第三話 さしずめ、当然の疑念
妻になったからといって、心の底から夫婦らしくなれるわけではない。
当たり前である。
常磐為澄という男について、私が知っていることは少ない。
二十代半ばと思われる。顔がいい。陰陽技寮という官営機関で、境界に関する研究をしている。未知の現象を頭から否定せず、身元不明の女を助ける程度には親切で、法律を破れば職を失う立場にある。
最後の情報については、知らない方がよかったかもしれない。
客観的に考えてみれば、顔が良く、声が良く、背が高く、どう考えても私とは釣り合ってない夫、というところも気になる。
私の「本来の人生プラン」で考えていた未来のパートナーよりも、明らかに上振れてしまっている。
本来、私は顔より性格を優先する派なのだ。
理由は単純。
夫の顔がブサイク過ぎて死んだ女はほぼいないが、性格が悪すぎて死ぬ女は結構いるからである。
「美人は3日で慣れる」と言うが、慣れた結果、目が肥えすぎるのはその後の人生に悪影響を与えそうだ。まずい。
「本当に大丈夫なんですか」
私は為澄の三歩後ろを歩きながら聞いた。
先ほど落ちてきた庭は、常磐家の邸の奥にあったらしい。渡り廊下を進むたび、板張りの床が小さく鳴る。軒先には青白い灯りが吊られ、紙で覆われているはずなのに、風を受けても揺れていなかった。
「何がだ」
「すべてです」
「範囲が広いな」
「私を妻だと偽ることも、それによってあなたが処罰される可能性もです。そもそも、遠縁ではいけない理由をまだ聞いていません」
「常磐家の血縁は、官が把握している。存在しない親族を作れば、すぐに露見する」
「使用人なら?」
「都で奉公する者にも、出身地と身元を保証する者が要る。それに、使用人として届ければ、行動範囲が限られる。」
為澄は足を止め、私を振り返った。
「妻なら、当主である俺の判断で家籍に入れられる。常磐家の内情を知っていても不自然ではない。官から呼び出されても、俺が同席を求めることも出来る」
「つまり、あなたの庇護下に置くための肩書なのですね」
「その理解でいい」
妻という単語が持つ情緒を取り除けば、話は分かりやすい。
常磐家当主の保護対象。
臨時の身元保証制度。
そう考えることにする。
「婚姻は、そんなに簡単に成立するんですか」
「夫婦が互いに認め、家籍に記せば成立する。家同士の婚姻なら、話は別だが」
「私は家同士に含まれない?」
「身一つで嫁いできた者も珍しくない」
「念のため確認しますが、離縁もできますよね」
「帰る方法が見つかれば、その日にでも」
「分かりました」
帰るまで。そう期限を置けば、多少は受け入れやすくなる。
別に嫌なのではない。だが、申し訳無さが勝るのだ。
婚約者はいないと言ってはいたが、相応の嫉妬くらいは浴びる可能性を感じざるを得ない。
為澄が再び歩き出した直後、廊下の向こうから荒い足音が聞こえた。
「兄上!」
若い男が角を曲がって現れた。
為澄より少し明るい黒髪を高い位置で結び、赤茶色の衣を着ている。年齢は十代後半くらいだろう。片手に木刀を持ち、今にも誰かと戦えそうな格好だった。
「庭の封が破れたと聞いたぞ。何が――」
彼の目が私に止まった。
「誰だ、その女」
当然の質問だった。
「義亜乃だ」
「名前を聞いてるんじゃない。なぜ兄上の後ろを歩いている」
「今から俺の妻になる」
「は?」
代わりに説明してほしいと思っていたが、説明が短すぎる。
「兄上の妻?」
「そうだ」
「聞いてないぞ!」
「今、決めた」
「今!?」
声が大きい。
おそらく私が同じ反応をしていたとしても、彼ほど適切には表現できなかっただろう。
「為澄さん」
「なんだ」
「必要な情報まで省略すると、かえって説明に時間がかかるのでは」
「そうだな」
素直に認めるところは評価できる。
「焔基。場所を移す。千景も呼んでくれ」
「その前に説明してくれ!」
「二人まとめて話す」
焔基と呼ばれた青年は納得していない顔をしていたが、兄の言葉には従った。
私についていくつかの視線を残して、来た道を引き返す。
「弟ですか」
「次弟の焔基だ。少々、声が大きい」
「よく通る声だと思います」
「気を遣わなくていい」
「では、大きいです」
為澄が小さく笑った。
案内された部屋は、中央に低い卓が置かれた十畳ほどの和室だった。畳によく似た敷物がある。けれど香りは少し違い、い草ではなく、乾燥させた別の植物を編んだものらしい。
私は勧められた座布団に正座した。
パンツ姿で正座している私と、向かいで衣の裾を整えて座る為澄。
夫婦には見えない。
それ以前に、同じ時代の人間にも見えなかった。
まもなく焔基が戻ってきた。後ろに、もう一人いる。
十二、三歳ほどの少年だった。肩に届く黒髪を後ろで結び、焔基と似た顔立ちをしている。ただ、こちらは警戒より好奇心が勝っているらしい。私の服や髪を隠すものもない顔で眺めていた。
「末弟の千景だ」
「千景です」
少年は丁寧に頭を下げた。
「久世義亜乃です。よろしくお願いします」
私も頭を下げる。
「義亜乃殿は、兄上の奥方になるのですか」
「その予定らしいです」
「おい、他人事みたいに言うな」
焔基が卓を挟んで私を睨んだ。
私もそう思う。
為澄は、庭の境が開いたこと、そこから私と濁りが落ちてきたこと、私が異なる世界から来たと話していることを説明した。
兄弟は黙って聞いていた。
最初に口を開いたのは焔基だった。
「それを信じたのか」
「まだ確定はしていない」
「なら、陰陽技寮へ引き渡せばいい」
