第十六話 隣国の人
隣国の王宮で働き始めたリゼットは、これまでとはまるで異なる生活に、最初のうちは戸惑うことが多かった。
王宮侍女の仕事は決して楽ではなく、外交文書の整理や外国使節の接遇、宮廷行事の準備など、覚えるべきことは山ほどあった。王族に仕える者としての礼儀作法も厳しく、わずかな判断の誤りが大きな問題につながることもあるため、研修期間中は毎日のように新しい課題を与えられた。
それでも、リゼットは仕事を苦痛だとは思わなかった。間違えれば何がいけなかったのかを説明してもらえたし、正しく仕事を終えれば、その成果を認めてもらえる。指導役の侍女長は厳格な女性だったが、個人的な機嫌で評価を変えることはなく、わからないことを尋ねても、なぜそんなことも知らないのかと嘲笑するようなことはなかった。
ある日、リゼットは外交文書の整理で小さな誤りを犯した。文書の分類を取り違え、別の部署へ回すべき書類を保管庫へ送ってしまったのである。幸い、確認の段階で発見されたため大きな問題にはならなかったが、報告を受けた侍女長に呼び出されたとき、リゼットは思わず身を強張らせた。
「リーヴェルト、こちらの文書の分類を間違えたそうですね」
「はい。わたくしの確認が不十分でございました。申し訳ございません」
「今後は文書番号だけでなく、差出人と内容も確認するようにしてください。今回は早い段階で気づけましたが、外交文書の取り扱いには十分な注意が必要です」
「承知いたしました。今後は同じことを繰り返さないよう、確認を徹底いたします」
侍女長は頷き、次の仕事について説明を始めた。リゼットはしばらくその場に立っていたが、ほかに何も言われないことに気づくと、思わず顔を上げた。
「何か質問がありますか?」
「……いいえ。失礼いたしました」
侍女長は不思議そうに彼女を見たものの、それ以上は何も言わなかった。リゼットは部屋を出てから、ようやく自分が何を待っていたのかに気づいた。ディートリヒやベアトリスであれば、一度の失敗を何度も蒸し返し、謝罪が足りない、反省が見えない、将来が心配だと、延々と説教を続けただろう。相手の気が済むまで頭を下げていなければ、話を終わらせてもらえなかった。
しかし、王宮では違った。仕事上の失敗は仕事上の問題として扱われ、必要な指導が終われば、それ以上責められることはなかった。リゼットはそのことに安堵すると同時に、これまで自分がどれほど不自然な環境に置かれていたのかを、少しずつ理解するようになった。
王宮での生活に慣れ始めた頃、リゼットは回廊で懐かしい青年と再会した。
「リゼット嬢、お久しぶりです」
声をかけられて振り向くと、フロリアン・フォン・クラウゼンが立っていた。
学院にいた頃と変わらない穏やかな笑顔を浮かべており、リゼットは思わず顔をほころばせた。
「クラウゼン様。ご無沙汰しております」
「王宮での生活はいかがですか。仕事には慣れましたか?」
「毎日、学ぶことばかりでございます。失敗することもありますけれど、皆様が丁寧にご指導くださいますので、とても充実しております」
「それはよかった。あなたなら、きっと立派に務められると思っていました」
リゼットは礼を述べながら、以前から気になっていたことを尋ねようか迷った。
王宮に来てからというもの、フロリアンについて耳にする機会が増えていたが、学院で知っていた彼の姿と、周囲の人々が語る人物像には、どうにも隔たりがあったのである。
「ところで、クラウゼン様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「こちらでは、皆様があなたを伯爵閣下とお呼びになるのですが……」
フロリアンは少し困ったように笑った。
「学院では、あまり身分の話をしていませんでしたね。実は、僕はクラウゼン伯爵家の当主なんです」
リゼットは目を見開いた。
「伯爵家の……当主でいらっしゃるのですか?」
「ええ。家は王家の傍系にあたり、僕自身も若くして爵位を継ぎました。学院へ留学していたのは、外国の制度や文化を学ぶためです」
リゼットは慌てて膝を折ろうとしたが、フロリアンは穏やかに制した。
「どうか、学院にいた頃と同じように接してください。僕は、あなたと話す時間が好きだったんです」
「ですが、伯爵閣下でいらっしゃると知りながら、以前と同じように接するわけには……」
「では、学院で一緒に勉強していた頃の僕は、あなたにとって何者だったのでしょう」
突然の問いに、リゼットは戸惑った。
「同じ学院で学ぶ、親切な方でございました」
「それなら、今も同じです。爵位を持っているからといって、僕自身が別の人間になったわけではありませんから」
フロリアンはそう言って微笑んだが、リゼットはすぐには頷けなかった。
これまで彼女が接してきた高位貴族の中には、身分の違いを理由に、相手へ一方的な要求をする者が少なくなかった。特にディートリヒは、公爵家の嫡男であることを当然のように振りかざし、リゼットが従わなければ、身の程をわきまえていないと責めた。
フロリアンが同じような人間ではないことは、学院時代から知っていた。それでも、王家につながる伯爵本人だと聞けば、無意識に身構えてしまうのは仕方がなかった。
彼はそんな彼女の様子を見て、それ以上無理に以前の関係へ戻そうとはしなかった。
