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透明人間  作者: 岡倉桜紅
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1 仮面

 夜野月(よるの つき)はため息をついた。今日は一日中客先で話し合いをしていた。長時間背筋を伸ばし、会話に神経を尖らせ続けていたので、客先の会社から距離が遠ざかるほどに全身は気だるい疲労感に襲われ、家路を辿る足も重くなった。足元の酔っ払いを避け、繁華街を突っ切って駅に歩く。もしこの道がもう少し綺麗だったなら、迷わずヒールパンプスを脱いで裸足で帰っただろうと夜野は思った。スマートフォンが震えたので、緩慢な動きで画面に目を落とす。先ほど上司に交渉完了の報告をしたため、その返事だと予想していたが、差出人は別の人だった。

「津野……?」

 思わずつぶやく。津野凪(つの なぎ)は夜野の高校時代の同級生で、卒業後は別の大学に進み、年に一度ほど同窓会などで顔を合わせるくらいの交流しかなかった。社会人になり、その関係はなくなるかと思ったが、メールを送りあうという細い縁によって、かつてとそう変わらない頻度で連絡を交わしていた。遠すぎる関係ではないが、決して親しい関係でもない、ひとりの元クラスメイト。社会人三年目の夜野だったが、大学で院に進み、今年から社会人を始めた津野は、最近夜野の住む東京に移り住んだと風の噂で聞いていた。

 メールには飾らない文章で、近々会おうという誘いがあった。

 津野と自分が一対一で話すということが、あまり自然なことに思えなくて、夜野は返信ボタンを押す指を宙にさまよわせた。

(前を見て歩くようにしてください。危ないです)

 突然目の前にメッセージが表示されて夜野ははっと顔を上げた。スマホを見ていて不注意になった目の前には、他人の存在を示すアイコンがあった。

(すみません)

 ぶつかりそうになった人は、夜野の横を抜けて去っていった。夜野はスマホを鞄にしまい、自分の顔前を覆うもののずれを直した。夜野は、顔全体を覆うような仮面をつけていた。鼻の所が高くなっていて、口は厚みがあり、形の良い唇の装飾がついている。目元にはレモンのような釣り目型の穴が空いていて、半透明なパネルがはめ込まれており、表面には細かな彫刻のような溝が彫られていた。それはまるでベネチアのカーニバルで着けられるあの仮面のようだった。

 時は2040年代。ある冒険家が、溶けた南極の氷の中から、不思議な物質を発見した。それは、ある条件下で近くにある対象を透明にするという性質を持つ素材で、高い技術力を持つ先進的な企業により、発見から十年も経たないうちに、人類初の透明マントが開発された。その瞬間から人類は透明化時代に突入した。扱いの難しい形状のマントはすぐに小型化、軽量化が進み、2060年代には、誰もが仮面を身に着けるだけで透明になれるようになった。

 透明な人同士が互いの存在だけには気づくことができるように、仮面というデバイス間で情報をやりとりし、必要最低限にトリミングされた形で、仮面の目のところに埋め込まれた特殊なパネルに映し出される。思ったことはデバイスを通じて、メッセージとして相手に送られる。声も透明というわけだ。

 なぜ二十年ほど前から人類は透明というものに取り憑かれるようになったのか。それは、透明が技術の応用というサイエンスの面だけではなく、人々のものの考え方や文化にもぴたりとはまったからだった。行き過ぎたルッキズムや差別が世界のニュースで多くを占めるようになった結果、人々はその風潮にうんざりし、自分の容姿にもプライバシーを主張した。始まりはルッキズムへの反発だったが、透明は人々の心に不思議な安心をもたらすようになった。透明になることは、外見やしぐさについて、赤の他人に無遠慮に見られるということからの解放だけでなく、内面についても解放されたように感じる人が多かった。極力他人との関わりを減らし、最低限の接触に限ることで、個人が一人一人で生きていくことによって、精神には安寧が訪れ、煩わしい衝突も減った。

 この透明の時代を、夜野は心地よく思っていた。人と適切な距離感を保つことによって、傷つかず、また自分も傷つくことが無い。古代のベネチアのカーニバルでは、仮面は自らの素性を隠し、身分の壁を取っ払った人々は自由を得て快楽に浸ったという。同じことだ。切っても切り離せない自分を、仮面は透明にして、自分が何者なのかを忘れさせてくれる。この仮面を被れば、誰でもない自分として安心して街を歩くことができた。

(すみません)

 目の前に文字が映し出されて、次の瞬間、夜野は階段から転がり落ちていた。前から下りてきていた人の軽く肩がぶつかった程度だったはずだが、夜野の履いていたヒールが最悪のタイミングでぽきりと折れ、駅の階段の決して少なくない段数をほとんど後転するような恰好で転がり落ちた。髪を留めていた花をあしらったデザインのバレッタが取れて、明るすぎない茶色に染めた長い髪が解けた。

 幸い、打ちどころが良かったようで、大した怪我はなかった。体を点検し、異常がないことを確かめると、バレッタの状態はろくに確認もせずに鞄に入れた。こんな時なのに、無様に落ちるところを周囲に見られなくてよかった、と夜野は透明に安堵していた。男だか女だかわからないが、ぶつかった相手が駆け寄ってくる足音が聞こえる。微かに舌打ちのような音がしたような気がした。

(大丈夫です。お気遣いなく。さようなら)

 仮面は自分を隠す。人とぶつかって、「痛てえな、前見て歩けボケ」と言いたい本音を、綺麗な定型文に隠して消す。

 使いものにならなくなった靴を両方脱いで手に持ち、立ち上がる。それ以上の関わりを持たずにさっさとその場を立ち去ろうとしたが、後ろから腕を掴まれた。途端にぞっと鳥肌が全身に立って、夜野はその手をやや乱暴に振り払った。他人に触れられることは、夜野にとって生理的に受け付けないことの一つだった。透明な生活が長くなった現代人の中には、接触恐怖症になる人も多く、夜野にもその気はあった。他人と接触する機会がイレギュラーな事件になりすぎているのだった。

「弁償します」

 その人はメッセージではなく、声で言った。予想外に、心配が滲む、申し訳なさでいっぱいといったような声色だった。さっきの舌打ちは、通行の邪魔をした、前方不注意な女に向けた悪態ではなく、事故の後処理の面倒さを予見したものか、あるいは不注意が招いた自分の不運を呪うようなものだったのかもしれないと夜野は少し思った。

 ふと、その声音ではなく、声を出したという事実について思いを巡らせたとき、はっとして夜野は自分の顔を触り、悟った。メッセージが通じないわけだ。

 透明になる仮面が、壊れてしまっていた。

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