第五話 さしずめ、要素の偏在
服は、身体を覆えればよいというものではない。
少なくとも、偽装結婚の翌朝に夫の職場へ行く場合は。
「苦しくありませんか、奥方様」
「少し」
「では、まだ締められますね」
なぜそうなるのだろう。
ぐええ。
私は常磐家の女中に背中を向けたまま、腹部へ巻かれる帯に耐えていた。
用意された衣は、淡い青緑色だった。袖が広く、裾も長い。昨夜借りた為澄の羽織よりは身体に合っているが、自力で着られる構造には見えない。
「一人で着る方法はありますか」
「奥方様が、お一人で?」
「毎朝これをお願いするのは非効率です」
「奥方様のお支度をするのが、わたくしどもの務めですから」
笑顔で封じられた。
生活様式には、それが成立してきた理由がある。初日に変えようとするべきではない。
そう自分に言い聞かせる。それはそれとしてきっつい。
「よくお似合いですよ」
「ありがとうございます」
磨かれた銅鏡には、少し歪んだ私が映っている。
艶のある黒髪は肩の辺りで切り揃えられている。この国では、成人女性の多くが髪を長く伸ばすらしい。現代では特に目立たなかったぱっつんのミディアムヘアが、ここでは服装以上に異質だった。
「髪も結いましょうか」
「この長さでできますか」
「なんとか」
なんとかされる前に、廊下から声がした。
「義亜乃。起きているか」
為澄だった。
「起きています」
「記録官が来た。支度が済んだら、昨日の部屋へ」
返事をしてから、鏡の中の自分を見る。
昨日まで、入社式に着ていくスーツを用意していた。
今朝は、異世界で偽装した夫の職場へ行くため、着物によく似た衣を着せられている。
人生設計の修正幅としては、かなり大きい。
◇
客間では、為澄と一人の女性が向かい合っていた。
女性は二十代半ばほどに見える。濃い藍色の衣に細い帯を締め、束ねた髪へ銀色の筆を挿していた。傍らには帳面が積まれ、右手にも筆を持っている。
「お待たせしました」
「いいえ。急に呼ばれたのは私の方ですから」
女性は私を頭から足元まで見た。
じろじろ眺められた、という印象はない。
ただ、見落とさないように観察された。
「陰陽技寮付きの記録官、七織です。柳雅殿下の命により、昨夜の境界異常と、あなたについて記録します」
「義亜乃です。よろしくお願いします」
私が向かいへ座ると、七織は為澄を見た。
「席を外していただけますか」
「なぜだ」
「同席者がいれば、証言に影響します」
もっともだった。
「私は構いません」
私が言うと、為澄は少し迷ったあと立ち上がった。
「何かあれば呼べ」
「聞き取りをされるだけですよね」
「そのはずだ」
「境理司の技官に信用がないのですね」
七織が淡々と言う。
「妻を守りたいだけだ」
為澄が部屋を出る。
襖が閉じるのを待って、七織は筆を置いた。
「先に確認します。為澄殿に、妻になるよう強要されましたか」
「いいえ」
「断れば官へ引き渡すと脅された?」
「拘束される可能性は説明されました。ただし、それは為澄さんが拘束すると言ったのではなく、官に発見された場合の予測です」
「身体に触れられましたか」
「危険から引き上げられた時と、監察役の前で手を重ねられた時に」
「それ以外には?」
「ありません」
七織は頷き、再び筆を取った。
警戒していた理由が分かる。
第一皇子と官吏が協力して、異界から来た女を男の家へ押し込めた、と見ることもできる。
「今の質問も、記録に残しますか」
「残します。あなたが自分の意思でここにいることは重要ですから」
好感を持てる回答だった。
それから私は、神社で鈴に触れてから常磐家の庭へ落ちるまでを説明した。
七織は必要なところだけ質問した。
「一度目と二度目の鈴は、同じ音でしたか」
「二度目の方が遠く聞こえました。音量ではなく、距離の感覚です」
「黒いものが現れたのは、何度目の前?」
「三度目です。鈴緒を下から上へ移動しました」
「黒いものに匂いは?」
「気づきませんでした。次に見た時は確認します」
「近づかないでください」
「可能なら」
「絶対に」
記録官というより、少し姉に近い口調だった。
「ところで」
七織は新しい紙を広げた。
「あなたの証言が事実だと、どう判断すればよいでしょう」
「現時点では判断できません」
「自分の話なのに?」
「私が嘘をついている可能性も、幻覚を見た可能性もあります。スマートフォンはこの国の品でないことを示せても、別世界の存在を直接証明するとは限りません」
「すまあと……」
「あとで見せます」
「助かります」
七織は真面目に書き留めた。
「では、事実として記録できるのは?」
「私が昨夜、境界異常の起きた場所に現れたこと。未知の物品を所持していること。私自身は別世界から来たと主張していること。この三つです」
七織の筆が止まった。
「あなたも記録官になれそうですね」
「生命工学を学んでいただけです」
「記録は、学問を選びません」
彼女は少し笑った。
「事実を残すのが、私の仕事です。ただし、何を事実として残すかを決めるのは人です」
「つまり、記録にもバイアスがある?」
「ばい……?」
「偏りです」
「それなら、ええ。山ほど」
