第十一話 君のためを思って
「リゼット、君には少しがっかりしたよ」
ディートリヒは穏やかな声でそう言うと、手にしていた茶器をソーサーに戻した。陶器の触れ合う小さな音が、妙に大きく聞こえた。
公爵邸の南側にある小客間は、午後の日差しがよく入る部屋だった。窓際には季節の花が飾られ、卓上にはリゼットの好物だとディートリヒが勝手に決めている菓子が並べられている。彼女が甘いものをあまり好まないことを、七年も婚約者でありながら彼は知らなかった。
「僕はね、君が王宮侍女の試験を受けたこと自体を責めているわけじゃないんだ。向上心を持つのは結構なことだし、君のように少々不器用な女性には、むしろ必要なことだと思っている。ただ、物事には順序というものがあるだろう?」
リゼットは膝の上で両手を重ねた。
「はい。おっしゃるとおりでございます」
「そうだね。君はいつもそう言う。僕の言っていることが正しいと理解しているのなら、どうして事前に相談してくれなかったのかな。僕は君の婚約者なんだよ。将来の夫に隠し事をするのが、妻として正しい振る舞いだと思うかい?」
相談などすれば、受験を許されるはずがなかった。
ディートリヒは、リゼットが学院の図書室で借りる本の種類にまで口を出す男だった。
歴史書を読んでいれば、女が政治に関心を持つのは感心しないと言い、外国語の辞書を開いていれば、まずは自国の礼儀作法を完璧にしてからにしなさいと諭す。
学院で良い成績を収めれば、自分が指導した成果だと教師の前で微笑み、彼女が少しでも失敗すれば、だから僕がついていなければ駄目なんだと、周囲に聞こえるようにため息をついた。
彼にとって、リゼットが努力すること自体は問題ではなかった。
ただし、その努力はすべて自分の望む方向に向けられ、成果は自分の手柄として差し出されなければならなかった。
「申し訳ございません。お知らせする機会を逸してしまいました」
「機会がなかった?」
ディートリヒは眉を上げた。
「毎週末、こうして僕たちは会っているじゃないか。母上も君のために貴重な時間を割いてくださっている。それなのに機会がなかったというのは、少し無理のある言い訳だと思わないかい?」
向かいに座るベアトリスが、扇子を閉じた。
「本当にそうね。リゼットさん、あなたは昔から、自分の都合が悪くなると黙ってしまうところがありますわ。わたくしも、あなたを責めたいわけではないのよ。ただ、これでは将来、公爵家の女主人を任せることができるのかと不安になってしまうの。あなたのご両親は、そうしたことを教えてくださらなかったのかしら」
リゼットの指先がわずかに動いた。
自分のことを何と言われても、耐えられる。けれど、両親の名を持ち出されるたび、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。
「両親からは、十分に教えを受けております。今回のことは、私の考えが至らなかったためでございます」
「まあ、そうでしょうとも。オスカー子爵もマリアンヌ夫人も、立派な方ですものね。だからこそ不思議なのよ。どうしてあなたは、いつまでたってもわたくしたちの期待に応えられないのかしら」
ベアトリスは困ったように息をついた。
「わたくしだって、好きで厳しいことを申し上げているのではないのよ。あなたが公爵家に嫁いで恥をかかないように、母親になる者として心を砕いているのです。それを理解していただけないのなら、わたくしも悲しいわ」
悲しい、という言葉を使うときのベアトリスは、決まって少しだけ目を伏せた。その姿は、事情を知らない者が見れば、出来の悪い未来の嫁に心を痛める慈愛深い貴婦人そのものだった。
「母上、リゼットも反省しているようですし、あまりお責めにならないでください」
ディートリヒが取りなすように言った。
「この子は悪気があってしたわけではないんです。少し考えが浅いだけで、根は素直な子ですから。僕がきちんと話せば、わかってくれますよ」
ベアトリスは息子を見て、満足そうに微笑んだ。
「あなたは本当に優しい子ね。そんなあなたに婚約していただけたのだから、リゼットさんは幸せ者だわ」
「そんなことはありませんよ。僕は当然のことをしているだけです」
母子は顔を見合わせて笑った。
リゼットは黙っていた。彼女の意見を求めるための会話ではないことは、とうに承知している。
「それで、リゼット」
ディートリヒは声を和らげた。
「合格したのは立派なことだよ。僕も誇らしいと思っている。もちろん、君がここまで成長できたのは、母上が根気よく教育してくださったおかげでもあるけれどね。今度の夜会では、僕から皆に報告しようと思っているんだ。婚約者が隣国の王宮に認められたとなれば、ヴァルディエ家にとっても名誉なことだから」
