シオンのために色々動くにも、いい立地だしな」
父がほっと安堵の息をついた。
「あぁ、頼む。モンバルト」
モンバルトもシオンのことが気がかりだったのだ。色々と事情を知っているようだし、モンバルトが一緒なら百人力だ。
こくりとうなずけば、待たせていた馬車の馬がいなないた。
「じゃあ……、いってきます。お父様」
「あぁ。いっておいで、アグリア。領地のことは何も心配いらん。だが、くれぐれも無茶だけはしないようにな。お前は夢中になると向こう見ずなところがあるから。そういうところはマーガレット似だな」
父の顔に切なげな色がよぎった。
「はい。……何ができるかはわからないけど、やれるだけやってみる」
両腕を広げた父の懐にすっぽり包まれ、匂いを吸い込んだ。まるで子どもの頃に帰ったみたいに。
そしてモンバルトとともに、王都へと出発したのだった。




