届いた手紙 2
アグリアは大いに悩んでいた。
部屋の中を落ち着きなく行ったりきたりしながら、時折低くうめいては頭を抱え込む。
「うー……、なんであんなことしちゃったんだろう。自分が信じられない……」
唇に今も残るあたたかな感触を思い出し、何度目か知れない悶絶を繰り返す。
うっかり注がれるまま、酒をのんでしまったのがいけなかった。ああして父とモンバルト、そこにシオンがいる空間がなんだかとても心地よくて、つい調子に乗ってしまった。
特別酔っていた自覚もないけれど、あんな大それたことをしてしまったのだから相当に酔っていたに違いない。
一生異性への恋も愛も知らないまま生きていくんだろうと思っていた。母を亡くして悲嘆に暮れている父の姿を目の当たりにしたら、誰かと幸せを築くことが怖くなった。母を亡くした悲しさとあとに残される孤独を知ってしまったら、余計に。
なら誰とも愛のある結婚なんてしなければいい。もちろん家族としての情はあったとしても、恋とか真実の愛とかはなくていい。そうすればきっと悲しみや寂しさも最小限で済むはずだ。そう思っていたはずなのに。
「なんであんなこと……してしまったのかしら。そりゃあここのところシオンといるとなんだかおかしな感じだったけど、だからってあんな……」
もう何度繰り返したかわからない問いを自分の心に投げかけた。けれど答えは出ない。
ただひとつだけはっきりしていることがあった。
「はぁ……。どんな顔をして会えばいいの。もうまともにシオンの顔見れないわ」
ついさっき屋敷に届いたシオン宛ての手紙を渡しに行った時だって、視線を一度も上げることなくさっと置いて退散したくらいだ。
(そう言えば差出人、タリオンだったわ。この前夜会で会った……)
久しぶりに再会したシオンにまだ話したいことがあるのだろう。別におかしなことじゃない。そうは思いながらも、あの夜会ったクロイツ・シュクルゼンという男の影がちらつく。
(気が昂っているのかしら。ただの友だちからの手紙にこんなことを考えちゃうなんて)
アグリアはちらと時計に目をやり、大きくため息を吐き出した。
顔を合わせ辛いからと言って、いつまでも部屋に閉じこもっているわけにはいかない。色々とやらねばならないことは山積みなのだ。
頬をぱちんと両手で叩き、しっかりしろと自分を鼓舞し部屋を出る。
日常の決まりきった仕事というのは、いいものだ。やるべきことは体にしっかり沁みついているし、自然に体も動く。気がつけば、昨日の記憶が頭から消え去っていた。
濡れた手を拭いながら台所を出る。そろそろ洗濯物を取り込もう、と裏庭に出たその時だった。
「大変だっ! 納屋が……外れにある納屋が燃えてるぞっ」
慌てて声のした方を見れば、空に煙がたなびいているのが見えた。
「大変っ! 火事だわ」
急ぎ駆け出したと同時に、シオンが屋敷から飛び出してきた。
「何の騒ぎだ⁉」
「それが、どこかで火事が起きたみたいなのっ! 私はお父様に知らせに行くわ。シオン、先に向かってもらえる?」
「わかった!」
言い終わらぬうちにシオンは飛び出していった。
方角からしてあの辺にあるのは、今は使われていない納屋くらいしかない。民家とは離れているし風も穏やかだから火が広がる恐れもそうはないだろう。となれば他に大きな被害は出ていないはずだ。けれどなんだかひどく胸騒ぎがしていた。
急ぎ父と現場へと向かってみれば、すでにシオンと領民とで火は消し止められていた。
予想通り、けが人もおらず使われていない納屋が半分燃え落ちているだけだった。
「火の気なんてなかったはずだ。どうして火事なんて……」
険しい顔で父がつぶやく。少し遅れてやってきたモンバルトが現場を見やり、低くうなった。
「こりゃあ……自然に発火したんじゃないな。誰かが火をつけたんだ」
アグリアはぎゅっと両手を握りしめ、ふと崩れかけた納屋のそばにいるシオンに目をやった。
(……? 地面に何かあるのかしら)
シオンは何やら張り詰めた顔をして、じっと地面を凝視していた。その横顔のあまりの鋭さにはっとする。
シオンが立ち上がり、父に告げた。
「……しばらく領内を警戒した方がいいかもしれない。外部から何者かが入り込んだ可能性がある」
そう言って地面を指さした。
「何だと?」
