第十三話 婚約解消
婚約解消の正式な通告が行われたのは、リゼットの学院卒業を目前に控えた初夏だった。
ヴァルディエ公爵邸の応接室には、ディートリヒとベアトリス、領地から呼び戻されたレオポルト公爵が揃い、リーヴェルト子爵夫妻とリゼット、王国法務院から派遣された官吏が向かい合って座っていた。
ディートリヒは、リゼットが両親を伴って訪れたことを、最初は婚約者としての義務を果たさなかったことへの謝罪だと思っていた。
王宮侍女の試験を無断で受けたばかりか、結婚を延期するような事態を招いたのだから、子爵夫妻が揃って詫びに来るのも当然だろう。
法務院の官吏が同席していることには多少の疑問を抱いたものの、王宮への赴任について正式な手続きを確認するためだと説明されれば、それ以上深く考えることもなかった。
「リゼット、今日はご両親までお連れして、随分と大げさなことになったね。僕としては、君がきちんと反省してくれれば、それで十分だったんだけれど」
ディートリヒは穏やかに微笑み、リゼットの父オスカーに向かって、いかにも寛大な婚約者らしい口調で続けた。
「子爵も、あまりお気になさらないでください。リゼットはまだ若いですから、時には判断を誤ることもあるでしょう。僕も婚約者として、もう少し注意深く見守るべきだったと反省しています。今後は同じことを繰り返さないよう、きちんと指導していくつもりです」
オスカーは何も答えなかった。
娘が七歳の頃から何度も耳にしてきた、親切を装ったその言い回しに、今さら感謝する気にはなれなかったのである。
ベアトリスも、息子の言葉に満足げに頷いた。
「本当に、ディートリヒは優しい子ですこと。リゼットさん、あなたもこれほど寛大な婚約者を持てたことに、もっと感謝しなければいけませんよ。普通なら、婚約者に相談もなく外国の王宮に仕えようとした時点で、婚約を解消されても文句は言えないのですから」
リゼットは静かに膝の上で手を重ねた。
以前なら、ここで申し訳ございませんと謝罪し、ディートリヒの寛大さに感謝するところだった。しかし、今日は彼らの期待する言葉を口にする必要がない。
法務院の官吏が立ち上がり、正式な裁定書を読み上げ始めると、ディートリヒは最初こそ余裕のある表情で聞いていたが、寄親契約の失効と婚約契約の不当条項について説明が進むにつれ、次第に眉をひそめるようになった。
「少し待っていただきたい。婚約契約が無効だというのは、どういう意味ですか」
官吏は読み上げを中断し、落ち着いた声で答えた。
「ヴァルディエ公爵家とリーヴェルト子爵家の間で締結された婚約契約には、すでに失効した寄親権限を根拠として、子爵家に一方的な負担を課す条項が含まれておりました。王国法務院は、これらの条項を無効と判断し、公爵家側の不当な干渉と契約違反を理由として、違約金を伴わない婚約解消を認める裁定を下しております」
ディートリヒは官吏の説明を聞き終えると、しばらく黙っていた。それから、何か思い違いでも聞かされたように笑った。
「婚約を解消する? リゼット、君は何を考えているんだい。王宮侍女になったからといって、そんな勝手なことが許されると思っているのかな」
「婚約解消は、王国法務院の裁定によって正式に認められております」
「それは聞いたよ。僕が尋ねているのは、君自身がどうしてそんなことを望むのかということなんだ。君は昔から、難しい話になるとすぐに混乱してしまうところがあるだろう? 誰かに何かを吹き込まれて、契約を解消すれば自由になれると思い込んでいるんじゃないかな」
リゼットが答える前に、ベアトリスが扇子を閉じた。
「まあ、リゼットさん。あなた、まさか本気で婚約を解消するつもりなの? 王宮侍女に合格したからといって、少し思い上がっているのではなくて。あなたのご両親も、娘のわがままを止めようとはなさらなかったのかしら」
「公爵夫人」
オスカーが口を開いた。
「娘の婚約解消は、私ども夫婦も望んでいることでございます。これまで娘が受けてきた扱いを考えれば、むしろ遅すぎたと申し上げるべきでしょう」
ベアトリスは信じられないものを見るように子爵を見つめた。
「まあ、何というお言葉でしょう。わたくしたちがリゼットさんのために、どれほど心を砕いてきたか、ご存じないのですか。子爵家では教えられないことまで、わたくしが時間を割いて指導して差し上げたのですよ。それを、まるで虐げられていたかのようにおっしゃるなんて、随分と恩知らずなことですわね」
「妻も私も、娘を公爵家に嫁がせることを望んではおりませんでした。それでも、寄親である公爵家からの申し入れを断れば領民に影響が及ぶと考え、婚約を承諾せざるを得なかったのです」
「承諾なさったのなら、それがすべてでしょう。今さら、無理やり婚約させられたかのようにおっしゃるのは感心しませんわ」
「その承諾を得るために、どのような圧力がかけられたのかは、すでに法務院へ提出しております」
ベアトリスの顔から笑みが消えた。彼女は夫レオポルトへ視線を向けたが、公爵は手元の裁定書を見つめたまま、何も言おうとしなかった。
ディートリヒは、両家のやり取りを苛立たしげに聞いていた。
契約がどうなろうと、リゼットが自分との結婚を望んでいることに変わりはないはずだった。彼女はこれまで、何を言われても従ってきたし、どれほど厳しく指導しても、自分から離れようとしたことなど一度もなかったのだから。
