第十七話 再会
リゼットとフロリアンの婚約が正式に発表されたとき、ディートリヒはその知らせを信じなかった。
隣国の王家につながるクラウゼン伯爵家の当主が、リゼットを妻に迎えるというのである。しかも、婚約は王家の承認を受けた正式なものであり、リゼットは王宮侍女としての職務を続けることも認められていた。
「そんな馬鹿なことがあるものか」
ディートリヒは新聞を握りしめた。
「リゼットが、伯爵と婚約するだって? あの子が僕以外の男を選ぶはずがない!」
ベアトリスも、顔をしかめた。
「きっと何かの間違いよ。あの娘に、そんな縁談があるはずありませんもの。子爵家の娘が、王家につながる伯爵家の当主と婚約するなんて、普通では考えられないことですわ」
「そうでしょう、母上。リゼットは昔から、少し人を信じやすいところがありましたからね。きっと、あの伯爵に何かうまいことを言われたんでしょう」
ディートリヒは、リゼットが自分の意思で婚約を結んだという事実を受け入れようとしなかった。
彼女は長年、自分の指導を受け、何を言われても従ってきた女性である。そんな彼女が、婚約を解消してわずかな期間で別の男を選ぶなど、あってよいはずがなかった。
しかも、相手は隣国王家の血を引く伯爵だった。
ディートリヒは公爵家の嫡男である自分の身分を誇りにしていたが、フロリアンは伯爵でありながら王家の傍系にあたり、若くして当主の地位に就いている。単純な爵位の上下だけで相手を見下すことはできず、隣国の王宮でも相応の影響力を持つ人物だった。
何より腹立たしかったのは、リゼットがその男と幸せそうにしているという噂だった。
ディートリヒは、彼女が自分との婚約を解消したことを、いずれ後悔すると信じていた。公爵家の嫡男との結婚を失い、外国の王宮で働きながら、自分がどれほど恵まれた立場にいたのかを思い知るだろう。そうなれば、彼女が謝罪して戻ってくることもあるかもしれないと、心のどこかで期待していたのである。
しかし、現実は違った。
リゼットは王宮侍女として評価され、王家につながる伯爵との婚約まで認められていた。彼女が自分を失って困っている様子など、どこにもなかった。
ディートリヒは、最後に一度だけリゼットに会おうと決めた。
隣国で開かれた公式の祝賀会に、公爵家の嫡男という身分を利用して出席した彼は、会場でリゼットの姿を探した。かつての婚約者は、落ち着いた色合いのドレスを身につけ、ほかの招待客と穏やかに会話していた。学院にいた頃と変わらない栗色の髪を上品に結い上げ、相手の話に耳を傾けながら、ときおり自然な笑顔を見せている。
ディートリヒは、その姿を見て不快になった。
自分の前では、あんなふうに笑ったことがなかったからである。
「リゼット」
声をかけられたリゼットは、静かに振り向いた。
「ディートリヒ様。ご無沙汰しております」
彼女の声は落ち着いていた。
驚いた様子も、怯えた様子もなく、ほかの招待客に接するときと変わらない礼儀正しい態度だった。
ディートリヒは、そのことが気に入らなかった。
以前のリゼットなら、自分の姿を見ただけで緊張し、何か失礼がなかったかと気にしていただろう。彼が少し眉をひそめれば、すぐに謝罪し、機嫌を直してもらおうとしたはずだった。
ところが、目の前の彼女は違った。
「君は、随分と変わったね」
「そうでしょうか」
「僕に相談もなく婚約を解消し、今度は別の男と婚約するなんて、昔の君なら考えられなかったことだよ。僕はね、君が少し道を踏み外してしまったのではないかと心配しているんだ」
リゼットは黙っていた。
ディートリヒは、その沈黙を懐かしく感じた。
彼女は昔から、注意されると何も言えなくなるところがあった。今回も、きっと自分の言葉を聞いて反省しているのだろう。
「でも、僕は君を責めるつもりはないよ。君が戻りたいと言うのなら、今からでも考えてあげてもいい。もちろん、以前のように簡単にはいかないだろうけれど、僕がきちんと指導すれば、またやり直せると思うんだ」
「ディートリヒ様」
リゼットは静かに彼の言葉を遮った。
「わたくしは、戻るつもりはございません」
ディートリヒは眉をひそめた。
「君はまだ、自分の立場がわかっていないようだね。僕は君のためを思って言っているんだよ。あの伯爵がどれほど立派な人物かは知らないけれど、君の欠点をすべて理解したうえで、僕のように根気よく面倒を見てくれるとは限らないんだ。君は昔から、僕がいなければ何もできなかっただろう?」
「いいえ。今は、よく理解しております」
「だったら、どうして――」
「わたくしは、あなたと結婚したくなかったのです」
ディートリヒは言葉を失った。
リゼットは続けた。
「あなたは、わたくしが何をされても従っていたことを、愛情だと思っていらっしゃいましたね。けれど、わたくしはあなたを恐れていただけです。家族に迷惑をかけたくなくて、逆らえなかっただけなのです」
「そんなはずがない。君はいつだって、僕のために――」
「いいえ。わたくしは、自分の家族のために耐えておりました」
ディートリヒは、何かを言い返そうとした。しかし、リゼットの表情を見て、言葉が出なくなった。
彼女は泣いていなかった。怯えてもいなかったし、怒ってさえいなかった。ただ、目の前の男に対して、何の期待も抱いていないことが伝わってきた。
「リゼット、君は僕を憎んでいるのか?」
彼女は少し考えた。
「いいえ」
ディートリヒの顔に、わずかな希望が浮かんだ。
「だったら、まだ――」
「あなたを憎み続けるために、これからの時間を使いたいとは思いません」
その言葉に、ディートリヒは息を呑んだ。
「わたくしは、ようやく自分の人生を生きられるようになりました。どうか、これ以上関わらないでくださいませ」
彼女が立ち去ろうとしたとき、フロリアンが近づいてきた。
「リゼット、そろそろ次のご挨拶に向かいましょうか」
「はい、フロリアン様」
リゼットは、自然な笑顔を浮かべた。
ディートリヒは、その笑顔を見たことがなかった。
七歳の春から、何年も彼女を自分のそばに置いてきた。叱り、教え、時には泣かせ、彼女が自分に従うことを当然だと思っていた。しかし、目の前のリゼットは、彼の知らない顔で笑っていた。
フロリアンはディートリヒに軽く会釈すると、リゼットに手を差し出した。彼女は迷うことなく、その手を取った。
二人が去っていく姿を、ディートリヒはただ見つめていた。
彼はようやく理解した。
リゼットは、自分を愛していたから耐えていたのではない。自分から逃げるために、耐えていたのだ。
そして、彼女はもう二度と、自分のもとへ戻ってこない。
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