父とモンバルトとが指さした場所を確かめ、顔を見合わせた。父が硬い表情を浮かべつぶやく。
「確かに、この足跡は農民のものではないな。軍人のもの、か」
「あぁ。しかもこれはそこらの兵に支給されるものじゃない。もっと上の軍人が履くもんだ。なぜこんなところに……」
モンバルトがつぶやいた瞬間、シオンが奇妙な動きを見せた。地面を足でかき消すようなその動きに、モンバルトも気が付いたようだった。けれど何も言わず、ただシオンをじっと見つめていたのが妙に気にかかった。
集まっていた領民にざわり、とどよめきが広がる。
使われていない納屋だったからいいものの、これが家や畑だったらとんでもない被害が出ていただろう。けが人だって出ていたかもしれない。皆顔を見合わせ、不安げな表情を浮かべた。
(じゃあその誰かが納屋に火を? でも何のために。納屋なんか燃やしたって何の意味も……)
アグリアは嫌な予感に、ぎゅっと両手を握り合わせた。
その後降り出した雨で、まだ少しくすぶっていた納屋の残り火は完全に消えた。
領民に聞き込んではみたけれど、あやしい人間を見たといった情報は皆無だった。けれど森を抜けて近づけば、人目を忍んで火をつけるくらいわけない。
屋敷に戻ったアグリアは、言い知れぬ不安を感じていた。平穏だったはずの地に、悪いものが忍び込んでいるような不安が。
父はいまだに領地の見回りから戻っていないし、シオンの姿もなぜか見えない。先ほど屋敷にきたはずのモンバルトの姿すらどこにもない。そのことが一層、アグリアを不安に駆り立てていた。
(一体誰が何のために火を? それにあの時のシオンの顔……。すごく怖かった。まるであの時みたいに)
靴跡を見つけた時に見たシオンの顔。あれは、夜会でクロイツという男に対した時とまったく同じだった。
どうにも落ち着かず、ひとまずモンバルトを探すことにした。
(えーと、お天気のいい日は大体この部屋で居眠りしてるんだけど……)
中庭に面した小部屋に近づいた、その時だった。中から聞こえてきた物音に、アグリアははっと立ち止まった。
「……だろう。お前が前線……だ。なぜ……」
「覚悟は……る。それにアグリ……お互い……だ」
息を潜め、耳を澄ます。シオンとモンバルトの声だった。
「しかしさっきの……は間違……、クロイ……ろう!」
ごくりと息をのんだ。
今、クロイツの名前が聞こえた気がする。
クロイツ・シュクルゼン。シオンの元上官だった男だ。それに前線という言葉も聞こえたような。
(前線? 前線ってまさか……?)
瞬間、はっとした。
一気に血の気が引いていく。
モンバルトの声は、いつになく余裕なく荒々しかった。いつも飄々とした態度のモンバルトがあんなふうに声を荒げるのを、聞いたことがないくらいに。
なおもふたりの話は続く。
「だからっ……んな辞令、軍を辞めれば……済む……が! むざむざ……死ぬ気……っ!」
今度はモンバルトの声がはっきりと聞こえた。感情が昂るあまり、声を抑えられなかったのだろう。
間違いない。シオンに前線への辞令が出たのだ。
(そんな……どうしてシオンが前線に。タリオンから届いた手紙は、まさかそのことを知らせるもの……。でもそれとクロイツに何の関係が?)
ぐるぐると頭の中を疑問と不安とがかけ巡る。
「もう決めた……だ」
感情を抑え込んだ低い声で、シオンが答えた。
手が震えていた。シオンは辞令に従い、前線へ行くつもりなのだ。モンバルトがこんなにも強く引き止めているにも関わらず、頑なに前線へと。その意味するものは死だ。いくらのどかな地で暮らすアグリアにも、そのくらいはわかる。
モンバルトがいつか言っていた言葉を思い出した。シオンはいつ死んでもいいと思っている。だからこそ家族からも離れ、王都にも帰らず戦地にいるのだと。
その言葉通りなのだとしたら、シオンは――。
(そんなの……そんなの絶対にだめ。絶対に嫌よ。シオンが死ぬなんて、そんなこと……)
ガクガクと膝が震える。全身から力が抜けてしまいそうだった。シオンがこの世から消えてしまう。そう考えただけでたまらない気持ちになる。
その瞬間、自分の胸にいつしか大きく育っていた未知の感情が愛だとか恋と呼ばれるものだということに、アグリアは気が付いたのだった。




