21 東京湾
「津野、私たちが初めてちゃんと話した時のこと、覚えてる?美術室で」
夜野は手すりに少し体重をかけるようにして海の方に言った。日は数分前に沈み、遠くに霞むビル群の雑多な明かりが、黒々とした水面に落ちていた。大きな橋の上には、黄昏時を縫うようにヘッドライトが光っている。
「私、透明人間を放っておいてって言ったよね。それに、他人とはわかりあえないんだってことも」
夜闇が街を覆っても、ここにはたくさんの色がある。
「それを撤回したいんだ。私、今は信じたいことがあるの。人はお互いに他人の色を認め合えるんじゃないかっていう可能性。私、目を瞑って自分の色から目を逸らし続けてた。他人の色も見ようとしないで、他人全部から目を逸らした。自分や他人、世界との向き合い方は一つじゃない。透明でいることも方法の一つ。でも私はその方法の一つとして、お互いの色を認めるっていうことを選びたい」
夜野は振り返った。そこには透明な津野がいる。見えないけれど、いる。七年間、氷漬けにされていたものが少しずつ溶けていく。
「あなたの仮面を外してもいいですか?」
津野は自分の手で仮面を外した。透明に隠れられないのは、自分を曝け出すのは怖い。でも今は、目の前のこの人に自分を見てほしいと思った。目の前には綺麗な微笑みをこちらに向けている夜野がいた。手に、橙色の花束を持っている。
「キンモクセイだ……」
津野はつぶやいていた。
「あ、これはさっき……。私に似てるらしくて」
「だ、誰にもらったの?」
津野は慌てる。その慌てぶりがどこかおかしくて夜野は思わず笑った。そういえば、お互いの素顔を見ながら話すのは初めてになる。夜野は、自分に今見せてくれている津野の顔をしっかりと見つめる。
「仮面屋の男の子だよ。店主だけど小学生だからそういう意味の花じゃない」
津野はほっとしたように胸をなでおろす。仮面を着けていた時はカットされていたたくさんの仕草が、笑顔が、表情が、すべてが色づいていた。私を知ったうえで、私のことをつまらない人間だと他人が評価してもかまわない。私は私がつまらなくても、世界がつまらなくない限り、こうして生きていく。
津野は夜野にラッピングされた香水瓶を差し出した。
「これ、ギンモクセイの香水なんだ。君をイメージしたんだけど、やっぱりキンモクセイのほうがふさわしかったかな」
夜野は首を振ってそれを受け取った。
「あなたの目に私がこんなふうに見えていたんだって伝わって嬉しい。これからたくさん話して、たくさんお互いのことを知って、お互いの色を見たら、印象が変わっていくこともあるかもしれない。だって私たち、お互いのことをまだ何も知らないから。でもそれでいいんだよ」
「確かに、俺たちはお互いを何にも知らない。でも、言いたいことがあるんだ」
君が透明だった時から、ずっと。
「君が好きだ」




