第二話 逃げ道のない婚約
ヴァルディエ公爵家から届いた婚約の申し入れに、リーヴェルト子爵オスカーは目を疑った。公爵家の嫡男と子爵家の長女では、あまりにも家格が違う。普通であれば、子爵家にとって望外の栄誉と受け取るべき話だったが、オスカーは素直に喜ぶことができなかった。茶会から帰った日の夜、リゼットが眠りながら泣いていたことを妻から聞いていたからである。娘は何も話そうとしなかったが、あれほど公爵邸へ行くことを楽しみにしていた子が、その後は屋敷の話題を避けるようになっていた。
「お断りしましょう」
マリアンヌは夫の手にある書状を見つめ、迷いなく言った。
「公爵家との縁談など、あの子には荷が重すぎます。それに、リゼットはまだ七歳です。今から将来を決めてしまう必要はありませんわ」
「私も同じ考えだ。しかし、相手が相手だ。断り方を間違えれば、領地に影響が出る」
「それでも、娘の幸せには代えられません」
オスカーは妻の言葉に頷き、翌週、公爵邸を訪れた。
応接室には、公爵レオポルトとベアトリスが待っていた。レオポルトは妻から話を聞かされたとき、子爵家の娘を嫡男の妻に迎えることに難色を示していた。息子の婚姻は公爵家の将来を左右する重要な問題であり、寄子の子爵家から正妻を迎えるなど、政治的な利点が少なすぎる。しかし、ベアトリスは譲らなかった。
「ディートリヒが初めて自分から望んだ縁談ですのよ。あなたは父親として、あの子の幸せを考えてくださらないの?」
レオポルトは、妻のこうした言い方が苦手だった。妻を愛していないことも、領地に別の女を囲っていることも事実である。家庭を顧みなかった負い目を指摘されると、彼はいつも面倒になり、妻の要求を聞き入れてしまう。オスカーが慎重に辞退の意向を伝えると、ベアトリスは悲しげに眉を寄せた。
「まあ、リーヴェルト子爵。わたくしたちの申し入れが、ご迷惑だったということかしら」
「決してそのようなことではございません。ただ、娘はまだ幼く、公爵家にふさわしい教育を受けているとも申せませんので」
「だからこそ、早くからこちらで教育して差し上げたいのです。子爵家では教えられないことも多いでしょうし、将来のためを思えば、悪いお話ではないと思いますけれど」
「娘の意思も確かめたいと考えております」
「もちろんですわ。けれど、七歳の子供に何がわかるというのでしょう。親が子供の将来を考えて、最善の道を選んであげるのも愛情ではなくて?」
ベアトリスは微笑んでいたが、その目には少しも温かさがなかった。
「それに、リーヴェルト家は長年、我が公爵家の庇護を受けていらっしゃるでしょう。これまでのご恩を考えれば、両家の結びつきが深まることを喜んでいただけると思っておりましたのに」
その言葉に、オスカーは口を閉ざした。
リーヴェルト領は、かつて戦乱によって荒廃した土地だった。復興にあたって先代子爵がヴァルディエ公爵家から多額の資金を借り受け、その代償として寄親・寄子の契約を結んでいた。
現在は領地経営も安定していたが、交易路の使用許可や王都での商取引など、公爵家の影響が残る分野は少なくない。婚約を断ったことを理由に、そうした便宜を取り上げられれば、困るのは領民だった。
結局、その日の話し合いで結論は出なかった。
しかし、公爵家から送られてきた婚約契約書を見て、オスカーはさらに愕然とすることになる。契約には、子爵家から婚約解消を申し出た場合、莫大な違約金を支払う義務があると記されていた。金額はリーヴェルト領の年間税収の数年分に相当し、支払うためには領地の資産を売却するか、領民に重い負担を強いるしかない。
加えて、婚約者としての教育を公爵家に委ねること、リゼットの言動によって公爵家の名誉が損なわれた場合には子爵家が賠償責任を負うことなど、一方的な条項が並んでいた。その一方で、公爵家から婚約を解消する場合には、ほとんど制約がなかった。
「こんな契約を、誰が承諾できるというのだ」
オスカーは契約書を握りしめ、再び公爵邸を訪れた。だが、ベアトリスは涼しい顔で答えた。
「婚約を解消するおつもりがなければ、何も問題はないでしょう? そもそも、我が家としても、将来の公爵夫人が軽々しく婚約を投げ出すような方では困りますもの。リゼットさんのためにも、責任の重さを理解していただく必要があると思いますの」
レオポルトも契約内容を理解していた。
違約金が子爵家の財政を破綻させかねないことも、婚約者への監督権が通常の範囲を大きく超えていることも承知していた。それでも、妻と息子が執拗に婚約を望んでいる以上、これ以上の口論を避けたいという思いが勝った。
「子爵、妻の言うとおり、婚約を守れば問題はない。両家にとって良い縁談になるよう、そちらも努力してもらいたい」
それが公爵の返答だった。
オスカーは最後まで抵抗したが、公爵家は申し入れを撤回しなかった。
やがて、交易上の手続きが滞り始め、子爵家と取引のある商会からも、今後の関係を懸念する声が届くようになった。公爵家が直接命令した証拠はなかったものの、誰が圧力をかけているのかは明らかだった。
**
両親が夜遅くまで話し合っていることを、リゼットは知っていた。ある晩、書斎の扉の向こうから父の声が聞こえた。
「私の代で領地を失うことになっても、あの子をあの家にやるべきではない」
「でも、あなた。領民はどうなるのです。あの子だって、自分のために皆が苦しむと知れば、きっと自分を責めてしまうわ」
母の声は震えていた。
リゼットは扉の前で立ち尽くした。
自分があの少年を嫌だと言えば、父と母だけでなく、領地の人々まで困るのだろうか。
翌朝、リゼットは両親に言った。
「お父様、お母様。わたくし、公爵家へお嫁に参ります」
マリアンヌは娘を抱きしめ、何度も首を横に振った。
「そんなことを、あなたが考えなくてもいいのよ」
「でも、ディートリヒ様は、わたくしを気に入ってくださったのでしょう?」
リゼットは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「わたくしが頑張れば、きっと大丈夫です」
その言葉を聞いたオスカーは、娘の前で初めて涙を流した。
こうして婚約は成立した。
ディートリヒは大喜びし、ベアトリスも満足した。レオポルトは面倒な話が片づいたと安堵し、ほどなく領地へ戻っていった。リゼットだけが、婚約を祝う席で何度も繰り返された「おめでとうございます」という言葉を、どう受け止めればよいのかわからなかった。
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