第二話 さしずめ、不相応な伴侶
背中に衝撃を受けた。
肺から空気が押し出され、私は声も出せずに身体を丸めた。
「――誰だ」
男の声がした。
近い。
息を吸いながら、目を開ける。
月が見えた。
先ほどまで午後だったはずなのに、空は深い藍色に染まっている。見慣れない形の屋根が夜空を切り取り、その軒先には白い花をつけた枝が伸びていた。
桜ではない。
雪だ。
枝の周囲だけに、細かな雪が降っている。
「動けるか」
もう一度、声がした。
私は視線を向けた。
男が一人、少し離れた場所に立っている。
二十代半ばほどだろう。黒髪を後ろで緩く束ね、濃紺の衣をまとっている。和服に似ているが、私が知っている着物とは形が違った。
片手には、細長い紙片を挟んでいる。
札のように見えた。
男は私を警戒していた。それでも、今すぐ危害を加えるつもりはないらしい。腰を落とし、いつでも動ける姿勢を保ちながらも、こちらへ向けているのは武器ではなく、空いた左手だった。
「立てるなら、そこから離れろ」
「理由を聞いても?」
「足元を見ろ」
言われた通りにする。
私が倒れていた地面に、黒いものが広がっていた。
影ではない。水でもない。
神社の鈴緒を這っていたものと同じだ。
黒い染みは私の身体へ触れようとするように、細い枝を何本も伸ばしている。
理解するより先に、差し出された手を取った。
男が強く腕を引く。身体が持ち上がり、その胸元へ倒れ込んだ。
次の瞬間、男の指に挟まれていた紙片が淡く光った。
「退け」
静かな声だった。
光が走る。
地面の黒い染みが大きく身をよじり、声のない悲鳴を上げるように縮んでいく。男は私を片腕で支えたまま、光の消えた紙片を黒いものへ投げた。
紙片は地面へ落ちず、宙で燃えた。
青白い炎だった。黒い染みは炎に包まれ、やがて跡形もなく消えた。
私は男の腕の中で、それを見届けた。
「怪我は」
「……たぶん、ありません」
「そうか」
男は私を立たせると、すぐに腕を離した。
もう一度、地面を確認する。周囲に同じ黒い染みがないことを確かめてから、私へ向き直った。
顔が……良い。
かなり。
涼しげな目元に、通った鼻筋。整ってはいるが、冷たい印象ではない。私を見る眼差しには、もう警戒より気遣いの方が強くなっていた。
衣装といい、燃えた札といい、何かの撮影だろうか。
そう考えるには、地面が揺らいで落下した感覚も、黒い染みも、目の前で紙が燃えた現象も鮮明すぎた。
「名を聞いてもいいか」
「久世義亜乃です。あなたは?」
「常磐為澄」
ときわ、いすみ。
芸名にしては渋い。
「ここは、どこですか」
為澄と名乗った男は、すぐには答えなかった。
「その前に、こちらからも聞きたい。お前はどこから来た?」
「神社です」
「ジンジャ?」
発音を確かめるように繰り返される。
「神を祀る場所です。森の近くにあって、鳥居と本殿があって……鈴に触れたら、足元が崩れました」
「神殿か。だが、その服は都のものではないな」
服。
私は自分の格好を見下ろした。
白いカットソーに細身のパンツ、スニーカー。薄手の上着。確かに、為澄の服装とはまるで違う。
「今は、西暦何年ですか」
「セイレキ?」
「な、なら……この、国の名前は?」
「求御世国だ」
聞いたことがない。
「この近くに、東京という都市は?」
「ない」
「日本は」
「知らない」
為澄は、私の表情を見たあと、庭の一角を示した。
「ここへ来た時、あの境から落ちてきたのか」
そこには、赤い鳥居があった。
私がくぐったものより一回り小さい。鳥居の内側には夜の森ではなく、白い靄が満ちている。
異なる時間。異なる国。
見たことのない技術、あるいは現象。
情報は少ない。断定できる段階ではない。
それでも、この状況に最もよく似合う分類を、私は知っていた。
「さしづめ、異世界転移というところでしょうか」
「いせかい、てんい?」
「私のいた場所では、創作上の分類として一般的でした。現実に起きるとは思っていませんでしたが」
「ずいぶん落ち着いているな」
「取り乱して元へと戻れる可能性が上がるなら、そうしたいのですが」
一瞬の沈黙のあと、為澄が笑った。
声を立ててではない。
ただ、張り詰めていた目元がわずかに和らいだ。
「もっともだ」
「信じるんですか」
「何を」
「私が、別の世界から来たという話を」
「現にお前は境から落ちてきた。見慣れぬ服を着て、存在しない国の名を口にしている」
「嘘をついている可能性もあります」
「あるな」
為澄はあっさり認めた。
「ならば調べればいい。お前が何者か。あの濁りがなぜお前を追っていたのか。境がどこへつながっているのか」
科学という言葉を使わなくても分かった。
この人は、分からないものを、分からないまま扱える人間だ。
それだけで、少し呼吸がしやすくなった。
「あなたは、こういう現象の専門家ですか」
「専門家と言い切れるほど、境について分かってはいない。だが、調べることを仕事にはしている。陰陽技寮、境理司の常磐為澄だ」
聞き慣れない名称ばかりだった。
