それぞれの決意 1
その後アグリアはどうにか平静を装い、夕食を終えた。
シオンの様子はいつもと変わった様子はない。その穏やかな静けさが、なんとも不安を呼ぶ。
なんとも陰鬱な気分で皿を洗っていると、シオンの声がした。
「アグリア、ちょっといいか? 君に伝えたいことがあるんだ」
ぎくりと体を強張らせ、それでも静かにうなずいた。
庭に出て、シオンとふたり椅子に腰かけた。
ホゥホゥ、ホゥホゥ。
遠くで梟が鳴いている。そよそよと風が木々の葉を揺らす音も。ついこの間まであんなに穏やかでゆったりとした空気に満ちていた庭が、今日はなんだかぐんと肌寒く感じる。
「……話ってなぁに? シオン」
できることならば耳を塞ぎたい気持ちを押し隠し、たずねた。
シオンはしばし押し黙り、小さく息を吐き出した。
「君に伝えなければならないことがある。……戦地に戻ることになった。配置に着くのはもう少し先だが、先に軍部に呼び出されている。だから、来週には領地を発つ」
シオンは、前線に行くとは言わなかった。言う必要がないからなのか、それとも反対されると思ったのか。
「もし……もしも私が行かないでって言ったらどうする?」
シオンの目が見開かれた。
「それは……できない。すまない。アグリア」
当然そう言うとわかっていた。わかっていたけれど、泣きたくなった。
自分たちを縛る――いや、つなぐものは契約だけだ。そうわかってはいても、これまで積み上げてきた時間がガラガラと崩れ落ちていくようで胸が潰れそうになる。
出会ってすぐにうっかり『離婚はいつにしますか?』なんて言い出したのは、自分の方だった。なんという皮肉だろう。今はその言葉をシオンから聞きたくなくてたまらない。でもはじめから離縁は決まっていたのだ。そういう契約だったのだから。
シオンはこの領地から永遠に去り、二度と会うことはない。呼び出したのは、別れを告げるためだろうとわかっていた。
ふたり並んで庭に座り、領地で採れた果実でできた果実酒を飲む。メリューの旬にはパイを焼いて、それをシオンが嬉しそうに頬張る。そんな日常がこの先も続くなんて、あるはずなかったのに。
シオンが口を開いた。
「本当はここにくるべきじゃなかったんだ。君に会うことなく、契約を終わらせるつもりだった……。なのに君の好意に甘えてずるずる過ごしてしまった。すまない、アグリア」
「なぜシオンがあやまるの? けがをしたのも休暇を取るよう言われたのも、シオンのせいじゃないわ。それに……」
きっとどんなに引き止めてもシオンはここを去るつもりだろう。そしてきっともう帰ってこない。こんなふうに気持ちを伝えられるのも最後かもしれない、ということだ。
「それに私は、あなたと結婚したこともここで一緒に過ごしたことも後悔なんてしてない」
真っすぐにシオンを見つめ、続けた。
「もちろん最初は、互いの利に適っているからってだけだった。でも今は……あなたと夫婦になれてよかったって心から思ってる。たとえ形だけの夫婦でも、あなたと一緒に過ごした時間は私にとってとても大切でかけがえのないものだった。いえ、きっと必要だったの」
やっとわかった。どうして自分がこんなにも結婚に、幸せになることに後ろ向きだったのか。結婚相手なんて誰でもいい。領地さえ守れれば他はどうだっていい。そんな投げやりなあきらめが、いつの間にか自分の本当の思いを覆い隠してしまっていた。
それに気づかせてくれたのは、シオンだ。
「あなたは後悔しているの? 私と結婚したこと。この領地で同じ時間を過ごしてきたこと」
どうか少しだけでいい。シオンも同じ思いでいてくれたのなら嬉しい。
「俺は……。俺には資格がないんだ。こんなあたたかな場所にいる資格なんてない。俺にはふさわしくない。薄汚れた手で、君に触れるべきじゃなかった。ましてあんなことをするべきじゃ……」
あんなこと、というのが昨夜の出来事を指しているのはすぐにわかった。シオンは昨夜のことを後悔しているのだ。あんなことをしなければよかったと。
走る痛みに、思わずぎゅっと胸を手で押さえつけた。
「……」
「でも、心から感謝してる。君にもログにも、この領地にも。今になってこんなに穏やかであたたかい時間を味わえるなんて思ってなかった。だから……もう十分なんだ。これ以上ここにいたら」
シオンは思いつめた顔で言葉を切った。
「これ以上いたら、どうだっていうの?」
