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従順な婚約者の辞め方  作者: なみゆき


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第七話 秘密

 リゼットが王宮侍女試験の勉強を本格的に始めたのは、十六歳の秋だった。試験科目は予想していた以上に多く、隣国の歴史と法律、外交儀礼、外国語、文書作成、計算能力など、学院で学ぶ内容をさらに深く理解しなければならなかった。加えて、王族に仕える者としての判断力や品位を問う面接試験もあるため、単に知識を覚えるだけでは十分ではなかった。


フロリアンは隣国から参考書や過去の試験問題を取り寄せ、リゼットが必要なときに閲覧できるよう手配してくれた。学院の図書室で二人が同じ机を使うこともあったが、リゼットは常に周囲の視線を気にしていた。

ディートリヒが卒業したとはいえ、学院には彼を慕う生徒がまだ多く残っている。自分がほかの男性と親しくしていると知られれば、また何を言われるかわからなかった。


フロリアンもその事情を察していたのか、必要以上に彼女へ近づこうとはしなかった。資料を渡すときも、ほかの生徒と同じように接し、勉強について意見を求められれば答えるものの、彼女の事情を尋ねることはなかった。


 ある日、閉館時刻が近づいた図書室で、フロリアンは机に向かうリゼットの手が止まっていることに気づいた。彼女は隣国の外交法に関する分厚い本を開いたまま、同じ箇所を何度も読み返していた。


「リゼット嬢、今日はここまでにしましょう。もう随分遅い時間です」


「あと一章だけ、確認したいのです」


「無理をして体調を崩しては、勉強を続けられなくなりますよ」


フロリアンはそう言って、彼女の前に温かい茶を置いた。リゼットは礼を述べて茶器を手に取ったが、すぐには口をつけず、開いた本へ視線を戻した。


「ありがとうございます。でも、わたくしには時間がありませんから」


「卒業まで、まだ一年あります」


「一年しか、ないのです」


彼女の言葉に、フロリアンは何も言わなかった。

王宮侍女の試験を受けたいという希望だけであれば、そこまで追い詰められたような表情をする必要はないはずだった。彼女にとって卒業は、何か避けがたい期限を意味しているのだろう。そう考えると、以前から抱いていた疑問の幾つかに、ようやく説明がつくような気がした。


**

 一方、公爵邸での週末は相変わらず続いていた。ベアトリスはリゼットの疲れた顔を見るたび、生活態度がなっていないと叱り、学院の勉強が忙しいのは承知しているが、公爵家の嫁になる者がその程度で音を上げるようでは困ると嘆いた。


「あなたは将来、公爵夫人になるのですよ。学生だからといって甘えていては困りますわ。わたくしだって、あなたの年頃にはもっと多くのことを学んでいましたし、家の仕事も手伝っておりました。ご両親は、あなたを少し甘やかしすぎたのではなくて?」


「申し訳ございません。今後は気をつけます」


「そう言っていただけるのは結構ですけれど、わたくしは言葉だけの反省を求めているのではありませんのよ。あなたが本当に努力しているのなら、結果で示していただきたいものだわ」


ディートリヒも母親に同調した。


「リゼット、母上のおっしゃるとおりだよ。君は昔から要領が悪いところがあるからね。僕が学院にいた頃は、もっと効率よく勉強するように教えてあげていたのに、最近は少し気が緩んでいるんじゃないかな」


リゼットは頭を下げた。

以前なら、こうした言葉を聞くたびに、自分が本当に不出来なのではないかと考えていた。しかし、今は違った。学院での成績は決して悪くなく、フロリアンから渡された問題も少しずつ解けるようになっている。自分が努力していることを、彼らに認めてもらう必要はなかった。


 その週末も、ベアトリスは茶会の準備を何度もやり直させ、ディートリヒは彼女が疲れていることを理由に、婚約者としての自覚が足りないと注意した。二人の要求に従っている間、リゼットは翌週の勉強の予定を頭の中で組み立てていた。帰りの馬車で休めば、夜には少しだけ本を読むことができる。月曜日の講義が終わった後には、図書室で外交史の続きを調べよう。


