第六話 さしずめ、歯車のごとく
「義亜乃。怪我は」
「ありません」
「本当に?」
「確認します」
私は自分の両手を開き、腕、肩、足の順に動かした。
痛みはない。
ただ、背中に回された為澄の腕が離れない。
「為澄さん」
「なんだ」
「検査は終わりました。少なくとも、身体的な損傷はありません」
「……そうか」
為澄はようやく私を離した。
別に、不快だったわけではない。
けれど昨夜知り合った男性に抱き寄せられたまま、冷静に検査を続けられるほど、私の精神は研究向きにできていなかった。
割れた水盤では、青白い炎の残滓が消えかけている。
「常磐殿」
一人の技官が、警戒した目を私へ向けた。
「この女人を、ここから出すべきではない。昨夜の濁りも今の濁りも、この者を追って現れた」
「それはまだ仮説です」
私が答えると、技官は眉をひそめた。
「現に二度も起きている」
「二度しか起きていません。そして、二度とも私が濁りを発生させたとは確認できていない。私を隔離すること自体には反対しませんが、目的と解除条件を決めてください」
「解除条件?」
「いつまで、何を確認するために隔離するのかです。決めなければ、危険かもしれないという理由だけで、私は永久に閉じ込められます」
技官が言葉に詰まった。
「義亜乃を隔離するなら、俺も残る」
為澄が言った。
「昨夜から最も長く接触している。濁りに二度、術を使った。俺も同じ条件で扱うべきだ」
「しかし、常磐殿は――」
「私だからと特別扱いしたのでは、調査としては足らないだろう。それに……、私から、妻を奪わないでもらえるか」
感情的なようで、しかし静かな言葉。庇ってくれているのだろうか。
「記録しました」
七織が帳面から顔を上げた。
「義亜乃殿と為澄殿を同一条件で経過観察する。ひとまず今夜まで。異常がなければ、行動制限を解除する。それでどうでしょう」
技官たちは不満そうだったが、代案は出なかった。
「では、その条件で」
私も同意した。
隔離場所として用意されたのは、境理司の奥にある一室だった。
牢ではない。寝具も机もあり、窓からは小さな庭が見える。
ただし、扉と窓には細かな文字を書いた紙が貼られていた。もし私が濁りを発生させれば、それが光って外へ知らせるという。
「私は入口の外にいます」
七織は廊下へ机を運ばせ、帳面を広げた。
「何か変化があれば、すぐに呼んでください」
「七織さんも一日ここに?」
「記録官ですから」
「昼食は」
「あとで誰かに頼みます」
為澄を見る。
「なんだ」
「仕事のできる人は、食事を後回しにする決まりでもあるんですかね」
七織が廊下で笑った。
しばらくは、何も起きなかった。
私は紙と筆を借り、ここまでに分かったことを整理した。
一、神社の鈴が三度鳴った。
二、三度目の直前に濁りが現れ、境界が開いた。
三、転移先である常磐家にも鳥居があった。
四、私と現代の持ち物には、境の揺らぎが残っている。
五、境映しに神社が映った直後、濁りが現れた。
「文字が違うな」
向かいに座った為澄が、私の紙を覗き込んだ。
私たちには互いの言葉が通じる。しかし、私が書いた日本語を為澄は読めず、彼らの文字も私には読めなかった。
「話し言葉だけが通じるのは、不思議ですね」
「境を渡る際、何らかの作用を受けたのかもしれない」
「文字まで変換するほど親切ではなかった、と」
「読み書きは教えられるが」
「自信はありませんが、やってみましょう」
為澄は筆を取り、紙の端に文字を書いた。
流れるような線で、一文字ごとの区切りが分かりにくい。
「これが、お前の名前だ」
「二文字ですか」
「音を適当に文字に当てた。義亜乃」
私は同じ形をまねてみた。
最初の文字で失敗した。
「難しいです」
「ギアノという音自体、この国では珍しい」
「両親が、歯車を意味する異国の言葉から取りました。やるべきことに徹せよ、と」
「よい名だ」
為澄は紙へもう一度、短い文字を書いた。
「これは?」
「ギィ」
「なぜ短くしたんですか」
「呼びやすい」
「三音が二音になっただけです」
「書きやすくもある」
「あなたが書く場合は、どちらも問題なかったでしょう」
為澄は少し笑った。
「嫌か、ギィ。自身で書くにもこれなら書ける。署名としても便利だと思うが」
呼ばれ慣れない音だった。