誠実な回答だ。七織とは、うまくやれそうな気がした。
根拠は、まだ少なくとも。
◇
常磐家を出て、私は初めて求御世国の都を見た。
為澄と七織に挟まれ、屋根のついた牛車に揺られている。外を歩く方が観察しやすいと主張したが、私の髪と歩き方が目立つという理由で却下された。
簾の隙間から、通りを眺める。
瓦屋根の家々。軒先に並ぶ色鮮やかな布。木札を掲げた商店。荷を背負う人、籠を担ぐ人、牛を引く人。
都と呼ばれるだけあって人は多い。それでも、エンジン音も電子音も聞こえない街は、不思議なほど静かだった。
「戻りたいか」
隣に座る為澄が尋ねた。
「戻ります」
「質問と答えが違うな」
「戻りたいかどうかと、戻るかどうかは同じではありませんか」
「そうとは限らない」
為澄はそれ以上、何も言わなかった。
私はもう一度、簾の外へ目を向けた。
珍しいものばかりだった。
もっと見たいとも思う。
それでも、帰る。
ここがどれほど美しくても、私の人生は別の場所にある。
牛車は、高い塀に囲まれた一画へ入った。
陰陽技寮。
いくつもの棟が渡り廊下でつながり、庭には大小の観測器らしいものが置かれている。巨大な日時計。方角を刻んだ石盤。水の落ちる間隔を測る器。空へ向けられた筒。
白や灰色の衣を着た人々が、帳面や箱を抱えて行き交っていた。
「大学に似ています」
「ダイガク?」
「多くの人が、それぞれの専門を研究する場所です」
「ここも似たようなものだ」
為澄は建物を順番に示した。
「星と暦を扱う暦象司。土地や水を調べる地理司。薬や毒を扱う薬理司。そして、境と怪異を扱う境理司」
「あなたの所属ですね」
「ああ」
境理司の建物は、敷地の奥にあった。
通された部屋の中央には、石で縁取られた浅い水盤がある。その周囲を細い金属線が囲み、四方には文字を刻んだ黒い石が置かれていた。
「境映しだ」
為澄が説明する。
「物や人に残った境の揺らぎを、水面へ映す」
部屋には、すでに三人の技官が待っていた。
彼らの視線が私へ集まる。
「常磐殿。この女人が、昨夜の?」
「妻です」
為澄が先に答えた。
技官たちの視線が、今度は私と為澄の間を往復する。
「妻……?」
「その反応には同意します」
私が言うと、七織が後ろで咳払いをした。
笑ったのだと思う。
検査は、まずスマートフォンから始まった。
水盤の中央に台を置き、その上に端末を載せる。為澄が黒い石へ順番に触れると、水面に白い輪が広がった。
「揺らぎがある」
一人の技官が身を乗り出す。
「この品を分解すれば――」
「許可しません」
私と為澄の声が重なった。
互いを見る。
「私物です」
「帰還の手がかりになる可能性がある」
理由は違ったが、結論は同じだった。
「壊さず調べてください。表面の観察と寸法の測定なら許可します」
不満そうな技官を残し、次は私自身が水盤の内側へ立った。
為澄が石へ触れる。
水面に、先ほどより大きな白い輪が広がった。
「強いな」
「異界を通った影響でしょうか」
「その可能性が高い」
「比較対象は?」
「何?」
「この装置で、異界を通っていない人を測った結果です。私の数値だけでは、強いかどうか判断できません」
技官たちが顔を見合わせた。
「境映しは、怪異に触れた者を調べる器だ。何もない者を測る必要は――」
「何もない時にどう映るか分からなければ、異常かどうか比較できません」
部屋が静かになった。
為澄が最初に動いた。
「俺を測ろう。昨夜、境にも濁りにも近づいている。その次に七織殿。さらに、昨夜この邸にいなかった者を一人」
「衣服も分けた方がいいです。私の服、あなたから借りた羽織、この国で用意された衣。条件を一つずつ変えます」
「記録します」
七織がすぐに筆を走らせた。
検査は、最初の予定より長引いた。
結果、スマートフォンにも、私が現代から着てきた服にも、弱い揺らぎが確認された。為澄から借りた羽織と、この国で用意された衣にはほとんどない。
そして私自身からは、持ち物よりはるかに強い反応が出た。
「物ではなく、生きた人間だからでしょうか」
「現時点では分からない」
為澄が答える。
「調べる必要がある」
「同意します」
私は水盤の中央で、揺れる水面を見下ろした。
帰るための手がかりが、私の身体に残っている。
そう思った時だった。
白い輪の中央に、別の景色が浮かんだ。
石段。
散りかけた桜。
見慣れた、あの神社の鈴。
「待って」
私は水面へ手を伸ばした。
「義亜乃、触るな!」
為澄の声が響く。
水の中の鈴が、ひとりでに揺れた。
からん。
聞こえるはずのない音がした。
水面の下から、墨を垂らしたような黒が広がる。
為澄が私の腕を掴み、水盤の外へ引き寄せた。
直後、黒い染みが水面を突き破った。
細い腕のように伸び、私が立っていた場所を探る。
為澄が札を投げる。
青白い炎が走り、黒は水の中へ押し戻された。
石の縁に亀裂が入り、水面から景色が消える。
私は為澄に抱き寄せられたまま、割れた水盤を見つめた。
昨夜、濁りが私を追ってきたのではない。
逆かもしれない。
私がいる場所へ、濁りが現れた。
帰還の手がかりが私の中にあるのなら。
同じ場所に、こちらへ来るための入口もあるのかもしれなかった。