「ありがとうございます」
「ただし、実際に赴任するかどうかは別の話だ」
リゼットは顔を上げそうになり、すぐに視線を落とした。
「王宮侍女というのは、確かに名誉な職だ。けれど、君にはすでに婚約者がいる。卒業と同時に結婚することも決まっているんだよ。君一人の都合で、その約束を変更できると思っているのかな」
「……王宮侍女には、任期中の婚姻について制限がございます」
「知っているよ。だからこそ、君の考えの浅さを心配しているんだ。そんな大切なことを、どうして受験する前に確認しなかったんだい?」
リゼットは答えなかった。確認していた。だからこそ、受験したのだ。
「まあ、いい。君が自分の過ちを理解しているのなら、僕もこれ以上責めるつもりはないよ。王宮には、こちらから事情を説明しておこう。君はまだ若いし、婚約者としての義務を十分に理解していなかったのだと伝えれば、先方も納得してくださるだろう」
リゼットは、膝の上で握りしめていた手をゆっくりと開いた。
「恐れ入りますが、ディートリヒ様。王宮侍女の任命については、すでに正式な手続きが進んでおります」
「それがどうしたんだい?」
「辞退することは、難しいと存じます」
ディートリヒの笑顔が、わずかに薄れた。
「リゼット。君は今、僕に逆らっているのかな」
「いいえ。事実を申し上げているだけでございます」
「そういう言い方をするから、君は誤解されるんだよ。僕は君のためを思って、最善の方法を考えてあげているんだ。それなのに、まるで僕が君の将来を邪魔しているような言い方をするのは、感心しないね」
ベアトリスが扇子を開いた。
「リゼットさん、あなたは少し思い上がっているのではなくて? 王宮侍女に合格したからといって、公爵家より偉くなったわけではないのですよ。あなたがどれほど優秀でも、子爵家の娘であることに変わりはありませんし、将来は我が家に嫁ぐ身なのです。そのことを忘れてはいけませんわ」
リゼットは静かに頭を下げた。
「承知しております」
「本当に理解しているのかしら。最近のあなたは、少し態度が変わったように思うのよ。以前はもっと素直で、わたくしの言うことをよく聞いていたのに」
ベアトリスは悲しげに息をついた。
「せっかくここまで育ててあげたのに、外の世界で少し褒められたくらいで恩を忘れてしまうなんて、残念だわ」
リゼットは何も言わなかった。
ディートリヒは、そんな彼女を見つめながら、胸の内に不快なものが広がるのを感じていた。
リゼットは自分のものだった。幼い頃から、自分が望めば頭を下げ、叱れば涙をこらえ、どれほど厳しくしても離れようとしなかった。結婚すれば、彼女は公爵邸で暮らし、自分の許可なく外出することも、ほかの男と親しく話すこともできなくなるはずだった。
それなのに、隣国の王宮侍女になれば、彼女は自分の手の届かない場所へ行ってしまう。それが、どうしても許せなかった。
しかし、公爵家の嫡男として、婚約者の栄誉を公然と否定するわけにもいかない。王宮侍女への選抜は、貴族社会でも高く評価される名誉なことである。反対すれば、自分の器の小ささを疑われるだろう。
ディートリヒは、ゆっくりと微笑んだ。
「わかったよ、リゼット。君がそこまで望むのなら、僕も応援しよう。ただし、君が今日、僕と母上をどれほど悲しませたのか、そのことだけは忘れないでほしい」
リゼットは頭を下げた。
「ありがとうございます」
その返事を聞いて、ディートリヒはようやく満足した。彼女がまだ自分に従っていると思えたからだ。
翌週、公爵家が主催した夜会で、ディートリヒは婚約者の王宮侍女選抜試験合格を誇らしげに報告した。
「リゼットは昔から少し不器用なところがありましたが、母上と僕が根気よく指導してきた成果が、ようやく形になりました。本人も努力してくれましたし、僕としても嬉しい限りです」
周囲からは称賛の声が上がり、ベアトリスも、将来の嫁が王宮に認められたことを誇らしげに語った。しかし、二人が内心ではリゼットの赴任を快く思っていないことを、誰も知らなかった。
リゼットは、その夜会でもいつもどおり微笑んでいた。ディートリヒの隣で礼を述べ、ベアトリスから紹介されるたびに丁寧に膝を折った。周囲の人々は、彼女が公爵家の指導に感謝しているのだと思っただろう。
だが、リゼットが胸の内で考えていたのは、王国法務院からの返答がいつ届くかということだけだった。
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