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従順な婚約者の辞め方  作者: なみゆき


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第一話 公爵令息が見初めた少女

※全18話執筆済み。完結まで順次投稿予定です。

今日複数話投稿します。

 リゼット・フォン・リーヴェルトが、ディートリヒ・フォン・ヴァルディエに初めて出会ったのは、七歳の春だった。


ヴァルディエ公爵家が主催する春の茶会には、寄子にあたる貴族家の子供たちも招かれていた。リーヴェルト子爵家もその一つであり、長女のリゼットは母から教えられた礼儀作法を何度も胸の内で確認しながら、王都でも指折りの豪奢な屋敷へ足を踏み入れた。淡い水色のドレスは母がこの日のために仕立ててくれたもので、襟元には小さな真珠が縫いつけられ、栗色の髪には父から誕生日に贈られた銀細工の髪飾りが光っていた。子爵家は決して裕福ではなかったが、父も母も、初めて公爵家の茶会に出席する娘が恥をかかないよう、できる限りの支度を整えてくれたのだった。


「君がリーヴェルト子爵の娘?」

声をかけてきたのは、金色の髪と青灰色の瞳を持つ、美しい少年だった。リゼットは相手が公爵家の嫡男であると気づき、丁寧に膝を折った。


「リゼット・フォン・リーヴェルトと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


「ふうん。君、ずいぶん大人しいんだね。ほかの子たちは僕と話したがっているのに、君はさっきから隅にいるばかりだ」


「皆様のお話のお邪魔にならないようにと思いまして」


「それは遠慮深いんじゃなくて、社交が苦手なだけじゃないの?」

ディートリヒは悪びれもせずに言った。リゼットが困ったように微笑むと、彼は彼女の髪飾りに目を留めた。

「その髪飾り、あまり似合っていないよ。君みたいな地味な子には、もっと小さな飾りのほうがいいんじゃないかな」


「父からいただいた、大切なものなのです」


「僕は似合わないと言ったんだけど? 君は人の話をきちんと聞かないんだね」


リゼットは戸惑った。髪飾りが似合うかどうかはともかく、父が選んでくれたものを悪く言われるのは悲しかった。しかし、公爵家の嫡男に言い返すわけにもいかず、申し訳ございませんと頭を下げると、少年はますます不満そうな顔になった。


「謝ればいいというものでもないよ。僕は君が恥をかかないように教えてあげているんだから、まずは感謝するべきじゃないかな」


そう言って、ディートリヒはリゼットの髪から飾りを抜き取った。突然のことに彼女は小さく息を呑んだが、少年は気にした様子もなく、銀細工を指先で揺らしている。


「お返しいただけますか」


「どうして?」


「父からの贈り物ですので」


「それはさっき聞いたよ。君は本当に話が下手だね。人にお願いするときは、相手が返してあげたいと思うような態度を取らなくちゃ。そんなことも教わっていないの?」


父と母は礼儀に厳しい人たちだったし、他人の持ち物を勝手に取り上げてはいけないことも教えてくれた。けれど、それを口にすれば公爵令息を非難したことになる。リゼットはしばらく迷った末、もう一度頭を下げた。

「どうか、お返しくださいませ」


「それだけ? 本当に大切なら、もっと一生懸命お願いできるはずだよ。そうだな、跪いてみたらどうかな」


ディートリヒは笑っていた。周囲の子供たちが見れば、少し気難しい少女をからかっているだけの、無邪気な少年に見えただろう。けれど、リゼットには彼が本気で言っていることがわかった。


父は領地へ帰る前に、リゼットに何度も言い聞かせていた。ヴァルディエ公爵家はリーヴェルト家の寄親であり、領地の交易や王都での政治的な後ろ盾を担っている。失礼があれば、困るのは自分たちだけではないのだと。七歳のリゼットには貴族社会の仕組みなど十分に理解できていなかったが、自分が何か失敗すれば父と母が困るということだけは、よくわかっていた。

目に涙が浮かんだ。泣いてはいけないと思うほど喉の奥が苦しくなり、何とかこらえようとすると、今度は唇が震えそうになる。ディートリヒはその様子をじっと眺めていた。さっきまで静かに微笑んでいた少女が、今は自分の言葉一つで泣きそうになっている。嫌だと思っているのに逆らえず、懸命に礼儀正しく振る舞おうとしている姿が、彼にはひどく面白かった。もう少し困らせれば、どうなるだろう。泣きながら許しを乞うだろうか。それとも、とうとう我慢できずに怒り出すだろうか。どちらにしても、自分がこの少女をそこまで追い詰められるという事実が、妙に心地よかった。