自分の名前なのに、自分ではない誰かを指しているようにも聞こえる。
脳内でシミュレーションしてみる。
例えば日本に「クリスティーナ」と言う名前の外国人妻がいたとして、自身の名前をカタカナで「クリス」と書いているとする。
まあ、無くは無いか。
うん。
「現時点では、前向きに検討します」
「却下ではないんだな」
「呼び名の変更がもたらす不利益を、まだ確認できていません」
「なら、使って確かめよう」
どうやら使い続けるつもりらしい。
「為澄さんの名前も短くしましょうか」
「好きにすればいい」
「スミー」
為澄が黙った。
「嫌ですか、スミー」
「……その呼び方は、後ろ向きに検討して、保留にしてくれ」
公平とは難しいものだ。
昼を過ぎても、封の紙に変化はなかった。
濁りが私から常に発生しているわけではない。それだけは確認できそうだった。
「水盤に映った神社は、どの時点で現れた?」
為澄が私の記録を見ながら尋ねた。
「帰る手がかりが私の中にある、と考えた直後です」
「考えたことと、現象に関係があると思うか」
「分かりません。時間的に近かっただけで、因果関係は証明できません」
「似た事例があれば比較できるな」
「過去の記録ですか」
為澄は頷いた。
廊下にいる七織へ声をかける。
「境映しから異景が現れた記録を探したい。季節外れの雪、鐘か鈴の音、黒い濁り。この三つだ」
「記録庫へ照会します」
七織はすぐに立ち上がった。
しかし一刻ほどして戻ってきた彼女は、首を横に振った。
「近年の記録にはありません。ただ、古記録の目録に、似た記述を見つけました」
「いつだ」
「少なくとも百年以上前かと」
予想以上に古い。
「原本を見られますか」
「ひどく傷んでいます。持ち出せないので、こちらから記録庫へ行く必要があります」
私は扉に貼られた紙を見た。
「隔離中ですが」
「俺が同行する。記録庫までの廊下を封じれば、条件は変わらないだろう」
「常磐殿」
七織が呆れた声を出す。
「それでは隔離とは呼べません」
「では、経過観察中の移動だ」
「言い換えても同じです」
「記録を見れば、危険性を判断する材料が増える」
七織は私と為澄を交互に見て、ため息をついた。
「分かりました。私も同行します。何か起きた場合、その方が記録できますから」
「ありがとうございます」
「あなたも大概ですね」
否定はできなかった。
陰陽技寮の記録庫は、石造りの低い建物だった。
火を避けるため、周囲の建物から離されている。中はひんやりとして、乾いた紙と埃の匂いがした。
七織が管理役から木箱を受け取る。
中には、黒ずんだ紙片が何枚も重ねられていた。端は欠け、文字の半分近くが読めなくなっている。
「触れないでください」
七織が布を敷き、その上に紙片を並べた。
「読めるところだけ訳します」
最初の紙には、山と鳥居らしい絵が描かれていた。
「春。都の東にて、夏ならぬ雪が降る。夜ごと、風なくして鈴が鳴る」
私と為澄は顔を見合わせた。
七織が次の紙へ移る。
「七日目、門の内に黒き濁り現る。斬れず、焼けず、水のごとく形を変える」
「同じです」
私の声が、記録庫に響いた。
「私が見たものと」
為澄は紙片を見つめている。
「続きは」
「欠けています。次に読めるのは、ここです」
七織が紙の下端を示した。
「鈴、三度。境開き――」
そこから先は、焼け落ちたように黒く失われていた。
「誰かが渡ってきたとは書かれていませんか」
「この箱に残っているのは、これだけです」
「ほかの記録から引用された可能性は?」
「調べます。ただ、残っているものは少ないかと」
私は、鳥居の絵に目を凝らした。
現代の神社にあったものとも、常磐家の庭にあるものとも似ている。
為澄が、紙片の裏を確かめようと身を乗り出した。
その袖が、隣の紙へ触れかける。
「スミー、そこは触らないで」
為澄の動きが止まった。
七織も止まった。
「……今、なんと?」
「紙に触れそうだったので」
「その前です」
私は答えなかった。
為澄だけが、少し楽しそうに笑っている。
「使って確かめたんだろう、ギィ」
「これは緊急時の省略です」
「俺も同じだ」
「そういうことにしておきます」
七織が、黙って帳面へ何かを書いた。
「今のは記録しなくていいですよ」
「何を残すかを決めるのは、記録官ですから」