「異界人を官がどう扱うか分からない」
「だからって、兄上が罪を負う必要はないだろ!」
焔基は卓に両手をついた。
私への敵意というより、兄を危険に近づけたくないらしい。
その感情は理解できる。
「私も、最初は反対しました」
「なら断れ」
「ですが、私は拘束されたくありません」
「正直だな」
「嘘をついて好感度が上がる状況ではなさそうなので」
焔基の眉間の皺が深くなった。
千景は隣で、なぜか少し笑っている。
「証拠はあるのですか」
千景が尋ねた。
「確実なものではありませんが、これは私の世界で作られた道具です」
私はスマートフォンを卓の上に置いた。
画面を点灯させると、二人が同時に身を乗り出す。
「光った!」
「触るな、千景。術が仕込まれているかもしれない」
「術ではありません。電気で動きます」
「デンキ?」
「説明すると長くなります」
電気を発電から説明するべきか、電子の移動から説明するべきか。
どちらにしても、この場には適さない。
私は保存されていた写真を表示した。大学の正門、研究室、駅前の高層ビル群。指を滑らせるたびに景色が切り替わり、千景の目が大きくなる。
「この小さな板の中に、景色を閉じ込めているのですか」
「記録しているんです。閉じ込めているわけでは――似たようなものですね」
「この建物、山より高いのですか」
「さすがに山よりは低いです」
「馬が一頭もいないのに、なぜこんなに車があるのです?」
「これも説明すると長くなります」
質問の多い少年だった。
嫌いではない。
指が滑り、実家で撮った写真が表示された。
桜の木の下で、両親と三人で写っている。
母は目を閉じて笑い、父は慣れない自撮りで画面の端が切れている。私は二人の間で、今より少し短い髪を風に乱されていた。
胸の奥が、急に狭くなった。
画面を消す。
「もういいでしょうか。電池……動力を節約したいので」
自分でも分かるほど、声が硬かった。
「ああ」
為澄は何も尋ねなかった。
千景も口を閉じた。
焔基だけが、先ほどよりわずかに弱い目で私を見ていた。
「この人が、本当に異界から来たとして」
焔基は兄へ向き直った。
「妻にする必要まであるのか」
「ある。家籍のない者を守るには、それが一番確実だ」
「兄上は、また何でも自分だけで決める」
為澄は答えなかった。
ほんの短い沈黙だった。
けれど、今の言葉は今回だけに向けられたものではない気がした。
「私は、兄上が決めたのなら反対しません」
千景が言った。
「義亜乃殿のお話も、もっと聞きたいです」
「千景、お前は珍しい話を聞きたいだけだろ」
「それもあります」
否定しないらしい。
「ただ、一つお願いがあります」
千景は私に向かって姿勢を正した。
「兄上を悪い人にしないでください」
「千景」
為澄がたしなめるように名を呼ぶ。
私は少し考えてから答えた。
「約束はできません」
焔基の表情が険しくなった。
「私には、この国の法律も、この人のこともまだ分かりません。結果的に迷惑をかける可能性はあります。だから、絶対とは言えません」
千景は黙って私を見ている。
「でも、あなたのお兄さんが私を守ろうとしてくれたことは分かっています。ですから、私も、この人が不必要な危険を負わない方法を探します」
「それなら、十分です」
千景は笑った。
焔基はまだ納得していない様子だったが、少なくとも木刀を抜く気はなくなったらしい。
その後、私は客間へ通された。
女物の衣は、明朝までに用意するという。それまで目立つ現代の服を隠すため、為澄の羽織を借りることになった。
青灰色の、柔らかな布だった。
袖を通すと、当然ながら大きい。指先まで隠れ、裾も膝近くまである。
「嫌なら、別の布を探させるが」
「必要ありません。場に馴染む、最善のものを選んで頂いたのだと思っています」
「そうか」
為澄はそう答えたが、私の姿を見て一度だけ視線をそらした。
大きすぎて滑稽なのだろうか。
聞くほどのことではないので、放置した。
「食事を運ばせる。食べられないものはあるか」
「特には。あなたは?」
「俺?」
「夕食は済ませたんですか」
為澄は答えなかった。
この人は、他人の食事を気にしながら、自分の食事を忘れる種類の人間らしい。
「一緒に食べましょう」
「なぜ」
「夫婦に見せるための打ち合わせが必要です。食事をしながらなら効率がいいのでは」
半分は本当だった。
残りの半分については、あえて説明しないことにした。
「分かった。では、そうしよう」
為澄が部屋を出ようとした、その時だった。
遠くで慌ただしい足音が響いた。
すぐに、廊下の向こうから焔基の声がする。
「兄上! 客だ!」
「こんな時刻に誰だ」
「第一皇子殿下だ! 庭の異変を聞きつけて、もう門前まで来ている!」
為澄が目を閉じた。こちらをちらりと見ると、心底困った顔を見せた。
「予定を変更する」
「夕食を?」
「打ち合わせを、だ」
為澄は私を見た。
「悪いが、今から妻のふりをしてくれ」
私は借り物の羽織から出ない指先を見下ろした。
服装すら整っていない。
夫について知っていることは、十項目にも満たない。
しかも、最初に騙す相手が皇族であるという。
「分かりました」
私は顔を上げた。
「最低限、まずは出会った時期と場所を決めましょう。証言が食い違えば、その場で終わります」
為澄が、少し驚いたように私を見る。
「間に合うと思うか」
「間に合わせます」
運命より、事前準備の方が信用できる。
たとえ、そのために使える時間が五分しかなくても。




