3 仮面屋
久しぶりに自分の瞳で見た世界は、情報に塗れていて、でも静かだった。普段は仮面が情報を取捨選択し、目に入る情報を最低限に絞ってくれるため、意識に上らなかったたくさんのものが、夜野の視界で存在を主張していた。夜野は今日も使い捨てのマスクを着けていた。マスクは自分を半透明にするだけで、仮面の目にはめ込まれたパネルのように透明な人をアイコンとして認識したり、メッセージを送受信する機能は無いため、夜野が相手から認識されることはあっても、透明な人の存在を夜野が認識することはできなかった。
都心からやや離れた閑静なベッドタウンとはいえ、朝の通りには出勤を急ぐたくさんの人が往来しているはずだったが、夜野の目に映るのは、仮面をしていない人や小さな子供のごく少ない姿だけだった。
透明な人の存在を認識したり、メッセージのやりとりができる、こちらもマスクのように場当たり的な眼鏡型のデバイスを臨時で買わないといけない、と夜野は思った。今日は会社を休んでいるが、仕事が始まれば周りは透明な人だらけなのだから、眼鏡は必須だった。
それに、と頭の中で夜野は付け足す。眼鏡があれば目に入る情報量が多少減るだろう。今はもう誰も見なくなった、イチョウの街路樹が黄色く色づいており、目にまぶしくて仕方なかった。十月に入り、誰にも認識されない場所で、世界は秋になっていた。
その仮面屋は、静かな古い住宅街の、忘れられたような小さな公園の隣にたたずんでいた。レンガ造りの二階建てで、生垣に囲まれた小さな庭がある。小さな庭にはさまざまな種類の植物が植えられており、飛び石の先の入口のポーチの柱には蔦が巻いていた。ここが仮面屋であるという事前情報がなければそのまま通り過ぎてしまうくらい、少し緑が多い一般家庭のような見た目をしている。玄関マットの横にいくつもの鉢植えがあり、花の匂いがしていた。窓には少し緑がかった霞ガラスがはめられており、店内の様子は見えなかった。ドアのフックにつるされた古い木の板に文字が書いてあり、かろうじてそれはOPENと書かれているのが読めた。
「いらっしゃいませ」
恐る恐るドアを開けると、カランと澄んだ音でドアベルが鳴った。明るい外から室内に入ったので、目が慣れるまでに数秒を要した。店内は、花のような特徴的な香りと、木工細工の工房のような木と溶剤の匂いが混じりあって、そういうお香を焚いているようにも思えた。目が慣れるとそこには、カフェかバーに置いてあるような重厚感のある木目のカウンターがあり、客が座る背の高い、赤い革張りの丸椅子が四脚並べられていた。天井からは枯れた花の死体が束ねられていくつも釣り下がっていた。壁際に置かれた棚に、精巧な造りの仮面がたくさん飾ってあるのを見て、やっと夜野はここが仮面屋であることを確信するに至った。
「新規作成ですか?」
カウンターの向こうには、少しサイズの大きい革のエプロンを身に着けた少年がいた。背格好からして十歳くらいだろうか。少年は夜野と目が合うと、その豊かな表情筋を動かしてにこりと笑いかけた。少年の目じりがきゅっと細くなってつやのある頬が自然に持ち上がるのを見て、夜野は反射的に目を逸らした。
「いえ、修理を。でも、新規作成の方が早ければ新規作成でも構いません」
夜野は店を見渡す。家族経営らしいから、二階がおそらく住居となっていて、この少年はこの家の住人として店番を言いつけられているのだろう。
「ネットで見て来たのですが、職人の方はいらっしゃいますか?できるだけ早く、ちゃんと透明になれる仮面が欲しいのです」
少年の目は逡巡するように泳いだ。
「おかあさ……いえ、うちの職人は今、この店にはいません。その間、僕がこの店の店主として仕事をしています」
「いつ戻られますか?予約は今することはできますか?」
少年は首を振った。
「職人はある事情で一時的にすべての仕事を受け付けていません。本当はこの先一か月間予約でいっぱいだったのですが、それも断らざるを得なくなりました」
「ではその事情が落ち着いた後の一か月先に予約を入れることはできますか?」
少年は俯いて、それから妙に大人びた口調で続けた。
「それもできかねます。一か月というのはあくまで見通しで、一か月後に本当に仕事に戻るかどうかはなんとも言えません」
夜野は指先でこめかみを揉んだ。やはり訳ありだったのだ。考えてみればこのご時世、仮面が壊れてその翌日に修理に取り掛かってもらえるなどという幸運なことが起きるはずがなかった。他の店に行ってもおそらく数か月は待つはめになるだろう。
「……わかりました。これで失礼します。お邪魔しました」
夜野は踵を返した。見通しの立たないこの店にこれ以上希望をかけるつもりはなかった。こうなればもう、あまり豊かではない財布をひっくり返す覚悟で、特急料金で解決してくれる店を探す他なさそうだ。
「待ってください!」
少年の声が呼び止める。
「僕も、僕も職人です。見習い中ではありますが、お客様を満足させる仮面を創ることができる自信があります。僕なら、明日からでもあなたの仮面をお創りできます」
「あなたが?」
夜野は少年の姿を頭のてっぺんから、カウンターに隠れてしまう胸の上までを眺めた。どう見ても普通の小学生だった。
「私は年齢で人の能力を評価する質ではありませんが、あなたはいささか若すぎるのでは?もちろん仕事の早さは重要ですが、それ以上に、私は一流の職人を探しています。提供の早さだけ求めるならあなたにお願いしたかもしれませんが、私は完璧な透明を求めているのです。そこらへんのありふれた紛い物の半透明ではなく、存在が空気みたいになるくらいの透明を」
「僕にどうかお任せください。あの棚の一番上の段に飾られた仮面は全て僕が創ったものです。決して失望させません」
少年は食い下がった。たしかに、少年が指さす棚に並べられた仮面は、どれも着けた人を透明にする道具とは思えないほどに、細かい意匠が施され、細部まで美しく輝いて、まるで芸術品のように見えた。仮面とは不思議なもので、外側の彫刻や飾りなどの見た目が、細かければ細かいほどその人に合った仮面になる。仮面が美しさを増せば増すほど、被るその人は透明になっていくのだった。
夜野の目を引いたのは、少年の手だった。幼い顔つきに似合わず、その手の皮は年齢不相応に厚く、短く切りそろえられた深爪と無数の小さな傷が、その言葉が嘘ではないことを証明していた。
「……明日から修理か制作に着手してくれるのですか?」
少年は頷いた。
「二週間ほどお時間いただきます」
「わかりました。それならあなたにお願いしたいと思います。職人に対して失礼な念押しかもしれませんが、私が完璧な透明を目指していることを忘れないでください」
「もちろんです。あなたを完璧な透明にしてみせます」
少年は目じりを細める、あの笑顔をした。




