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さしずめ、リケジョのロマンタジー  作者: 不連続がと


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2/7

第二話 さしずめ、不相応な伴侶

 背中に衝撃を受けた。


 肺から空気が押し出され、私は声も出せずに身体を丸めた。




「――誰だ」




 男の声がした。




 近い。




 息を吸いながら、目を開ける。




 月が見えた。




 先ほどまで午後だったはずなのに、空は深い藍色に染まっている。見慣れない形の屋根が夜空を切り取り、その軒先には白い花をつけた枝が伸びていた。




 桜ではない。




 雪だ。




 枝の周囲だけに、細かな雪が降っている。




「動けるか」




 もう一度、声がした。




 私は視線を向けた。




 男が一人、少し離れた場所に立っている。




 二十代半ばほどだろう。黒髪を後ろで緩く束ね、濃紺の衣をまとっている。和服に似ているが、私が知っている着物とは形が違った。




 片手には、細長い紙片を挟んでいる。




 札のように見えた。




 男は私を警戒していた。それでも、今すぐ危害を加えるつもりはないらしい。腰を落とし、いつでも動ける姿勢を保ちながらも、こちらへ向けているのは武器ではなく、空いた左手だった。




「立てるなら、そこから離れろ」




「理由を聞いても?」




「足元を見ろ」




 言われた通りにする。


 私が倒れていた地面に、黒いものが広がっていた。




 影ではない。水でもない。




 神社の鈴緒を這っていたものと同じだ。


 黒い染みは私の身体へ触れようとするように、細い枝を何本も伸ばしている。




 理解するより先に、差し出された手を取った。




 男が強く腕を引く。身体が持ち上がり、その胸元へ倒れ込んだ。


 次の瞬間、男の指に挟まれていた紙片が淡く光った。




「退け」




 静かな声だった。




 光が走る。




 地面の黒い染みが大きく身をよじり、声のない悲鳴を上げるように縮んでいく。男は私を片腕で支えたまま、光の消えた紙片を黒いものへ投げた。




 紙片は地面へ落ちず、宙で燃えた。




 青白い炎だった。黒い染みは炎に包まれ、やがて跡形もなく消えた。




 私は男の腕の中で、それを見届けた。




「怪我は」




「……たぶん、ありません」




「そうか」




 男は私を立たせると、すぐに腕を離した。




 もう一度、地面を確認する。周囲に同じ黒い染みがないことを確かめてから、私へ向き直った。




 顔が……良い。


 かなり。




 涼しげな目元に、通った鼻筋。整ってはいるが、冷たい印象ではない。私を見る眼差しには、もう警戒より気遣いの方が強くなっていた。




 衣装といい、燃えた札といい、何かの撮影だろうか。




 そう考えるには、地面が揺らいで落下した感覚も、黒い染みも、目の前で紙が燃えた現象も鮮明すぎた。




「名を聞いてもいいか」




「久世義亜乃(くぜ ぎあの)です。あなたは?」




「常磐為澄(ときわ いすみ)」




 ときわ、いすみ。




 芸名にしては渋い。




「ここは、どこですか」




 為澄と名乗った男は、すぐには答えなかった。




「その前に、こちらからも聞きたい。お前はどこから来た?」




「神社です」




「ジンジャ?」




 発音を確かめるように繰り返される。




「神を祀る場所です。森の近くにあって、鳥居と本殿があって……鈴に触れたら、足元が崩れました」




「神殿か。だが、その服は都のものではないな」




 服。




 私は自分の格好を見下ろした。




 白いカットソーに細身のパンツ、スニーカー。薄手の上着。確かに、為澄の服装とはまるで違う。




「今は、西暦何年ですか」




「セイレキ?」




「な、なら……この、国の名前は?」




「求御世国(もとみよこく)だ」




 聞いたことがない。




「この近くに、東京という都市は?」




「ない」




「日本は」




「知らない」




 為澄は、私の表情を見たあと、庭の一角を示した。




「ここへ来た時、あの境から落ちてきたのか」




 そこには、赤い鳥居があった。




 私がくぐったものより一回り小さい。鳥居の内側には夜の森ではなく、白い靄が満ちている。




 異なる時間。異なる国。


 見たことのない技術、あるいは現象。




 情報は少ない。断定できる段階ではない。




 それでも、この状況に最もよく似合う分類を、私は知っていた。




「さしづめ、異世界転移というところでしょうか」




「いせかい、てんい?」




「私のいた場所では、創作上の分類として一般的でした。現実に起きるとは思っていませんでしたが」




「ずいぶん落ち着いているな」




「取り乱して元へと戻れる可能性が上がるなら、そうしたいのですが」




 一瞬の沈黙のあと、為澄が笑った。




 声を立ててではない。




 ただ、張り詰めていた目元がわずかに和らいだ。




「もっともだ」




「信じるんですか」




「何を」




「私が、別の世界から来たという話を」




「現にお前は境から落ちてきた。見慣れぬ服を着て、存在しない国の名を口にしている」




「嘘をついている可能性もあります」




「あるな」




 為澄はあっさり認めた。




「ならば調べればいい。お前が何者か。あの濁りがなぜお前を追っていたのか。境がどこへつながっているのか」




 科学という言葉を使わなくても分かった。




 この人は、分からないものを、分からないまま扱える人間だ。




 それだけで、少し呼吸がしやすくなった。




「あなたは、こういう現象の専門家ですか」




「専門家と言い切れるほど、境について分かってはいない。だが、調べることを仕事にはしている。陰陽技寮(おんみょうぎりょう)、境理司(きょうりし)の常磐為澄(ときわいすみ)だ」