シオンはしばし黙り込み、ふっと自嘲した。
「……本当にすまない。でもこれ以上はここにいるわけにはいかないんだ。許してくれ、アグリア」
シオンのやわらかな目がすっとこちらを向いた。
「どうか君は幸せになってくれ、アグリア。きっと君なら、本当の愛で結ばれた結婚だってできる。こんな偽物の結婚じゃなく、本当の。だから早く俺のことは忘れて、幸せになってほしい。君ならきっといい母親にだってなれる。この領地だって必ず守っていけるはずだ。俺はそう信じてる」
シオンの目の奥に、ゆらりと暗い熱が揺れた気がした。絶望したようなあきらめと心からの願いが交じり合った、暗い熱が。
言葉が口からぽろりとこぼれ落ちた。
「……死ぬつもりなの? シオン」
その瞬間、シオンの目が大きく見開かれた。
「前線へ行くんでしょう? そして死ぬつもりなのね」
「なぜ君がそれを……?」
「本当はずっとそう思っていたんじゃない? いつ死んでもかまわないって。そう思っていたから国にも帰らず、まるで自分の命を削るようにしてずっと戦地にいたんでしょう」
「……」
答えがないのが、答えだった。
一体何がシオンをそこまで思いつめさせているのかは、わからない。きっと王都の町中で誰かを見間違えたのも、悪夢を見てうなされていたことと関係があるのだろう。
「タリオンさんから届いた手紙って、そのことでしょう。モンバルト先生と話しているの、聞いてしまったの。ごめんなさい……」
なるほどな、とつぶやくと、シオンは観念したようにゆるく頭を振った。
「……あぁ、そうだ。前線へ行く。命令だからな。だが別に死ぬつもりで行くわけじゃない。結果、そうなったとしてもそれは運命みたいなもので……」
「ふざけないで! 何が運命よっ。シオンはずっとそうなることを望んでいたんでしょう⁉ 私との結婚だって、自分が死んで私が未亡人になればすぐにでも領主代行になれるなんて思っていたんじゃないの⁉ そんなこと、私は一度だって望んだことないのに!」
五年の間に養子縁組をきめることができれば、それだけでいい。そう思っていた。確かに子がいない状態で未亡人になれば、養子が決まっていなくても妻が領主代行として領地を治める資格が当面手に入る。離縁の場合は三年間だけど、未亡人ならもっと長くそれが認められるのだ。
でもたとえ形だけとは言え、一度は夫婦になった相手が死んでよかったなんて思うはずがない。いくらなんでもそこまで非情じゃない。
「君がそんなことを望む人じゃないことはわかっている。すまない。そんなつもりで言ったわけでは……」
「あやまってほしいわけじゃないわ! なんでさっきからあやまるの? ただ私は……」
感情に任せ、シオンに詰め寄った。
「ただ私はあなたに死んでほしくないの! お願いだから、ここにいてっ。あなたに行ってほしくないの。死なないで……、ここにいてよ。シオン……」
胸の奥に抑え込んでいた言葉と一緒に、涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「私は……私はあなたを……。だから……ここに……」
流れ出した思いも雫も、もう留まることなく次から次へとこぼれ落ち頬を濡らしていく。
「ここにいて。お願い……、ずっとここにいて。シオン。あなたを……失いたくないの」
母を失ってから、ずっと怖かった。恋をすることも、幸せを望むことも、何もかもが時とともに変わっていくことも。父が倒れて余計に怖くなった。いつの日か父もいなくなってしまう。この穏やかな暮らしが、姿を変えていってしまう。そうなったらこの屋敷で自分はひとりぼっちだ。
母を失った悲しみからも、いつの日か訪れる別れからも目を背け、せめて領地さえ守れればいい。その一心で領地の未来を守ることだけを考えて励んできたのだ。
でも今は違う。シオンと出会って、自分の中にある本当の願いに気づいてしまった。
「行かないで……。私を置いて行かないで。お願い。そばにいて、シオン。あなたを死なせたくない」
「……すまない、アグリア。身勝手を許してくれ……」
シオンは泣きそうな声でそう告げると、去っていった。
気配の消えた庭で、ただひとり立ち尽くしていた。願いは届かない。シオンは行ってしまう。そしてきっともう二度と会えない。手のひらからこぼれ落ちていく束の間の幸せに、アグリアは声もなく泣き続けた。
シオンが屋敷を去ったのは、二日後のことだった。




