第十五話 崩壊
レオポルト公爵が領地から王都へ戻ったのは、王国法務院から正式な呼び出しを受けたためだった。学生時代から関係を続けている愛人セシリアと領地で暮らしていた彼にとって、王都の本邸で起きた問題は、できる限り関わりたくないものだった。妻と息子が婚約を望み、自分はその要求を承認しただけである。婚約が解消されたのであれば、あとは当事者同士で話をつければよいと考えていた。
しかし、法務院の調査は、彼の思惑どおりには進まなかった。
「私は、そこまで重大な問題になるとは思っていなかった。婚約契約についても、妻が用意したものを承認しただけだ」
レオポルトはそう弁明したが、法務官は提出された契約書を示しながら、冷静に答えた。
「公爵閣下。問題は、重大な結果を予想していたかどうかではございません。契約の内容を理解し、不当な条項が含まれていることを承知しながら、当主として承認されたという事実です」
「私は、妻と息子の希望を尊重しただけだ」
「その結果、リーヴェルト子爵家は婚約を解消する自由を事実上奪われ、失効した寄親権限を根拠とする圧力を受け続けておりました。公爵家の当主として、その責任を免れることはできません」
レオポルトは言葉を失った。
妻と息子の執着が尋常ではないことは、最初から気づいていた。子爵家に一方的な負担を強いる契約であることも理解していたが、妻との口論を避け、息子の機嫌を損ねないために、深く検討することなく署名したのである。
王家は公爵家に対し、寄子への不当な干渉を禁じるとともに、領地管理について監査を行うことを決定した。これまで公爵家の権威を背景に認められてきた特権の一部も見直され、政治的な影響力は急速に低下していった。
レオポルトは、領地へ戻って以前のような生活を続けることも難しくなった。王家の監督を受ける立場となった以上、当主としての責務を放棄して愛人との生活を優先することは、これまで以上に問題視される。セシリアとの関係そのものを問われたわけではなかったが、公爵家の管理責任を果たさなければ、さらに厳しい処分を受ける可能性があった。
久しぶりに本邸へ戻ったレオポルトを待っていたのは、激怒した妻だった。
「あなたがきちんと対応してくだされば、こんなことにはならなかったのよ! わたくしがどれほど恥をかかされたか、ご存じですか。慈善事業の役職まで辞任させられて、今では親しくしていた方々も、わたくしを避けるようになってしまったのです」
「そもそも、あの娘との婚約を望んだのはお前とディートリヒだろう。私は最初から反対していた」
「反対なさった? 最後には承認したではありませんか。今さら、すべてわたくしの責任だとおっしゃるおつもり?」
「お前があまりにしつこく要求するからだ。私は公爵家の将来を考えれば、もっとふさわしい縁談があると言ったはずだぞ」
「あなたはいつもそうですわ! 面倒なことはすべてわたくしに押しつけて、領地のあの女のところへ逃げてしまう。息子の教育も、屋敷の管理も、社交界でのお付き合いも、すべてわたくし一人に任せきりだったではありませんか!」
レオポルトは不快そうに眉をひそめたが、妻の言葉を否定することはできなかった。彼が長年にわたって家庭を顧みなかったことは事実であり、その負い目があったからこそ、妻と息子の要求を拒みきれなかったのである。
しかし、ベアトリスにとっても、夫の不実は自分の行動を正当化する理由にはならなかった。彼女は夫から愛情を得られない屈辱を抱えながら、息子の婚約者となった幼い少女に、その不満を向け続けてきた。リゼットが頭を下げるたびに満足し、涙をこらえる姿を見ては、将来の嫁としての教育が必要だと言い聞かせていたのである。
夫婦の言い争いは、やがて屋敷中に響くようになった。
ディートリヒもまた、母親を責め始めた。
「母上がリゼットに厳しくしすぎたから、あの子は逃げたんだ! 僕は何度も、もう少し優しくしてあげてほしいとお願いしたじゃありませんか」
ベアトリスは耳を疑った。
「あなたがあの娘を欲しがったのでしょう! わたくしはあなたのために婚約をまとめてあげたのよ。それなのに、今になってわたくしが悪いとおっしゃるの?」
「彼女は僕を愛していたんだ。母上があれほど細かく叱らなければ、リゼットだって婚約を解消しようなどとは思わなかったはずだ!」
「愛していた? あなたはあの娘が泣くのを楽しんでいたではありませんか!」
その言葉に、ディートリヒは顔色を変えた。
「……母上、何をおっしゃっているんですか」
「わたくしが気づいていなかったとでも思っているの? あなたがあの娘をからかい、泣くのをこらえる姿を面白がっていたことくらい、最初から知っていましたわ。あの子があなたの言うことを聞くから、ますます調子に乗っていたのでしょう」
ディートリヒは、しばらく母親を見つめていた。それから、ゆっくりと笑った。
「母上だって、同じだったじゃありませんか。僕がリゼットを叱ると、母上はいつも嬉しそうでしたよね。あの子が頭を下げるたび、満足そうに笑っていた。僕が気づいていなかったとでも?」
ベアトリスの顔が強張った。
「何ということを言うの。わたくしは、あの子を立派な公爵夫人にするために――」
「それなら、どうしてあんなに楽しそうだったんですか。リゼットが泣きそうになると、母上はいつも、もっと厳しく教えなければいけないとおっしゃっていたでしょう」
母子は、初めて互いの本性を言葉にした。
それまで二人の間には、リゼットという共通の相手がいた。彼女を教育するという名目で、互いの残酷さを正当化し合うことができたし、どれほど理不尽な要求をしても、リゼットが頭を下げて謝罪すれば、それで問題は収まった
しかし、リゼットがいなくなった今、二人の不満を受け止める者は誰もいなかった。
ベアトリスは、息子が自分を責めることを許せなかった。夫から愛されなかった自分にとって、ディートリヒだけが頼りだったのに、その息子までもが自分を非難するようになったのである。
ディートリヒもまた、母親が自分の味方をしないことに苛立っていた。これまで何をしても母親は正しいと言ってくれたのに、リゼットがいなくなった途端、自分の行動を責めるようになったのだから。
公爵邸には、かつてのような華やかな笑い声が響くことはなくなった。
ベアトリスは使用人の些細な失敗に苛立ち、ディートリヒは母親の小言を避けるようになり、レオポルトは王家からの監査に追われていた。誰もが自分こそ被害者だと考え、ほかの者が悪いのだと責め続けたが、失われた信用も、かつての権威も、戻ることはなかった。
その頃、リゼットはすでに隣国の王宮で新しい生活を始めていた。公爵家の母子が互いを責め合っていることなど、彼女は知る必要もなかったのである。
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