第七話 さしずめ、気持ちの整理
古い記録には、再現実験が難しいという欠点がある。
百年前の人間に、同じ条件でもう一度試してもらうことはできない。
その上、土地の名前も、川の流れも、人の住む場所も変わる。
「当時の鳥居があった場所は、この辺りです」
七織が古い地図の一点を指した。
翌日の昼過ぎ。
私たちは陰陽技寮の一室で、昨夜見つけた記録と、年代の異なる五枚の地図を並べていた。
経過観察中に新たな異常は起きず、私と為澄の隔離は予定通り解除された。
危険ではないと証明されたわけではない。
少なくとも、常時危険という仮説が棄却されただけだ。
「現在の地図では、どこですか」
「それが分からないんです」
七織は困ったように筆の柄を唇へ当てた。
「昔の都は今より小さく、道の位置も違います。目印にされた寺は焼失していますし、川も治水工事で流れを変えています」
「記録に距離は?」
「『東の門より、朝日の方へ半刻』と」
「移動手段は」
「書かれていません」
「歩いたのか、牛車なのか、馬なのかで変わりますね」
記録には偏りがある。
そして、必要な情報が必ず残されているとも限らない。
為澄は一番古い地図と現在の地図を見比べていた。
「動いていないものを基準にできないか」
「山ですね」
私は二枚の地図に描かれた稜線を見た。
山そのものは動かない。ただし、描いた人間の精度は信用できない。
「この三つの峰から鳥居までの向きを、それぞれ推定しましょう。川や道は参考程度にして、複数の線が重なる範囲を探します」
「なるほど」
為澄が別の紙を広げた。
「俺が線を引く。ギィは方角を見てくれ」
七織の筆が一瞬、止まった。
私は止めなかった。
「北側の峰は、もう少し西です」
「ここか」
「はい。次は南東の峰から」
ギィと呼ばれることに同意した覚えはない。
しかし毎回訂正するコストと効果を比較すると、放置した方が効率的だった。
為澄がその呼び名を気に入っているようにも見えたから、というのもある。
三本の線が重なったのは、現在の都の東南にある川辺だった。
「昔の川筋からは外れていますね」
「川が移されたあと、元の土地はどうなりましたか」
私が尋ねると、七織は新しい地図の文字を追った。
「一部は埋め立てられています。ただ、この辺りは今の川に削られています」
「つまり、鳥居があった土地は川の中ですか」
「可能性があります」
為澄が立ち上がった。
「日が暮れる前に行こう」
「今からですか」
「記録では、夜ごと鈴が鳴った。明るいうちと暮れたあと、両方を見る」
「賛成です」
七織がため息をついた。
「お二人とも、決める前に記録官の予定を聞いていただけますか」
「予定がありますか」
「ありませんが、聞くことが大切なんです」
「では、同行をお願いできますか」
「記録のために同行します」
七織は帳面を閉じた。
少しだけ嬉しそうに見えた。
◇
都の東南を流れる川は、私が想像していたより広かった。
両岸には土手が築かれ、一定の間隔で柳が植えられている。川面は午後の光を反射し、風が吹くたび細かく砕けた。
都の中心から離れているため、人通りは少ない。
私たちは川沿いを歩き、地図で絞った範囲を調べた。
為澄が使うのは、掌に載るほどの方位盤だった。中心に細い針があり、境の揺らぎが強い場所では北ではなく、その発生源を指すという。
「便利ですね」
「不安定だ。水の多い場所では、地脈の流れに引かれる」
「測定誤差が大きい?」
「そういうことだ」
私と七織は、方位盤の針が振れた場所と向きを記録した。
一度の結果では決めない。場所を変え、時間を置き、同じ測定を繰り返す。
五度目の測定で、針は川の中央を指した。
「あそこです」
七織が水面から突き出た石を示した。
自然石ではない。
表面の大半は削られているが、上部に四角い穴があった。鳥居の柱を支えていた礎石かもしれない。
「川の流れを変えた時、撤去されなかったんでしょうか」
「大きすぎて残したのかもしれない」
為澄は土手を下り、水際まで近づいた。
「ここだけ、水の流れが不自然だ」
礎石の周囲だけ、川面が凪いでいる。
流れの中に、円形の鏡を置いたようだった。
「昨日の境映しに似ています」
「日が落ちるまで待とう」
私たちは土手へ戻った。
七織が持参した敷物を広げ、観測場所を決める。為澄は周囲へ四枚の札を置いた。
待っている間、遠くから子供たちの笑い声が聞こえた。
川下では、小さな舟が網を引いている。
穏やかな景色だった。
「昨夜の濁りが出ても、すぐ水へ近づくな」
為澄が言った。
「分かっています」
「昨日もそう言って、手を伸ばした」
「映像を確認しようとしただけです」
「黒いものが出たあとも?」