「ほら、リゼット。僕は君のために言っているんだよ。そんな顔をされたら、まるで僕が意地悪をしているみたいじゃないか」


「……申し訳ございません」


「そういうときは、申し訳ありませんじゃなくて、ありがとうございます、だろう?」


リゼットが小さな声で礼を言うと、ディートリヒはようやく満足した。彼女が髪飾りを受け取ろうと手を差し出したところで、少年はわざとそれを高く持ち上げた。


「まだ返すとは言っていないよ。君は本当にせっかちだね」


そのとき、背後から女性の声がした。


「あら、ディートリヒ。何をしているの?」


公爵夫人ベアトリスだった。リゼットは助けが来たと思い、ほっとして顔を上げたが、夫人は少年の手にある髪飾りと、涙をこらえる少女を見比べると、面白そうに目を細めた。


「まあ、リーヴェルト子爵家のお嬢さんね。どうなさったの、そんなお顔をして」


「母上、この子は少し頑固なんです。僕が似合わない髪飾りを外してあげたのに、どうしても返してほしいと言うんですよ」


「そうなの? それは困ったわね」


ベアトリスはリゼットの前にしゃがみ込み、いかにも優しげな声音で言った。


「リゼットさん、ディートリヒはあなたのためを思って助言しているのよ。公爵家の者から直接教えていただける機会なんて、子爵家のお嬢さんにはそうそうないことでしょう? それなのに、そんな泣きそうなお顔をしていては、親切にしてくださった方に失礼ではなくて?」


リゼットは返事に困った。自分の髪飾りを返してほしいとお願いしただけなのに、なぜ叱られているのだろう。しかし、ベアトリスは彼女が黙っていることさえ気に入らなかったらしい。


「お返事は? 目上の者に話しかけられたら、きちんと答えるものですよ」


「……はい。申し訳ございません」


「まあ、素直なところはあるのね。最初からそうしていれば、ディートリヒも困らずに済んだでしょうに」


ベアトリスは息子に微笑みかけた。


「あなたは本当に面倒見がいい子ね。でも、あまり世話を焼きすぎてはいけませんよ。人にはそれぞれ、生まれ育った環境というものがあるのですから」


ディートリヒは得意げに頷いた。リゼットは二人の会話を聞きながら、どうして自分が悪いことになっているのか、考えてもわからなかった。ただ、公爵夫人が息子を褒めるたび、少年が嬉しそうにこちらを見るので、これ以上何か言われないようにと目を伏せた。


「母上、僕、この子が気に入りました」


「まあ、そうなの?」


「僕がちゃんと教えてあげれば、きっともっといい子になると思うんです」


ベアトリスは再びリゼットを見た。小さな少女はうつむいたまま、涙をこぼすまいと懸命にこらえている。理不尽なことを言われても、身分の違いを理解して逆らわない。その従順さは、ベアトリスにとって何より魅力的に映った。


**

 夫レオポルトは、息子が生まれてからほとんど王都へ戻らなくなっていた。学生時代から関係を続けている女を領地に囲い、公爵夫人には金銭的な不自由をさせない代わりに、夫としての関心を向けることをやめてしまった。ベアトリスは正妻だった。公爵家の女主人であり、王都の社交界でも相応の敬意を払われる立場にあった。にもかかわらず、夫の愛情は、正式な妻の座に就くこともできない女に向けられている。その屈辱を、彼女は何年も抱えていた。


夫には何を言っても聞き入れてもらえない。息子だけが自分の望みどおりに育ってくれたが、いずれその息子も結婚し、妻を持つことになる。そうなれば、自分はこの広い屋敷で、ますます孤独になるのではないか。だが、目の前の少女ならどうだろう。家格の低い子爵家の娘であり、寄親である公爵家には逆らえない。息子が少しからかっただけで、泣くのをこらえながら頭を下げている。この娘を嫁に迎えれば、息子は喜び、自分にも従順な若い女が手に入る。嫁という立場なら、多少厳しく接しても教育のためだと言えるし、息子の妻として公爵家に入った以上、簡単に出ていくこともできない。


ベアトリスはリゼットの頬に優しく手を添えた。

「リゼットさん。あなた、ディートリヒのお嫁さんになりたい?」


突然の問いに、リゼットは目を見開いた。

「……え?」


「まあ、そんなに驚かなくてもいいでしょう。ディートリヒはあなたを気に入ったようですし、あなたにとっても悪いお話ではないと思うのよ」


リゼットは答えられなかった。目の前の少年は、自分の大切な髪飾りを取り上げ、跪くように命じた相手である。できることなら、もう二度と会いたくなかった。しかし、ベアトリスは少女の沈黙を、身に余る幸運に戸惑っているためだと解釈した。


「恥ずかしがらなくてもいいのよ。子爵家の娘が公爵家に嫁げるなんて、滅多にない幸運ですもの。ご両親もきっと喜んでくださるわ」


「母上、僕、この子がいいです」

ディートリヒがそう言うと、ベアトリスは満足げに頷いた。


「そうね。あなたがそこまで気に入ったのなら、お父様にお話ししてみましょう」


その日の夕方、リゼットはようやく髪飾りを返してもらった。銀細工の細い部分が少し曲がっていたが、誰にも言わなかった。母に心配をかけたくなかったし、父が公爵家に抗議するようなことになれば大変だと思ったからだ。


帰りの馬車で、母マリアンヌが娘の顔を覗き込んだ。


「リゼット、何かあったの? ずいぶん疲れた顔をしているわ」


「いいえ、お母様。少し緊張してしまっただけです」


「そう。初めての大きなお茶会だったものね。今日はゆっくり休みなさい」


母は優しく微笑み、娘の髪を撫でた。リゼットはその手に頬を寄せ、ようやく安心して目を閉じた。公爵家の茶会はもう終わったのだから、あの少年に会うこともないだろうと考えていたが、そのわずかひと月後、ヴァルディエ公爵家から正式な婚約の申し入れが届くことになる。

お読みいただきありがとうございます。

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