2 修理
そこから先、どうやって走ったのか夜野はよく覚えていない。とにかく、どこかに隠れたいという一心で夜野は足を動かしていた。ぶつかった相手はおそらく、もうとっくに夜野を見失い、家に帰っただろう。仕事で疲れていたはずの足を酷使して、足の裏でストッキングは破れ、気付いたらコンビニの袋を握りしめて駅のトイレの個室にいた。
深呼吸をして暴れる心臓を静める。夜野はコンビニの袋から使い捨てのマスクを取り出した。白い不織布でできていて、針金を曲げて鼻筋にフィットさせる、鼻と口を覆うそれを身に着けると、夜野の身体はみるみるうちに半透明になった。ベネチアの仮面のようなそれが、人をほぼ完全な透明にしてくれるのに対し、花粉症か風邪の患者がつけているのに似たそのマスクは、完全ではないが、一時的に人を透明にしてくれた。値段も安く、どこのコンビニでも手軽に手に取れ、身に着けた誰もを半透明くらいにはしてくれる、場当たり的だが優れた道具だった。
『申し訳ありません、仮面が壊れてしまったので修理が済むまで営業ができなくなりました』
夜野はスマホを取り出して、何より先に上司にメールを作成した。
この透明化時代において、ビジネスシーンでの透明は、もはやマナーのようなものになっていた。相手の素顔を見ず、相手に素顔を見せないということは、相手の権利や存在を尊重する姿勢の表れであり、今や社会人が最初に教え込まれる一般常識であった。素顔を晒すことは、会社の品位に傷がつくくらい失礼なことなのだ。
夜野が取り乱したのは、決して社会人としてのビジネスマナーの順守に徹する姿勢からではなく、個人的な羞恥心であったが、その病的なまでの透明への執着は社内で高評価を得ており、そのおかげで客先に出向き、商売の交渉をする役割が与えられていた。会社の最先端で仕事を取ってくる役目は、まさに会社の顔と言っていい役職だったが、当の本人の顔は見えないだけに皮肉な状態でもあった。
夜野は上司にメールを送り終えると、インターネットを立ち上げ、仮面の修理について調べ始めた。仮面は被った人を無差別に透明な空気のようにしてしまう道具ではない。光の屈折や、様々な色を操るテクノロジーによって、一人一人に合うように、その人がほぼ完全な透明に見えるように設計される。全ての仮面がオーダーメイドで、修理と言っても、スマホの修理のように、大企業の修理部門に郵送すれば数日後に修理されて戻ってくるというわけではない。夜野自身が逃げ出してしまったため仕方ないことだが、決して安くない修理費を誰にも負担してもらえないのも財布に痛かった。
仮面は仮面職人と呼ばれる職業のプロによって、手作業で製作される。職人は需要過多のために常に人手不足で、良い職人に巡り合えるかは完全に運だったし、修理の予約もいつになるか見通しがつかなかった。
夜野は指先でこめかみを揉んだ。しばらくは、会社内の別の部署に入れてもらって雑務をこなすしかない。せっかく自分の能力を存分に生かすことができる営業という仕事をさせてもらえていたのに、これでは会社からの期待も薄れてしまうだろう。
「営業、か」
夜野は自嘲的に笑った。一昔前まで営業という職種は、明るく、コミュニケーション能力の塊のような、夜野とは真反対な人の役割だった。人の表情の奥に隠された求める利益を読み、笑顔を顔に張り付かせて、滑らかによく回る舌で、巧みにプレゼンを行う。透明のビジネスマナーが出来てからも、営業の本質は変わっていない。隠されている相手の本質を読み解き、双方の利害の一致を訴え、取引を成立させる。ただ昔と異なるのは、その手段が特に、顔に張り付かせた愛想というやりとりではなく、純粋な言葉によるやりとりになったことだった。相手の送ってくるメッセージを観察し、相手の求めている利益の本質を正しく理解できれば、それを叶えるような取引を持ち掛け、双方が利益を得られる。メッセージだけのやりとりは、定型文の組み合わせであるためとてもシンプルで、余計な装飾に注意をそらされずに済むので、人と話すより文字を読むことの方が得意な夜野には、相手がビジネスにおいて何を求めているのか簡単にわかった。
感情を抜きにして取引をするので、ビジネスが終わった後はあっさりとしていた。夜野が主に接する客先の企業とは、義理人情的な付き合いは皆無で、他人に干渉したくない夜野にとってはありがたかった。営業職は会社内で働くよりも人脈が増えそうに思われることが多いが、実際のところ、会社内勤務の社員同士の交流の方が、広く浅く、少なくとも営業職よりは人間味の強い関係を築いていた。社内勤務のそのような雰囲気に身を投じなければならないことが、今までただ透明に徹すればよかっただけの夜野には少し気がかりだった。
憂鬱な気分でスマホをスクロールしていると、一つの仮面職人の店のホームページが目に入った。夜野の住む街にある、家族経営のごく小さい店だった。予約枠が来月の一か月分まるまる空いている。今時、どんな小さい仮面屋でも、直近一か月の予約ががら空きということは何か訳があるに違いなかった。予約ページを見る限り何も入力されていないが、実際は予約があるのに反映されていないだけか、最近突然予約がキャンセルされたか、それとも、相当評判が悪くて閑古鳥が鳴いているのか。最速で仮面を修理してもらえそうな近所の店はそこしか見つからなかった。店をまともに構えられている以上、最後の可能性は非常に低いと思われるが、とにかく行って話を聞いてみなければわからない。明日の朝早くにでもこの店に行ってみようと決め、夜野はスマホを閉じた。




