4 仕事
夜野は味噌汁の最後の一口を飲み干し、汁碗を置いた。焼き鮭と卵焼き、ほうれん草のお浸し、白米と豆腐の味噌汁が夜野の朝食だった。鮭やほうれん草は季節やスーパーの値段によって別の品に変わることがあっても、料理の品数とクオリティに大きな変動はなかった。平日休日関係なく、朝早く起き、前日に買っておいた食材で手際よく調理をし、一人暮らしなので誰に見られるでもない盛り付けを丁寧にしてから席に着き、手を合わせるのだった。大学で上京し、一人暮らしを始めてからというもの、絶えることなく繰り返しすぎて作業のようになっている朝のルーティーンが夜野は好きだった。自分の行為すら無意識下に置くこと、誰にも見られない癖に細部に自分だけのルールがあることは、自分が透明になったような気がして心地よかった。
テーブルの端に置かれたものに目をやる。壊れた自分の仮面だった。夜野が高校生のころは仮面が流行りたての時期で、経済的理由などから仮面を買ってもらえない人や、自分に合わない仮面をつけてなんとかやり過ごしている人もいた。だんだん透明化時代が迫ってきて、夜野が高校三年生になるころにはほとんどの人が仮面をつけて生活していた。夜野も当時はデパートで買って来た量産品の安い仮面を被っていた。能面のように真っ白で、特に装飾のないシンプルな仮面だった。自分に合っていない仮面は、その人をあまり透明にはしない。大学生になった時、生まれて初めてのバイトをして、夜野は新しい仮面を買った。東京の名のある仮面職人のもとを訪ねて、自分専用の仮面を創ってもらった。細かい溝がたくさん彫られていて、触ってみるとそれが確かに複雑な幾何学的な模様を描いていることがわかる。色はほとんど白で、目の穴の周りだけに薄っすらと水色が塗られた。
夜野は自分によく馴染んだそれを、社会人になっても使い続けていた。今、机に置かれたそれは、目の穴から頬にかけて大きく亀裂が入り、片目のパネルが割れていた。
夜野は食器を洗い、シンク横に干すと、使い捨てマスクと昨日買ってきた眼鏡を着けた。気に入っていた花の飾りがついたバレッタは結局壊れていたので、いつもとは違うシンプルなバレッタで髪を留めた。鏡で確認すると思いのほか似合っていた。夜野は仕事用の鞄に割れた仮面をそっと入れた。鞄の底に、古い紙が一枚ちゃんとあるのを確認すると、会社に出勤すべく外に出た。
会社内勤務は、夜野の能力を活かせている実感はあまり感じられなかったが、座り仕事ばかりだったので体力的には楽だった。時折挟まる休憩時間では、同僚たちが休憩室で当たり障りのない雑談を交わしているのに対して軽く会釈をして通り過ぎた。夜野はマスクをしているだけなので、実際に体は半透明なはずだが、夜野以外の同僚は仮面越しに夜野を見るので、彼らは夜野を透明であるかのように扱ってくれた。
パソコンで作業をしていると、スマホにメールが届いているのに気が付いた。仕事中によくないとは思いつつも見てみると、津野からだった。日程をいくつか提示し、忙しかったら断ってくれていいと綴られている。仮面が故障した一件で返信をすっかり忘れていた。特に休日の趣味もなく、特別親しい友人もいない夜野は、誘いを断る合理的理由を見つけることができず、提示してくれた日程で一番早いものを選んで返信した。
自分の仮面が故障したことで思い出したが、高校時代、津野は卒業まで仮面を被っていなかった。ビジネスシーンにおいて透明は絶対的なマナーだが、すべての業界でそうというわけではないし、私生活で仮面を被るか被らないかは個人の自由とされている。仮面を被ることを強要してはならないし、仮面を外すことを強要してもいけない。そういうルールのもと、それぞれが違う立場を認め合うというよりは、どうでもいいと互いに無関心になることでこの世界は回っていた。みんな違ってみんなどうでもいい。これが透明化時代を表すモットーなのであった。
仮面を嫌っていた津野は、まだ素顔で生きているのだろうか、と夜野はぼんやりと考えた。