「リゼット、君は少し落ち着いたほうがいい。僕は君を責めるつもりはないよ。ただ、こういう大切なことを、ご両親や法務院の人間に任せきりにするのはよくないと思うんだ。君は僕の婚約者なんだから、まずは僕に相談するべきだったんじゃないかな」
「ディートリヒ様。わたくしは、婚約を解消することを自分の意思で決めました」
「だから、そういうところだよ。君は自分で決めたと言うけれど、その判断が正しいかどうかを考えるだけの経験が、まだ足りないんだ。僕は君の将来を心配しているんだよ。子爵家の娘が公爵家との婚約を解消して、これからどうするつもりなんだい」
「隣国の王宮に仕える予定でございます」
「それは一時的なものだろう。任期が終われば、君は結局、結婚相手を探さなければならない。僕以上の相手が見つかるとでも思っているのかな」
リゼットは静かに首を横に振った。
「わたくしは、あなた以上の方を探すために婚約を解消するのではございません」
「だったら、どうしてそこまで婚約を解消したがるんだい。僕は君に何不自由ない生活を約束しているし、母上も君を娘同然に可愛がってくださっている。それ以上、何を望むというのかな」
「あなたの妻になりたくないからです」
応接室が静まり返った。
ディートリヒは、リゼットの言葉をすぐには理解できなかった。
彼女はいつものように礼儀正しく座っており、声を荒らげたわけでも、感情的になったわけでもない。だからこそ、彼にはその言葉が、ひどく場違いなものに聞こえた。
「……リゼット?」
「わたくしは、あなたと結婚したいと思ったことなど、一度もございません」
「そんなはずがない。君はいつだって僕の言うことを聞いていたじゃないか。僕が厳しくしても、泣きそうになりながら耐えていた。あれほど僕を慕っていた君が、どうしてそんなことを言うんだい」
「わたくしが耐えていたのは、あなたを愛していたからではございません。逆らえば、父や母、弟、そして領民にまで迷惑がかかると思っていたからです」
ディートリヒは即座に否定しようとしたが、リゼットは彼から目を逸らさなかった。
「あなたは、わたくしが何を考えているのか、一度でも尋ねてくださったことがございますか」
「僕はいつも君のことを考えていた!」
「では、わたくしが何を好み、何を嫌い、何を望んでいるのか、ご存じですか」
ディートリヒは口を開きかけたが、答えられなかった。
リゼットが好む色も、好きな食べ物も、学院で何を学びたがっていたのかも、彼にはわからなかった。彼が知っているのは、自分の言葉に従うリゼットの姿だけだった。
「あなたは、わたくしを教育しているとおっしゃっていました。けれど、わたくしが学んだのは、あなたの機嫌を損ねない方法だけです。何を言えば叱られるのか、どのような顔をすれば満足していただけるのか、どこまで我慢すれば家族に迷惑をかけずに済むのか。そればかりを考えておりました」
「それは、君が僕を失いたくなかったからだろう?」
ディートリヒは、まだ理解できないという顔で尋ねた。
「僕に嫌われるのが怖かったんじゃないのかい。だから、あれほど一生懸命だったんだろう?」
「いいえ。わたくしは、あなたに嫌われて婚約を解消していただけるのなら、どれほどありがたいかと、何度も考えたことがございます」
彼は言葉を失った。
ベアトリスが勢いよく立ち上がった。
「なんて恩知らずな娘なの! わたくしたちがどれほどあなたのために尽くしてきたと思っているの!」
リゼットは夫人に向き直った。
「ベアトリス様。わたくしは、あなたに母親になっていただきたいとお願いしたことはございません。公爵家に嫁ぎたいと願ったことも、一度もございませんでした。わたくしの意思を確かめることなく婚約を決め、逃げられない契約を結ばせたのは、あなた方です」
「それは、あなたの将来を思って――」
「わたくしの将来を思ってくださったのでしたら、なぜ一度も、わたくしの希望を尋ねてくださらなかったのでしょうか」
ベアトリスは顔を赤くした。
「子爵家の娘が、公爵夫人に向かって何という口の利き方を!」
「申し訳ございません。ですが、もうあなたのご指導を受ける立場ではございませんので」
リゼットは丁寧に膝を折った。
「長い間、お世話になりました。今後は、どうかお健やかにお過ごしくださいませ」
彼女が立ち去ろうとすると、ディートリヒが慌てて手を伸ばした。
「待ちなさい、リゼット。僕はまだ話を終えていない!」
しかし、リゼットは振り返らなかった。
官吏が静かに一歩進み、婚約解消の裁定がすでに効力を持っていることを告げると、ディートリヒは不快そうに眉をひそめたものの、それ以上彼女を引き止めることはできなかった。
リゼットは両親とともに応接室を出た。
背後では、ベアトリスが息子を慰めながら、あの娘は少し思い上がっているだけだから、時間を置けばきっと反省するでしょうと話していた。
ディートリヒも、母親の言葉を聞いて少し落ち着いたらしい。リゼットは昔から、自分に叱られると一時的に黙り込むことがあった。今回も、王宮侍女への合格で少し気が大きくなり、身の程を忘れているだけなのだろう。いずれ自分がどれほど恵まれた立場にいたのかを思い出し、謝罪して戻ってくるに違いない。
そう考えると、彼はようやくいつもの余裕を取り戻した。
リゼットが二度と戻らないという可能性を、彼はまだ考えようともしなかった。
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