「あれは想定外でした」
「だから言っている」
反論できない。
「今回は近づきません」
「本当に?」
「確認の仕方が、怪我の時と同じですね」
「信用できる回答が返ってこないところも同じだ」
「では、必要があれば止めてください」
「最初からそのつもりだ」
当然のように言われる。
それが少しだけ心強いと思ったことは、記録しないでおく。
太陽が山の端へ近づいた。
水面を照らしていた橙色の光が薄れ、対岸の柳が黒い影へ変わっていく。
異変は、前触れなく起きた。
川の流れが消えた。
音は聞こえている。礎石の周囲だけでなく、川幅いっぱいに水は流れている。
けれど目に見える水面は、完全に静止していた。
次の瞬間、川に夜が映った。
まだ空には夕暮れの明るさが残っている。
それなのに、水面の中だけが暗い。
無数の光が並んでいる。
高い建物。白い街灯。赤から青へ変わる信号機。何台もの自動車が、光の帯を作って走っていく。
「日本……」
声が漏れた。
東京かどうかは分からない。
私の知っている街でもない。
それでも、あれは現代の日本だった。
人工の光で夜を追い払う、私のいた世界だ。
気づけば、私は立ち上がっていた。
「ギィ」
為澄が私の袖を掴んだ。
「近づかないと言っただろう」
「映っているんです。向こう側が」
「分かっている」
「だったら――」
「今、水へ入っても戻れるとは限らない」
正しい。
正しいことが、ひどく腹立たしかった。
(腹立たしい……?)
いや、為澄が正しいなら、私の性格的に納得が出来るはずだ。私は、そういう性質だ。
もしかしたら、境そのものに「人を惑わす力」があるのでは……?
「……映りませんね」
七織が、水面を写し取るための鏡を構えていた。
鏡には、ただの川が映っている。
「人の目にだけ見えているのでしょうか」
「三人が同じ幻を見ている可能性もある」
私が言うと、為澄が頷いた。
「帰ってから、それぞれ見たものを書こう。相談せずに」
「一致する箇所を比べるんですね」
「ああ」
その時、水面の街に雨が降り始めた。
濡れた道路を、傘を差した人々が歩いていく。
母は今、何をしているだろう。
私が散歩に出たまま戻らず、どれほど心配しているだろう。
父は警察へ何を説明しただろう。
入社式に私が現れなければ、磐葉技研は――
街の光の下に、黒い染みが浮かんだ。
「濁りです」
七織の声が強張る。
黒は道路を覆わず、水面のこちら側へ滲み出そうとしていた。
為澄が札へ手を伸ばす。
「待ってください」
「何をする気だ」
「何もしません。考えるのをやめます」
私は街から目をそらした。
そうだ、「マインドセット」だ。
想いに物質が反応する、なんて、私のいた世界ではあり得ないことだ。だが、ここにはもしかしたらそれがある、その可能性がある。
自分の気持ちを制御する。
両親のことも、会社のことも、帰る方法も考えない。
代わりに、足元の草の本数を数えた。
一、二、三。
葉の幅。色。先端の形。
呼吸を一定にする。
「濁りが薄くなっています」
七織が言った。
川を見ると、黒い染みは小さくなっていた。
やがて街の灯りとともに消え、水面へ夕暮れが戻った。
誰もしばらく口を開かなかった。
「今のは」
為澄が、慎重に言葉を選ぶ。
「お前の考えに反応したのかもしれない」
「可能性はあります。ただ、まだ一度です」
「分かっている。結論にはしない、だろう?」
七織の筆が紙の上を走る。
「ですが、仮説としては記録します」
「お願いします」
帰ることを強く考えた時、向こう側が現れた。
家族を思った時、濁りが現れた。
二つは同じ現象なのか。
帰りたいという願いそのものが、境を開こうとしているのか。
現時点では、何も分からない。
それでも、向こう側は見えた。
私の世界は消えていない。
手が届かないだけで、確かに存在している。
「帰れると思いますか」
私は為澄に尋ねた。
「今日だけで、それを断言はできない」
「そうですよね」
「だが、道があることは分かった」
為澄は川を見たまま言った。
「見えた道なら、調べられる。調べられるものなら、いつか開ける」
「私も、そう思います」
「なら、帰ろう」
為澄が私へ手を差し出した。
一瞬、意味が分からなくなる。
「常磐家へ、だ。暗くなる」
「紛らわしい言い方をしないでください」
「すまない」
私はその手を取った。
今日見つけた道の先ではなく、今夜戻る家へ向かうために。
「行くぞ、ギィ」
為澄が私の名を短く呼ぶ。
今度は訂正しなかった。
この世界で私をその名で呼ぶ人は、まだ一人しかいない。
だが、その呼び名は、為澄にだけ独占していて欲しい。
そう、一瞬だけ願ってしまった。