そのように考えていなければ、目の前の二人が楽しそうに語る結婚後の生活を、平静な顔で聞いていることなどできなかった。


「結婚したら、リゼットにはしばらく外出を控えてもらおうと思っているんです。公爵家の仕事を覚えるまでは、余計な付き合いを増やさないほうがいいでしょう」


「それがよろしいわ。実家への帰省も、最初のうちは控えていただいたほうがいいでしょうね。嫁いだ娘がいつまでも実家に頼っていては、周囲から笑われてしまいますもの」


ディートリヒは母親の言葉に頷き、リゼットに向かって優しく微笑んだ。


「君もそのほうが安心だろう? 僕と母上がきちんと面倒を見てあげるから、何も心配することはないよ」


リゼットは、いつもどおり礼を述べた。


**

 その頃、リゼットは王宮侍女の試験勉強と並行して、もう一つの調査を始めていた。

父から婚約契約書の写しを取り寄せ、条項を一つずつ読み返していたのである。子爵家から婚約を解消した場合に発生する違約金は莫大であり、公爵家の名誉を損なったと判断された場合の賠償責任についても、曖昧な表現が使われていた。何をもって名誉を損なったとするのか、誰が判断するのか、その基準さえ明記されていない。


リゼットは、契約書に何度も登場する寄親権限という言葉が気になっていた。公爵家が子爵家に対して行使している権限の多くは、かつての領地復興資金の貸付契約を根拠としていた。しかし、リーヴェルト領の財政はすでに安定しており、父は長年にわたって返済を続けていると話していた。


現在、いったいいくらの債務が残っているのだろう。


リゼットは父に依頼し、過去の返済記録と領地台帳を見せてほしいと頼んだ。数時間後、父から依頼を受けた家令が届けた書類を調べた彼女は、思いがけない事実を発見した。

公爵家から借り受けた復興資金は、すでに完済されていたのである。


しかも、古い寄親契約には、返済完了後に一定期間が経過した場合、寄子は独立を申し立てることができるという条項が記されていた。リゼットは何度も書類を読み返したが、完済の日付にも、独立申立てに関する条項にも、読み違いは見当たらなかった。


父も母も、この条項を知らなかった。

公爵家からは、寄親としての関係が今も続いていると説明されていたからである。


リゼットは書類を持ってフロリアンに相談した。


「この契約について、どう思われますか」


フロリアンは慎重に目を通し、しばらく考え込んだ。


「僕はこの国の法律の専門家ではありませんから、断言はできません。ただ、少なくとも正式な審査を求める価値はあると思います。債務が完済されているのであれば、それを根拠とした権限が今も有効なのか、確認する必要があるでしょう」


「婚約契約についても、でしょうか」


「それは別の問題です。ただ、婚約契約が失効した寄親権限を前提に結ばれているなら、その点も審査の対象になるかもしれません。重要なのは、契約書だけでなく、実際にどのような圧力があったのかを示す記録を残しておくことだと思います」


リゼットは書類を胸に抱いた。

王宮侍女になれれば、結婚を延期できる。そして、婚約契約そのものを無効にできれば、違約金を支払うことなく自由になれるかもしれない。


彼女はその夜から、父に見せてもらった返済記録を整理し、公爵家から届いた書簡の日付と内容を書き出し始めた。

以前は読むことさえつらかったベアトリスからの手紙も、今は重要な記録だった。そこには、婚約を解消した場合に交易上の便宜や親族への推薦を見直すという趣旨の言葉が、丁寧な挨拶文に紛れて残されていた。


公爵家の母子は、リゼットが何も考えずに従っていると思っていた。彼女が自分たちの言葉を一つずつ記録し、婚約から逃れるための証拠として整理していることなど、想像もしなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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