第四話 気づいた人
フロリアン・フォン・クラウゼンは、隣国からの留学生だった。リゼットと同じ年に学院へ入学した彼は、落ち着いた物腰と優秀な成績で知られていた。隣国の貴族家の出身であることは周囲も知っていたが、本人が家柄を誇示することはなく、学院でも特別扱いを望まなかった。
リゼットが彼と初めて言葉を交わしたのは、学院の図書室だった。その日、リゼットはディートリヒに命じられた資料の清書を終えたばかりで、閉館間際の図書室に一人残っていた。手首には、前日にディートリヒから強くつかまれた跡が残っていた。長袖の制服に隠れていたが、書き物をするたびに鈍い痛みが走った。
「リーヴェルト嬢、その本を借りるのですか?」
声をかけられて振り向くと、フロリアンが立っていた。
「ええ。明日の講義で必要ですので」
「それなら、こちらの版のほうが使いやすいと思います。注釈が詳しく、巻末に参考資料も載っていますから」
彼が差し出した本を受け取ろうとしたとき、リゼットは手首の痛みに顔をしかめた。フロリアンの視線が、ほんの一瞬だけ彼女の手元に落ちた。
「大丈夫ですか?」
「……何がでしょう」
「手を痛めているように見えましたので」
リゼットは慌てて袖を引き下ろした。
「何でもございません。少し書き物をしすぎただけです」
「そうですか。無理はなさらないでください」
フロリアンはそれ以上尋ねなかった。
ただ、本を彼女が持ちやすいように机へ置き、静かに立ち去った。その何気ない気遣いが、リゼットにはひどく不思議だった。ディートリヒなら、彼女が痛そうな顔をしたことを責めただろう。自分が心配しているのに隠し事をするのかと問い詰め、最後には、彼を不安にさせたことを謝らせたに違いない。けれど、フロリアンは何も求めなかった。
それからフロリアンは、時折リゼットに声をかけるようになった。講義の内容について意見を尋ねたり、図書室で見つけた珍しい本を紹介したりする程度の、ささやかな交流だった。
リゼットも、本当は彼と話すのが嫌ではなかった。フロリアンは彼女の意見を途中で遮らず、考えが違っていても頭ごなしに否定しなかった。彼女が正しいことを言えば、素直に認めてくれた。
しかし、その交流は長く続かなかった。
ある日、ディートリヒがフロリアンと話しているリゼットを見かけたのである。
「リゼット、ずいぶん楽しそうだったね」
放課後、呼び出された談話室で、ディートリヒはいつもと変わらない穏やかな声で言った。
「クラウゼン君とは親しいのかな」
「同じ講義を受けておりますので、時折お話しすることがございます」
「そう。君にも友人ができたのなら喜ばしいことだけれど、少し気をつけたほうがいいね。君はまだ男性との距離の取り方がわかっていないようだから」
「そのようなつもりは……」
「僕は君が浮気をしたなんて言っていないよ。どうしてすぐにそんなふうに受け取るんだい?」
ディートリヒは悲しげに眉を寄せた。
「君を信じているからこそ、心配しているんだ。婚約者のいる女性がほかの男性と親しくすれば、周囲がどう思うかくらい、君にもわかるだろう? 僕は君の評判を守ってあげたいだけなんだよ」
その後の「指導」は、いつもより長かった。
リゼットは翌日、フロリアンに声をかけられても、まともに顔を上げられなかった。
「リーヴェルト嬢、先日の資料ですが――」
「申し訳ございません。急いでおりますので」
彼女は足早に立ち去った。
フロリアンは追いかけなかった。
ただ、彼女が去り際に一度だけ振り返り、廊下の向こうに立つディートリヒの姿を確かめたことを、見逃さなかった。
それからも、フロリアンは何度かリゼットの様子を気にかけた。ディートリヒと話した直後の彼女は、いつも表情が硬く、誰にも見られていないと思った瞬間に、ひどく疲れた顔をしていた。
周囲の生徒たちはディートリヒを理想の婚約者だと褒めていたし、リゼット自身も彼について尋ねられれば、いつも礼儀正しい言葉で感謝を述べた。しかしフロリアンには、彼女が幸せな婚約者には見えなかった。
ある雨の日、彼は図書室の窓際で一人座っているリゼットを見つけた。彼女は開いた本を見つめていたが、ページをめくることもなく、ただじっとしていた。
「リーヴェルト嬢」
声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
「驚かせてしまいましたね。すみません」
「いいえ、こちらこそ失礼いたしました」
フロリアンは少し迷った末、静かに尋ねた。
「あなたは、いつも誰かに謝らなければならないのですか?」
リゼットは答えられなかった。
「以前から気になっていました。あなたは何も悪いことをしていないときでも、必ず謝るので」
「……お気遣い、ありがとうございます」
「気遣いというほどのことではありません。ただ、あなたが何か困っているのなら、相談できる相手がいるといいと思っただけです」
リゼットは膝の上で手を握りしめた。
相談したいことは、山ほどあった。けれど、何を話しても公爵家に伝わるかもしれない。フロリアンまで巻き込むことになれば、彼にも迷惑がかかる。
「わたくしは、何も困っておりません」
そう答えると、フロリアンはしばらく彼女を見つめ、それから小さく頷いた。
「わかりました。では、これ以上は尋ねません」
リゼットはほっとした。
同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。彼が自分を助けようとしてくれていることは、わかっていた。それでも、今の自分には、その手を取ることができなかった。
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