ただ、仕事の邪魔にならない程度に声をかけ、王宮での生活について尋ね、彼女が何か困っていることはないかと気遣った。
やがて、リゼットも少しずつ以前のように話せるようになった。
フロリアンは、学院にいた頃と同じく、彼女の意見を最後まで聞き、考えが違っていても頭ごなしに否定しなかった。仕事について相談すれば、必要な助言を与えてくれたが、彼女が自分で判断できることについては、決して答えを押しつけようとはしなかった。
ある日、王宮の庭園を歩いていたとき、リゼットは以前から気になっていたことを尋ねた。
「フロリアン様は、どうしてわたくしに王宮侍女の試験を勧めてくださったのですか?」
彼は少し考えた。
「あなたが、その制度について興味を持っていたからですよ」
「それだけでございますか?」
「ええ。もちろん、あなたが何か事情を抱えているのではないかとは思っていました。ただ、あなたが話したくないことを、僕が無理に聞き出すべきではないでしょう」
リゼットは足を止めた。
「わたくしが、ディートリヒ様との婚約を解消したがっていることに、気づいていらしたのですか」
「そこまではわかりませんでした。ただ、あなたが彼と話した後、いつも苦しそうな顔をしていたことは覚えています。学院では、彼を理想的な婚約者だと褒める人が多かったけれど、僕には、あなたが幸せそうには見えなかったんです」
リゼットはしばらく黙っていた。
学院時代、ディートリヒは誰からも優しい婚約者だと褒められていた。彼がリゼットのためにどれほど時間を割き、根気よく指導しているかを語るたび、周囲の人々は感心し、彼女に向かって、そんな婚約者を持てて幸せだと言った。
リゼット自身も、そう答えなければならなかった。
「……わたくしは、誰にも気づかれていないと思っておりました」
「あなたが何も話そうとしなかったので、僕も何が起きているのかわかりませんでした。ただ、あの頃のあなたが、何かをひどく恐れていたことだけは覚えています」
リゼットは目を伏せた。
「わたくし、何度もお声をかけていただいたのに、逃げるような態度を取ってしまいました。申し訳ございません」
「謝る必要はありませんよ。あの頃のあなたには、そうする理由があったのでしょう」
フロリアンは穏やかに答えた。
「それに、あなたが今、こうして笑っていらっしゃるのなら、僕はそれで十分です」
リゼットは顔を上げた。
彼は、彼女が自分を頼らなかったことを責めなかった。助けようとしたのに拒絶されたと怒ることもなく、これまでの協力を恩に着せることもなかった。
そのことが、リゼットには何よりありがたかった。
二人の交流は、王宮での仕事を通じて少しずつ深まっていった。フロリアンは公務のために王宮を訪れることも多く、リゼットが担当する行事で顔を合わせる機会もあった。彼は彼女の仕事ぶりを正しく評価し、彼女もまた、彼の誠実さや周囲への気遣いに触れるうちに、以前より自然に笑えるようになっていった。
やがて、フロリアンはリゼットに婚約を申し込んだ。
それは、王宮の庭園で二人きりになった午後のことだった。フロリアンはいつになく真剣な表情で、リゼットに向き合った。
「リゼット。僕は、あなたとこれからの人生を共に歩みたいと思っています」
リゼットは驚いて彼を見つめた。
「フロリアン様……」
「ただ、あなたが今の仕事を続けたいのなら、それを尊重したい。婚約も結婚も、あなたが望むときに考えてくれればいいと思っています。僕の気持ちに応えなければならない理由はありませんし、断られたからといって、あなたとのこれまでの関係を否定するつもりもありません」
彼の言葉を聞きながら、リゼットはかつての婚約を思い出していた。
七歳の春、自分の意思を尋ねられることなく、ディートリヒとの婚約が決められた。結婚後の生活も、交友関係も、実家への帰省も、すべて公爵家の母子によって決められようとしていた。彼女が何を望んでいるかなど、二人にとっては最初から問題ではなかったのである。
しかし、フロリアンは違った。
彼は自分の気持ちを伝えたうえで、リゼットがどうしたいのかを尋ねてくれた。王家につながる伯爵という立場でありながら、子爵家の娘である彼女に返事を強要することもなく、仕事を辞めるよう求めることもなかった。
「フロリアン様」
「はい」
「わたくしは、あなたと一緒に生きていきたいと思います」
フロリアンは、しばらく彼女を見つめていた。それから、心から嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、リゼット」
リゼットも微笑み返した。
二人の婚約については、王宮侍女としての職務に支障がないことを確認したうえで、王家の承認を得ることになった。隣国の法律では、王宮侍女が外国貴族と婚姻することは原則として認められていなかったが、自国の貴族との婚約については別の規定があり、王家の許可を得れば婚姻も可能だった。
リゼットは、かつて自分を公爵家から守るために調べた法律が、今度は自分の意思で選んだ相手との将来を認めるものでもあることを、少し不思議に思った。
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