 聞き慣れない名称ばかりだった。




 けれど、所属と職務を先に示すあたりは、薄いとはいえ信用材料になりそうだ。少なくとも、自称神の使いや自称賢者よりは話が早そうだった。




 為澄は鳥居へ近づき、白い靄へ手をかざした。


 靄の表面に淡い波紋が広がる。




「閉じている、か」




「戻れませんか」




「今すぐには」




「今すぐには、ということは、可能性はある?」




「ある。だが、確約はできない」




「十分です」




「嘆かないのか」




「嘆きたいところではありますが」




 実家。両親。五日後に控えた入社式。段ボール箱の上の、磐葉技研と印刷された封筒。




 考えると、胸の奥と、背中が冷たくなる。


 戻れなければ困る、などという程度の話ではない。


 それでも、泣くのはまだ早い。




 戻れないと決まったわけではない。




 さらに言えば、ネガティブの道を極めた私は知っているのだ。


 ネガティブに見たなら、ピンチでネガティブであるメリットは薄い。


 だからポジティブに生きる方が良いのだと。




「ただ、帰る方法を探すことには協力して頂けると……助かるのですが」




「無論だ。お前が望むなら」




 為澄は当然のように答えた。




 私は初めて、彼を正面から見返した。




 知らない世界で、最初に会った人間。




 味方だと決まったわけではない。


 信用するには情報が足りない。


 しかし現時点で、彼以外に頼れる相手がいないのも事実だった。




 遠くで鐘の音が響いた。


 今度は、神社の鈴ではない。




 為澄の表情が変わる。




「まずいな」




「何がですか」




「夜の鐘が鳴った。間もなく都の夜回りが始まる」




「見つかると問題が?」




「身元の知れぬ者が都の官吏の邸に現れたとなれば、少々面倒だ」




「少々で済むものですか」




「済ませたいとは思っている」




 為澄は庭の鳥居と私を交互に見た。




「今夜はここにいろ。あの境も濁りも、明るくなってから調べる」




「分かりました」




「だが、その前にお前の身分をどうにかしなければならない」




「身分?」




「都に住む者は籍を持つ。お前にはない。異国人だと言えば役人が来る。異界から来たと正直に話せば、役人だけでは済まないだろう」




「研究対象にしたくなるのでは?」




「聡いな」




「それは困ります」




「だろうな」




 為澄はしばらく考え込んでいた。




 やがて何かを決めたように、私を見る。




「一つ、方法がある」




「聞きます」




「俺の遠縁として、この家で保護する」




「無理がありませんか。名字も違いますし、服装もこの通りです」




「なら、家の者にしてしまえばいい」




「養子ですか」




「いや」




 為澄の返答は短かった。


 なぜか、その先を聞いてはいけない気がした。


 しかし聞かなければ、話が進まない。




「具体的には?」




「妻だ」




 私は黙った。




 聞き間違いの可能性を検討する。




 低い。




「誰の?」




「俺の」




「私が?」




「そうだ」




 為澄は真顔だった。




 冗談を言っているようには見えない。それが余計に困る。




「婚姻の記録はどうするんですか」




「事情を話せる相手がいる。記録は整えられる」




「詐称では?」




「そうかもな」




「発覚した場合の罰などは」




「俺は職を失うかもしれない」




「却下します」




「だがそうしなければ、お前は拘束されるかもしれない」




「再検討します」




 私は額に手を当てた。




 異世界へ来てから、おそらく一時間も経っていない。


 帰る方法は不明。




 得体の知れない黒いものに追われ、この国には戸籍がなく、官吏に見つかれば拘束される可能性がある。


 そして唯一協力的な男から、妻を名乗るよう提案されている。


 条件を整理しても、何一つ好転しなかった。




 為澄が静かに言った。




「もちろん、本当に夫婦になれと言っているわけではない。身分上、必要な時だけ合わせてくれればいい。部屋も別にする。お前の意思に反することは何もしない」




「ありがたい申し出ですが。それで成立しますか」




「させてみせよう」




 為澄は頷いた。


 その言葉を、今のところ疑う根拠はない。


 信じる根拠も足りない。


 結論を出すには、条件も、比較対象も、何もかもが不足している。




 それでも夜は来る。


 役人も来る。




 人生は選択の積み重ねだ。


 選択肢が豊富に用意されているとは限らない。




「いくつか、確認させてください」




「何だ」




「あなたは未婚ですか」




 為澄は目を瞬いた。




「未婚だ」




「実は婚約者がいて、あとから私が恨まれる可能性は?」




「ない」




「妻のふりをすることで、身体的な接触を求められることは?」




「させない」




「報酬は」




「帰る方法を探す。衣食住も保証する」




「私に求める役割は?」




「聞かれた時に、俺の妻だと答えること。それだけだ」




 悪い条件ではない。


 というより、他に方法がない。




 私は一度、深く息を吸った。




「分かりました。暫定的に、その案を採用します」




「暫定的に?」




「より安全な案が見つかれば、そちらへ切り替えます。あなたへ負担を強いるのも忍びないですし」




「構わない」




 為澄はまた、わずかに笑った。




「では、義亜乃」




 夜風が吹く。




 季節外れの雪が、白い花びらのように二人の間を通り過ぎた。




「今夜から、お前は俺の妻だ」




 私は運命を信じない。




 信じてはいないが。




 守りを固め、安定に徹したはずの私の人生設計。


 それはこの日、寓話の如く打ち砕かれたのだった。

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