けれど、所属と職務を先に示すあたりは、薄いとはいえ信用材料になりそうだ。少なくとも、自称神の使いや自称賢者よりは話が早そうだった。
為澄は鳥居へ近づき、白い靄へ手をかざした。
靄の表面に淡い波紋が広がる。
「閉じている、か」
「戻れませんか」
「今すぐには」
「今すぐには、ということは、可能性はある?」
「ある。だが、確約はできない」
「十分です」
「嘆かないのか」
「嘆きたいところではありますが」
実家。両親。五日後に控えた入社式。段ボール箱の上の、磐葉技研と印刷された封筒。
考えると、胸の奥と、背中が冷たくなる。
戻れなければ困る、などという程度の話ではない。
それでも、泣くのはまだ早い。
戻れないと決まったわけではない。
さらに言えば、ネガティブの道を極めた私は知っているのだ。
ネガティブに見たなら、ピンチでネガティブであるメリットは薄い。
だからポジティブに生きる方が良いのだと。
「ただ、帰る方法を探すことには協力して頂けると……助かるのですが」
「無論だ。お前が望むなら」
為澄は当然のように答えた。
私は初めて、彼を正面から見返した。
知らない世界で、最初に会った人間。
味方だと決まったわけではない。
信用するには情報が足りない。
しかし現時点で、彼以外に頼れる相手がいないのも事実だった。
遠くで鐘の音が響いた。
今度は、神社の鈴ではない。
為澄の表情が変わる。
「まずいな」
「何がですか」
「夜の鐘が鳴った。間もなく都の夜回りが始まる」
「見つかると問題が?」
「身元の知れぬ者が都の官吏の邸に現れたとなれば、少々面倒だ」
「少々で済むものですか」
「済ませたいとは思っている」
為澄は庭の鳥居と私を交互に見た。
「今夜はここにいろ。あの境も濁りも、明るくなってから調べる」
「分かりました」
「だが、その前にお前の身分をどうにかしなければならない」
「身分?」
「都に住む者は籍を持つ。お前にはない。異国人だと言えば役人が来る。異界から来たと正直に話せば、役人だけでは済まないだろう」
「研究対象にしたくなるのでは?」
「聡いな」
「それは困ります」
「だろうな」
為澄はしばらく考え込んでいた。
やがて何かを決めたように、私を見る。
「一つ、方法がある」
「聞きます」
「俺の遠縁として、この家で保護する」
「無理がありませんか。名字も違いますし、服装もこの通りです」
「なら、家の者にしてしまえばいい」
「養子ですか」
「いや」
為澄の返答は短かった。
なぜか、その先を聞いてはいけない気がした。
しかし聞かなければ、話が進まない。
「具体的には?」
「妻だ」
私は黙った。
聞き間違いの可能性を検討する。
低い。
「誰の?」
「俺の」
「私が?」
「そうだ」
為澄は真顔だった。
冗談を言っているようには見えない。それが余計に困る。
「婚姻の記録はどうするんですか」
「事情を話せる相手がいる。記録は整えられる」
「詐称では?」
「そうかもな」
「発覚した場合の罰などは」
「俺は職を失うかもしれない」
「却下します」
「だがそうしなければ、お前は拘束されるかもしれない」
「再検討します」
私は額に手を当てた。
異世界へ来てから、おそらく一時間も経っていない。
帰る方法は不明。
得体の知れない黒いものに追われ、この国には戸籍がなく、官吏に見つかれば拘束される可能性がある。
そして唯一協力的な男から、妻を名乗るよう提案されている。
条件を整理しても、何一つ好転しなかった。
為澄が静かに言った。
「もちろん、本当に夫婦になれと言っているわけではない。身分上、必要な時だけ合わせてくれればいい。部屋も別にする。お前の意思に反することは何もしない」
「ありがたい申し出ですが。それで成立しますか」
「させてみせよう」
為澄は頷いた。
その言葉を、今のところ疑う根拠はない。
信じる根拠も足りない。
結論を出すには、条件も、比較対象も、何もかもが不足している。
それでも夜は来る。
役人も来る。
人生は選択の積み重ねだ。
選択肢が豊富に用意されているとは限らない。
「いくつか、確認させてください」
「何だ」
「あなたは未婚ですか」
為澄は目を瞬いた。
「未婚だ」
「実は婚約者がいて、あとから私が恨まれる可能性は?」
「ない」
「妻のふりをすることで、身体的な接触を求められることは?」
「させない」
「報酬は」
「帰る方法を探す。衣食住も保証する」
「私に求める役割は?」
「聞かれた時に、俺の妻だと答えること。それだけだ」
悪い条件ではない。
というより、他に方法がない。
私は一度、深く息を吸った。
「分かりました。暫定的に、その案を採用します」
「暫定的に?」
「より安全な案が見つかれば、そちらへ切り替えます。あなたへ負担を強いるのも忍びないですし」
「構わない」
為澄はまた、わずかに笑った。
「では、義亜乃」
夜風が吹く。
季節外れの雪が、白い花びらのように二人の間を通り過ぎた。
「今夜から、お前は俺の妻だ」
私は運命を信じない。
信じてはいないが。
守りを固め、安定に徹したはずの私の人生設計。
それはこの日、寓話の如く打ち砕かれたのだった。




