第三話 優しい婚約者
ディートリヒは、誰の目にも非の打ちどころのない公爵令息だった。礼儀正しく、学業にも優れ、年少者には親切で、教師からの信頼も厚い。王立貴族学院に入学してからは、その評判はますます高まった。
リゼットが十二歳で学院へ入学したとき、ディートリヒは十四歳の三年生になっていた。入学式の日、彼は新入生たちの前でリゼットを紹介した。
「僕の婚約者のリゼットです。少し人見知りで、まだ社交にも不慣れなところがありますが、根はとても素直な子なんですよ。皆さん、どうか仲良くしてあげてください」
その言葉に、周囲の令嬢たちは感心したように微笑んだ。
「まあ、ディートリヒ様は本当にお優しいのね」
「婚約者の欠点まで包み込んでいらっしゃるなんて、素敵ですわ」
リゼットは隣で頭を下げた。
自分が人見知りだと決めつけられたことにも、社交が苦手だと紹介されたことにも、何も言わなかった。実際には、彼女は子爵家の娘として十分な教育を受けており、同年代の令嬢たちとの会話にも困ったことはなかった。しかし、ディートリヒがそう言うのだから、周囲にとってはそれが事実になる。
彼女の評判を決定づけたのは、リゼットが学院へ入学して間もなく起きた出来事だった。
ある日、上級生の令嬢たちに呼び止められたリゼットは、婚約者にふさわしくないと責められた。
「あなた、ご自分の立場を理解していらっしゃるの? ディートリヒ様ほどの方が、どうして子爵家の娘なんかと婚約なさったのかしら」
「公爵家のご厚意に甘えていないで、自分から身を引くべきではなくて?」
リゼットが黙っていると、一人の令嬢が苛立ったように言った。
「何とかおっしゃいな。都合が悪くなると黙り込むなんて、随分と失礼な方ね」
そこへディートリヒが現れた。
「皆さん、そのくらいにしてあげてください」
彼は穏やかに微笑み、リゼットの肩に手を置いた。
「リゼットはまだ学院に入ったばかりですから、至らないところがあっても仕方がありません。僕が責任を持って指導しますので、どうか長い目で見てやってください」
令嬢たちは頬を染め、口々に彼を褒め称えた。
リゼットは礼を言わなければならなかった。
「ありがとうございます、ディートリヒ様」
「いいんだよ。君が困っているときに助けるのは、婚約者として当然のことだからね」
その日の放課後、ディートリヒは彼女を人気のない談話室へ呼び出した。
「リゼット、今日のことだけれど、僕は少し恥ずかしかったよ」
「……申し訳ございません」
「僕に謝る必要はないんだ。ただ、君がああして周囲と問題を起こすたびに、僕が間に入らなくてはならないことを理解してほしいんだよ。君は自分が被害者だと思っているかもしれないけれど、あの令嬢たちにも言い分はあるんじゃないかな」
リゼットは顔を上げた。
「わたくしからは、何も申し上げておりません」
「だから、そういうところだよ」
ディートリヒは困ったように笑った。
「僕は君を責めているわけじゃないのに、どうしてすぐに言い訳をするんだい? 君が悪くないと言い張れば、あの令嬢たちが悪いということになるだろう。そうやって他人のせいにする癖は、早いうちに直したほうがいい。将来、公爵夫人になってからでは恥をかくのは君自身なんだから」
彼はリゼットの手を取り、指先を包み込んだ。傍から見れば、婚約者を優しく慰める青年に見えただろう。しかし、彼の指は少しずつ力を増し、リゼットの手を逃がさないように握りしめていた。
「僕は君の味方だよ。だからこそ、君が間違っているときには、きちんと教えてあげなければならないんだ。わかるね?」
「……はい」
「本当にわかっているのかな。君はいつも返事だけは立派だけれど、同じ失敗を繰り返すからね」
握られた指が痛かった。
リゼットは顔をしかめそうになったが、そうすれば彼が不機嫌になることを知っていたので、懸命に表情を整えた。ディートリヒはその様子を見て、満足そうに微笑んだ。
「そう。君はそうやって素直にしていればいいんだよ」
彼は、リゼットが自分を愛していると信じていた。周囲の人々から何を言われても、リゼットが婚約を解消しようとしないのは、自分を失いたくないから。厳しく指導しても泣くのをこらえて従うのは、自分の期待に応えたいから。二人きりのときに彼女が怯えたような顔をするのも、愛する男に恥をかかせたことを羞恥心からのものだと、都合よく解釈していた。
リゼットにとって、学院生活は次第に苦痛なものになっていった。
ディートリヒは彼女の時間割を把握し、講義のない時間には自分の資料整理や書類の清書を命じた。 上級生たちとの集まりでは茶の用意をさせ、彼女が疲れた様子を見せれば、婚約者として気遣いが足りないと注意した。
「君が僕の役に立ちたいと思ってくれるのは嬉しいけれど、もっと要領よくできるようにならないとね。僕の妻になるのなら、これくらいは当然できなければ困るよ」
彼女が試験で優秀な成績を収めると、ディートリヒは教師の前で誇らしげに語った。
「リゼットは昔から少し要領が悪い子でしたが、僕が勉強の仕方を教えてからは随分よくなりました。本人も努力していますし、僕としても嬉しい限りです」
実際には、彼がリゼットの勉強を教えたことなど一度もなかった。
むしろ、彼の雑用に時間を取られたため、リゼットは夜遅くまで机に向かわなければならなかった。それでも彼女は反論しなかった。公爵家の機嫌を損ねれば、父の領地に影響が出る。弟ルーカスが将来希望している騎士学校への推薦にも、差し障りがあるかもしれない。自分さえ我慢すれば、家族は守れる。そう考えることが、いつしかリゼットの習慣になっていた。
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